「大至急、元の身体に戻る方法を教えてください」
インターネットの掲示板にこんな投稿を見つけた。
「大至急、元の身体に戻る方法を教えてください」
towako1085さん
2022/7.25 20:20
始めて投稿させていただきます。
おそらく世の中のほとんどの人は、私の話を信じてはくれないでしょう。
でも、私と同じような目に遭っている人は必ずいるはずです。自分が思いつくことなど必ず他の誰かがすでに思いついているように、どんな体験も「自分だけ」などということはありませんから。
それに、私は自分に起きたことの断片を思い出すことができたけれど、それさえもできない人もいるはずです。私の投稿を読んで「世の中には不幸な人もいる」と他人事のように思うあなたが、ある日突然他の人と入れ替わっていたことに気がつく可能性だってあります。だから、できるだけ多くの人に私の不幸な体験を知ってほしいのです。
私は私ではありません、別の人間と入れ替わってしまったのです。
入れ替わりをテーマにした映画やドラマはたくさんありますが、ほとんどは喜劇です。特に男女の入れ替わりを演じる俳優さんたちは心から演技を楽しんでいるように見えます。でも、現実の入れ替わりは悲劇です。映画やドラマで描かれる入れ替わりでは、「別の人間と入れ替わってしまった」という意識がありますが、私が体験した入れ替わりにはその自覚はありません。入れ替わった瞬間だけは目の前で起きていることの異常さに気がつきますが、すぐに入れ替わった別の人間の身体に馴染んでしまい、自分が別の人間だったことを忘れてしまうのです。
この文章を書いている今は、入れ替わったことを思い出しています。でも、一晩寝て起きたらきっと忘れてしまうでしょう。前にもそういうことがありました。だから私は書いておきたいのです。明日の朝目覚めた自分あてにメモも残します。でも伝わらないかもしれません。私が入れ替わった人間はあまり頭が良くないからです。それなのに恐ろしいことをやってのけた。とにかく悲しくて、悔しくて、虚しいのです。
私は35歳の女性です。ある企業で執行役員をしていました。独身で、所有する豊洲のタワーマンションに一人で住んでいました。(過去形にしなければいけないことが、とても悲しいです。)自分は成功した人間だと思っていました。もちろん運や人との縁もありましたが、私は誰よりも努力をしたと自負しています。嫉妬ややっかみがなかったとは思いませんが、誰かの足を引っ張ろうとするのはきまって能力もなく努力もせず、ただ傷を舐め合って生きている人たちです。そんな人たちにどう思われようが、何を言われようが、どうでもいいことです。ヒマすぎてどうしようもない時に、その人たちの不甲斐なさを陰で嘲笑い。顔を思い浮かべて、ああ、くだらないと、心の中でつばを吐きかける、その人たちの存在を私が意識するのはせいぜいそんな時くらい、基本相手にする価値のない人たち。私はそんな人たちの扱いに離れているつもりでいました。でも、世の中にはたちの悪い人間がいるのです。このたちの悪い女に奪われた私の身体を取り返したいのです。どなたか力を貸してください。
私の本来の勤務先は丸の内です。毎朝一階のスタバでコーヒーとサンドイッチを買ってオフィスに向かうのが私の日課でした。店員は私に気持ちよく「いってらっしゃいませ」とあいさつをしてくれる。私は「ありがとう」と言ってエレベーターに乗り込み、自分にスイッチを入れる。私の日常は毎日こうして始まりました。
3か月前の朝、いつものようにオフィスのあるフロアでエレベーターを降りた私は、なぜか突然転んでしまい、廊下をコーヒーで濡らしてしまいました。私は7時半ごろ出勤していました。その時間のフロアには人が少なく、恥ずかしい姿を誰かに見られなかったのは幸い程度に思っていました。トイレに近い場所だったので、私はトイレットペーパーのロールを拝借し、しゃがみこんで床を拭いていました。そこに清掃員の女性が通りかかったのです。彼女は私より若く見えました。(実際、2歳年下でした。)清掃員というもっと年齢がいった人がやる仕事をなぜこの人はしているのだろう? 彼女の顔を見て最初にその疑問が浮かびました。そしてすぐに、彼女が手伝ってくれることを期待しました。
彼女は私にこう言ったのです。「私と替わるといいわ」
変な言葉遣いをする人だと思いました。「私がやります」と言うのが普通ではないかしら。でも、もしかしたら外国の方で日本語が上手ではないのかもしれない、そうも考えました。その日は朝イチで片づけたい仕事があり、すぐにPCの前に座りたかったのです。あとでお菓子でも買って、明日の朝にでもあらためてお礼をすればいいかなと、私は素直に「ありがとう」と言いました。その瞬間、目の前の景色がグルリと一回転しました。私はしゃがんでいることができなくなり、床に座り込んでしまいました。床が波打っているようで、何が起きたのかさっぱりわかりません。私は恐怖を感じて、目の前にいる清掃員を見上げました。そこにいたのは、清掃員ではなく私だったのです。私が、私に向かって笑みを浮かべて手を振っていました。しかもその笑みといったら、自分の表情とは思えないほど邪悪なものだったのです。私は自分が清掃員のユニフォームを着ていることに気がつきました。そしてそのまま私は意識を失ってしまったのです。
