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私の片割れは死んだ

すべてがつながった。

23階のバルコニーから飛び降りたつもりで、私は外に出た。

イヤホンで日本語のロックを聞きながら夜の豊洲を歩いている。熱を帯びた空気が暑くて重い。

ギターを持って歌う、太くてつぶれたような女性ボーカルの声は私の心臓を鷲掴みにして胸の中を共鳴する。

サブスクでありとあらゆる音楽を聴けても、心まで奪ってくれる曲には数えるほどしか出会えない。

他に何もいらない、と思える瞬間は音楽を聴いているときだけ、―その言葉を自分に言い聞かせて、空を見上げた。何色とも表現しがたい、明るくて朦朧とした真夏の東京の夜。

言葉と心のうちは乖離する。

私の片割れだったマキちゃんが死んでしまったから。

泣きたいけど、悲しすぎて涙が出ない。私たちはもう二度と会うことはないと青臭い覚悟を決めて別れ、二十年経って本当に二度と会えなくなってしまった。


精神科医の男がネットに書いたことは、基本的に的が外れている。地位があって、女の役に立ちたいと言う男は、女を服従させてちやほやされたいだけの男だ。そんな男はちやほやされるだけでは満足しない。必ず見返りを求める。そんな男に引っかかる女と入れ替わったことは何度もある。

精神科医さん、あの女の投稿は本当のこと。解離性同一性障害などというあなたの好奇心を満たしそうな病気ではないの。私は彼女と入れ替わり、豊洲のタワマンに住んでいる。彼女が見たのは、別の人格ではなくて、本当の彼女の記憶の断片。

彼女の顔をインターフォンのカメラ超しに見た時は正直驚いた。入れ替わった相手が、話があると言って目の前に現れたのは初めてのこと。私のスキルが落ちてきたのかもしれない。翌日もまた彼女が現れるかもとビクビクしていたが、肩透かしに終わった。それでも胸騒ぎがおさまらない。ネットになにか書かれていないか、暇さえあればそれだけを探していた。一か月もたって、もう大丈夫かな、と思った頃にあの書き込みを見つけた。

彼女はもう一度思い出したらしい、私と入れ替わったことを。でも、入れ替わったことをどうやって立証できるというのか? 面倒なことになるのなら、また別の人間に入れ替わってしまえばいいのだ。

彼女にこの身体を返してあげようかとも考えたけれど、いずれ入れ替わったことを完全に忘れて今の身体に馴染むはずだ。今までみんなそうだったのだから。それに、そんなことをしてはいけない。もし私が彼女にこの身体を返したら、まるで私とマキちゃんがしてきたことの罪滅ぼしみたいだ。マキちゃんがやらなかったことを、私だけがやるなんて、自分が許せない。

入れ替わった女の前で自らの命を絶ったという二番目の投稿、あれはマキちゃんのこと。私にはわかる、絶対に。

マキちゃんが最後に入れ替わったあなたは綺麗な顔をしていたのでしょうね。「他人に嫉妬されるようなものは何も持っていない」なんて書いていたけど、肝心なことを隠している。

マキちゃんは、マキちゃんの最後の身体を提供してくれて。私はあなたに会ってお礼が言いたい。



私はフラフラしながら歩いてみたかった。誰かとぶつかったり、車に轢かれる心配もなく、深夜女ひとりでフラフラ歩ける快適な街を。それなのに私の足取りはしっかりとしていた。

私はガッカリして部屋に戻り、クイーンサイズのふかふかのベッドの上に身体を投げ出した。

今まで住んだ中で最も快適な街、最も快適で標高も値段も高い部屋、最も快適で最も大きなベッド。でも、明日から四畳半一間のアパートで布団で寝ることになっても構わない。

私は執着しないことに執着して生きてきた。入れ替わりを続けるにはそれが合理的だと思ったから

入れ替わる前の人の生活を基本的に踏襲し、これがないと生きていけないなどというモノを作らない、かつて私だった痕跡を決して残さない、それが私のルールみたいなもの。

本当は真っ白なのにライトのせいで黄色に染まった天井を眺めて、私はマキちゃんを思い出す。


マキちゃんと私は十棟並んだ市営住宅の別々の棟に住んでいた、中学の同じクラスで、たいてい二人とも不機嫌な顔をしていた。私はかわいいとか美人だとかよく言われたけれど、そのせいで男子や教師からやたらと言い寄られるのが面倒でたまらなかった。マキちゃんはよく男子からブスと言われ、そのたびに不機嫌な顔になった。二人とも平均から外れた者どうし。私はマキちゃんのその不機嫌な顔が、なんともいい表情だと思っていた。不機嫌な顔を作るとき、私はマキちゃんの表情を意識した。

6年間ピアノを習ったのにたいして弾けるようにもならない。音楽は好きだったけれど、私は音楽の授業が嫌いだった。歌うことが何よりも苦手だったら。マキちゃんは歌が上手だった。普段の声も綺麗だったけれど、歌声はでうっとりするくらい美しかった。音楽の時間、マキちゃんが歌うと、普段ブス呼ばわりしている男子たちが驚いた表情を浮かべた。それに気づいたマキちゃんはわざと不機嫌な顔をする。とにかく歌っているマキちゃんは神々しいくらい、カッコよく見えた。

「マキちゃんの声が羨ましいなあ、私もマキちゃんみたいに歌えたらよかったのに」生まれて初めて本人の前でないものねだりをした相手はマキちゃんだった。

「ありがとう、実は私も自分の声は綺麗な方だろうとは思ってる」マキちゃんは告白した。「でも、声が綺麗な人の歌を聞いてもあまり面白くない、私が好きな歌手はみんな声が綺麗じゃない、でも心にぐっとくる、反対だったらよかったなあ、顔が綺麗で声が汚い人は最強なのに、私はレミちゃんみたいな顔が良かった」

私たちは仲良くなり、いつもお互いを羨ましがり、「入れ替わりたい」と口にするようになった。もちろん冗談で。でもある日本当に入れ替わってしまった。

初めて入れ替わった時はもうパニックだった。わけもわからずあたふたしているうちに1時間くらいで元に戻れた。入れ替わり方も戻り方もわからないのに、入れ替われることだけはわかった。

翌日から私たちは市立図書館に籠った。どれだけ探しても入れ替わりの方法が書いてある本など見つかるわけもない。私たちは二人で思いつく限りの仮説とシナリオを作り、「二度と元の身体には戻れない」可能性も覚悟して、二度目のトライをした。このときは戻るまで三日かかった。戻らない覚悟をしていなかったら、どうなっていたか。その覚悟を提案したマキちゃんの洞察力には思い出しても頭が下がる

私たちは少しずつ分かってきた。入れ替わることはできても、入れ替わるタイミングは自由にならない。「入れ替わりたい」と繰り返し口にしていればいつかは入れ替わる。元に戻るときは「戻りたい」と口にしてはダメ。やはり「入れ替わりたい」と口にしなければいけない。

私が将来のことを人生でもっとも一生懸命考えたのは、マキちゃんと二人で過ごしたあの時間だった。あのときの真剣さや執着を私は二度と取り戻すことはなかった。

私たちはこの不思議な能力に抗って生きることはできない、それが私とマキちゃんが二人で出した結論だった。私たちは近いうちにそれぞれが誰かと入れ替わる。もし、マキちゃんが先に誰かと入れ替わり、マキちゃんが新しい姿で現れて、この人と入れ替わったと知らされても。私はその人をマキちゃんだと思えるだろうか? きっと思えない。もし思えなかったら、入れ替わった私はこの人と入れ替わったとマキちゃんに伝えるかな? きっと伝えない。それぞれが別の人と入れ替わってしまったら、遅かれ早かれ、私たちはどこかの時点でお互いを見失う。マキちゃんと私は永遠に離れ離れになるしかない。

こんなことも考えた。映画やドラマで起こる入れ替わりは、お互い入れ替わったという意識がある。でも、マキちゃんか私と相手は入れ替わったという自覚もないかもしれない。相手だけではなく自分たちにもその自覚がない可能性がある。つまり新しい身体にすぐになじんで、前は別の人間だったことを忘れてしまう。そうなったら二度と入れ替わることはできず、私たちはその身体で残りの人生を生きていくしかない。それは恐ろしいことのように思えるけど、やってみたら案外どうでもいいことなのかもしれない。

なぜか、あの頃の頭の中が昨日のことのようによみがえる。

二人なら何でもできたかもしれない、そう思ってしまうのは、あの時の私たちがどれだけ真剣だったかをもう思い出せず、実現しなかった未来を美化しているだけなのかな? 

あの時点で私たちは、世界で一番大切な人と別れる覚悟を決めた。私の人生で一番悲しい決断だった。私たちは中学を卒業して高校に入るまでの春休みまで、できる限り二人で同じ時間を過ごした。そして高校の入学式の前日に永遠のお別れをした。

今思えばそれを言い出したのは、私じゃない、マキちゃんだ。マキちゃんは最後はこうやって終わることを予感していたのではないかな。だから私とも別れて、別の人と入れ替わるという戻る場所のない旅を始めたんじゃないかな。二人で出した結論は正しかった。私は高校に入ると早々に別の人と入れ替わってしまった。マキちゃんのその後は知らない。


人間なんて大人になっても結局はたいして変わらない、―マキちゃんの死にざまを想像したらそんな言葉が浮かんだ。

私たちは二人の時は笑い、世間と関わっているときは不機嫌だった。

今の世の中は表面だけはどんどん優しくなって、日常の言葉遣いもどんどん丁寧になって、だからどす黒いものがどこかに溜まっていく。子供の頃は不機嫌な顔をしていられた。いつも不機嫌でときたま笑顔を見せるくらいの方が、いつも他人の目を気にして笑顔でいるより、よほど健全な気がする。世の中は良い場所になっているというけれど、いつの間にか新しいルールが次々と作られて、こういうのをやることがあって嬉しいと感じると思う人もいるけれど、私はどんどん生きづらくなっていくように感じる。

特殊な能力をもっていることも生きづらさに拍車をかける。多様性やダイバーシティなんて言葉は都合よく使われるだけで、個性を出せと言われても枠組みをはみ出したら居場所は奪われる。社会や組織の中には必要なピースがいくつかあって、そのピースにはまるキャラクターなら重宝されるけれど、自分がフィットするピースがなければ自分を押し殺して周囲の期待に応えるか。他の場所を見つけるかどちらかしかない。

マキちゃんと私は他の場所を見つける旅に出た。

私たちはお互いの家を行き来することはなかったが、マキちゃんは何度か物を届けに私の家の玄関まではきたことがある。

「マキちゃんは礼儀正しくていい子だけど、あまりかわいくないわね」母は私に言った。

父と二つ上の兄はテレビに出てくるタレントを見ては「この子ブスだよね、見ている方が可哀想な気持ちになる」と口にした。

こんな発言を聞いて両親を嫌いになることはなかった。ただ、世の中というのはこういう場所なのだ、と学んだ気がした。

家族のことは好きだったが、私が心を許せる人はマキちゃんだけだった。だから、世の中というのは私やマキちゃんにとって生きづらい場所なのだと、家族に教わったようなものだ。

そのせいか、家族と離れるという世間的には世の中で一番つらいことは、入れ替わりの能力の抑止力としては機能してくれなかった。


中学生の頃のことを鮮明に覚えているのに、入れ替わった後の記憶はどんどん忘れてしまう。

私は普通の人よりもずっと早く老化しているのだろうか? マキちゃんもそれに気がついたのだろうか?

あのときに却下したアイデアがものすごく悔やまれる。将来どこかで偶然再会した時にお互いのことがわかるように、何かアクセサリーを身につけていようと、どちらからともなく口にしたことある。でも、中学の選んだものをこの先ずっと身につけるなんてあり得ない、お金持ちと入れ替わったら宝石じゃらじゃらよ、と二人で笑った。

秘密を共有できる人を手放すことで、私たちは支えのようなものを失ってしまった。

苦しくなると、マキちゃんを思い出した。「マキちゃんも苦しんでいるのかなあ?」そう思うだけで少しだけ、慰められた気がした。

好きでもない男とセックスをしても、何の罪悪感も抱かない。いろいろな人生を生きているはずなのに生きた実感がなく、私は次から次へと誰かの人生を消費してきた。

色々な人に入れ替わったら、人生が安っぽくなってしまった。配信で音楽を聴くようになってから、音楽が安っぽく感じられるようになったのと似ている。

私が入れ替わった相手は、必ず「誰かと入れ替わりたい」と願った人。それはいつも女性だった。男から入れ替わりたいという叫びを聞いたことはない。

何歳の人にでもなれるわけじゃなくて、年齢の幅は私の実際の年齢のプラスマイナス3歳程度。試してみたけれど、それより年下の人にも年上の人にも入れ替われなかった。

入れ替わった後に、入れ替わる前の生活を懐かしく思うこともない。一人の人間が抱えられる荷物の量は限られている。今までの生活を忘れなければ、入れ替わりを繰り返すことはできない。入れ替わらない人の人生が時間と思い出を上へ積み上げるのだとしたら、私はただ横に移動してきた。私の性分にはこの生き方が合っていた。


投稿をした精神科医は、入れ替わりを知らないから、現実には存在しないと断言した。そう信じたい気持ちはわからないでもない。私だって、自分とマキちゃん以外に、入れ替われる人を見たことがない。死んだのはマキちゃんだったと信じるのが、とにかく腑に落ちる。

マキちゃんがどこかで生きていてくれればいい。生きてさえいればどこかで思いもしない形でまた会えるかもしれない。でも、あの死に方をした人がマキちゃんであってほしいという気持ちも、多分消えない。



頭が冴えてベッドの上で一睡もできない。

スマホを見たら朝の4時。私は日の出の時刻を調べた。4時47分。30分もしないうちに外は明るくなる。

突然思いついて検索をした。新宿に24時間営業の花屋があった。私はベッドから起き上がり、ヨーグルトを食べてスムージーを飲んだ。シャワーを浴び、化粧をしてタクシーを呼んだ。まず新宿へ向かい、タクシーを待たせたまま花屋で1万円の半束を作ってもらい、横浜を目指した。

どこで亡くなったのかわからないマキちゃんに花を手向けたかった。私たちが住んだ市営住宅はマンションに建て替わった。あそこへ行っても、花を置くべき場所があるはずもない。それでも私は花束を持って、ほぼ20年ぶりに私とマキちゃんが出会って別れた場所へ行きたかった。マキちゃんのためなのか、私自身のためなのか、よくわからないけれど。

首都高を西に向かうタクシーに揺られて、景色を眺めていたはずの私は、いつかまどろんでいた。



横浜は坂が多い、西区、中区のあたりは特に。横浜駅西口の出口で首都高を降り、坂の途中の交差点でタクシーを止めてもらった。高台にあった県営住宅が見えた場所。地形には懐かしさがあるけれど、肝心なものが消失している。熱帯夜明けの朝の鈍い空気の中では、新しいマンションが古い市営住宅の残骸のように見える。私は少しだけ上り坂を歩いてみた。上り切ったところで後ろを振り返って街を見た。20年も経っているのだから変わっていないはずはないのに、何も変わっていないように見える。

かつての市営住宅の敷地には、建物と建物の間に広い芝生があった。敷地全体がいまはいくつかの区画に分かれ、それぞれ別の名前のマンションが建っている。私が、もとの私と別れた高校一年の頃、住んでいる建物がいずれ取り壊されることなど考えもしなかった。私にもマキちゃんにも帰る場所なんていずれなくなる運命だった。マキちゃんと私は能力と好奇心に抗えずに旅に出たけれど、結局そうするしかなかった。

試しにマンションの敷地を歩いてみたけれど、何の感慨もない。五階建ての白い市営住宅は、私には関係のない十階建てくらいの茶色のマンションに替わった。私は誰の身体に入れ替わっても、ときどきテレビのニュースに映る故郷を失った人の悲しみにまったく共感できなかった。もともとそうだったのか、こんな生き方をしてしまったからこうなったのか、もはやわからないけれど。

空気の中にたばこの匂いが混じっている。

「オレは行きたくねえよ!」男の怒鳴り声が聞こえ、私はついついそちらを見てしまった。エントランスの前につけたシルバーの車の向こうで、白髪の老人が片手に吸いかけの煙草を持って、目を見開き、顔を左右に震わせていた。運転席のドアが開き、薄いグリーンのワンピースを着てサングラスをかけた女性が現れ、車の前を回って老人に近づき声をかけた。

「お父さん、今日は病院の日でしょう? 行かないと睡眠薬なくなるじゃない?」

聞き覚えのある綺麗な声。私は花束を握りしめたまま二人を凝視した。 

「親に向かって生意気言うんじゃねえよ」老人は煙草を地面に投げ捨て、娘と思わしき女の頬を手で払った。サングラスが飛んで、彼女の顔が見えた。

マキちゃんだ。

マキちゃんは何も言い返さずにしゃがみこんでサングラスを拾った。立ち上がった時に、離れた場所から花束を抱えてその光景を見入っていた私の視線に気づき、不機嫌そうな表情を作った。

マキちゃんの身体は生きている。でも、彼女には私が誰だかわからない、わかるはずがない。私は私の身体をしていないし、マキちゃんの身体の中身はマキちゃんじゃないから。あれはマキちゃんのお父さん? 面影はないこともないけど、私の父と変わらないはずだからまだ70くらいでしょう? もう認知症なの?

いますぐにこの場所を立ち去ろう、私は決めた。花束は二人に渡してしまおうか? いや、ダメ、これはマキちゃんを手向けるために買った花、私の片割れだったマキちゃんは死んだ、私が今見た人はマキちゃんの残骸、この場所は私とマキちゃんがいた場所の残骸。私は逃げるように駆け出した。マンションの敷地を抜け、下り坂を走った。暑くて、苦しくて、交差点の長い赤信号でハア、ハアと息を吐きながら軽い立ち眩みを覚えた、この苦しさも、夏の暑さも、私の知っているマキちゃんは二度と味わうこともない。



一台のタクシーが坂を下ってきた。私は交差点の手前で手をあげた。

「豊洲まで」と告げると、「東京の豊洲ですか?」と運転手は驚いた様子で確認した。そうだと言うと愛想がよくなった。

「高速乗っていいですか?」

「お願いします」

「暑いですね、 冷房強めますね、もし寒いようでしたら仰ってください」

「はい」

私を乗せた車は交差点を左折する。呼吸が落ち着いた。私は思いを巡らせる。

私は今まで何人と入れ替わったのだろう? 百人を超えたのかな? 新しい身体でひと月も過ごせば、その人の生活がわかった気になる。私はその人たちの生活を体験し通り過ぎるだけ。

なんのために生きてきたのかよくわからない、―誰と入れ替わっても一度くらいは必ずそうと感じた。でも、それは故郷を失った人に共感できない感覚とは違う。それは私だけの感覚じゃない。私が入れ替わった女たちの全員が感じていた感覚。その違いを言葉では説明できないけれど、私にはわかる。もし、マキちゃんと再び巡り合うことができたら、こんな話をして笑うことができたかもしれない。あの頃はそんな未来を想像もできず、お互いの片割れに永遠の別れを告げてしまった。

私は今まですがるものがないまま生きてきた。私には芯がなかった。今朝ここへ来てやっとわかった。

死んでしまったマキちゃんのために生きよう。

マキちゃん、私たちはよかったんだよ、誰かと入れ替わらなかったらずっとここから離れられないところだったよ、私たちは旅に出たんだよ、これでよかったんだよ

時間は戻らない。前にしか進まない。起きたことは受け入れるしかない。

ごめんね、マキちゃん、この身体をあの女に返してあげようかなどと考えた。私たちらしくないよね。二度とそんなことを考えないように私はとっとと別の誰かと入れ替わるわ。


「運転手さん?」合流のカーブを抜け、首都高が直線になったところで私は呼びかける。

「はい」運転手は落ち着いた返事を返す。

「誰かと入れ替わりたい人の叫びが聞こえる場所を知りませんか?」

「はい?」運転手は最初の「はい」よりも1オクターブ高い声を出し、一瞬だけ後部座席の私を振り返ると、すぐにまた前を向く。

「ごめんなさい、気にしないでください」私は言う。「疲れたので寝てしまうかもしれません、高速を降りる前に起こしてください」

「かしこまりました」

市営住宅が建て替わったマンションには、もしかしたら元の私の姿をした女が住んでいるかもしれない。彼女が、誰かと替わりたい、と叫んでいるかもしれない。マキちゃんも私も、あの場所へ行くことは二度とない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] とくに第三分割目の精神科医からの書き込みがミスリードになっていて面白かったです。 一瞬「ああ、そういうことか」と思わされてしまった! [気になる点] 第一分割目と第四分割目前半に誤字があっ…
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