「大丈夫ですか?」という男の人の声で私は目を覚ましました。私は驚いて時計を見ました。7時40分を過ぎていました。私は10分も気を失っていたことに驚きました。「早く掃除をしないと…」私はすぐに立ち上がりました。この時、私は完全に清掃員の女と入れ替わっていました。しかも入れ替わった自覚がまったくありません。違和感を持たないまま、いままでずっとこの清掃員の女として生きてきたと信じ込まされていたのです。
本当にこんな悲惨な生き方があるのだ、というくらい、この女は絶望的な生活をしています。彼女は都内のアパートで失業中の夫と小学生3年生の息子と3人で暮らしています。夫は暴力も振るわず、ギャンブルもしません。その気力さえもない男です。家事もしないし、妻が仕事を掛け持ちしているにもかかわらず本人は本気で仕事を探す気もありません。夫は生きるためだけに生きていて、彼女は(といっても私なのですが)息子を育て、夫を生かすためだけに生きている。こんな生活をしていたら、誰かを嫉妬してその人が転落するのを願うくらいしか、生きる希望はないかもしれません。人の少ない時間に出勤する私は目立っていたのでしょう。だから嫉妬の対象になったのでしょう。でも、こんなことが許されてよいのでしょうか? よいわけがありません。彼女は慎ましく生きているふりをしながら、実は恐ろしいことを考え実践したのです。
この生活を悲惨だと言えるのは、いまこの瞬間の私には入れ替わったという自覚があり、客観的に評価できるからです。でも普段の私は入れ替わったことを忘れていて、この生活しか知りません。こんな状況でも楽しいことを見つけて暮らしています。入れ替わったことを自覚しているいまの私には、理解も同情もできないことです。水が低い方へ流れるように、人間も放っておけばどんどん低い方へ流れます。そんなことはわかっていました。だから私は努力をしたのです。絆が大切だという人がいますが、絆という言葉はとても気持ち悪く、その言葉を平気で口にできる人にも嫌悪を感じます。絆とは「人を現状に縛り付ける」意味を持つ言葉です。「家族の絆」などという言葉で悲惨な状況を抜け出そうとする意志を持たずに現状を受け入れる、入れ替わった私はそんな人間になってしまいました。
入れ替わったことが自覚できたのは、今回が二度目です。一度目は入れ替わってから1か月後、今から2か月前でした。きっかけはどちらも「私と替わるといいわ」という言葉がどこからか聞こえたことでした。そのことに今日気がつきました。おそらく誰かが誰かと入れ替わる合図だったのです。
2か月前、私は時給の高い夜のアルバイトに向かうため、家族と夕食を済ませ、家を出て駅に向かいました。そのときに「私と替わるといいわ」という言葉を聞いたのです。その言葉は私に向けられたわけでもないし、駅前には人通りもあって、その言葉を発した女(間違いなく女の声でした)がどこにいるのかもわかりません。その時、突然記憶がよみがえったのです。私は、あの清掃員の女と入れ替わっていたことに気がつきました。
私は、もとの自分の番号に電話をして入れ替わったあの女と話をしようと思いましたが、向こうもこの番号が自分の元のスマホのものだと気がつくでしょう。私は自分のもとの家に行くことにしました。1か月ぶりに見る自分のマンションは夜の空に明るく浮かび上がり、今の住まいに比べたら、夢のような場所に見えます。涙が出てきました。泣いている場合ではありません。ここが私の場所。私はこの場所を今から取り戻す、そう決意しました。
私は初めてインターフォンで自分の部屋の番号を押しました。
「はい」女は普段は出すことがないような白々しい上品な声で答えました。
「こんばんは」私はインターフォンのカメラを睨みつけて言いました。「お話しませんか?」
「少しお待ちください」こちらから女の顔は見えませんが、声には驚いた様子はありませんでした。女はエントランスを開錠しないままインターフォンを切り、私は降りてくるものと思ってその場で待っていました。しばらくして女の代わりに出てきたのは、「おかえりなさいませ」といつも笑顔で挨拶をしてくれていた男の警備員でした。私はその顔を見て安心して微笑みかけました。でも彼は緊張した表情で「お引き取りください、お引き取りいただけなければ警察に通報します」と私に言いました。今まで生きてきてこれほどの屈辱を味わったことはありません。自分の家の前で警備員に追い返されたのです。私は泣くことも騒ぐこともできず、ショックでその後の自分の行動をまったく覚えていません。ただ、自分の家だとは思いたくないアパートには帰ったようです。私という人間の意識はどこかへ飛んでしまって、今私が入っているこの女の身体だけが、意識のないまま帰宅したのだとしか思えません。
翌朝目覚めた私は、入れ替わりに気づいたことも、自分の行動もまったく思い出すことができませんでした。アルバイトに向かおうとしたが、途中で気分が悪くなり、朦朧とした意識で自宅に戻った、脳内でそんなストーリーを作り上げたのです。
今日、「私と替わればいいわ」という女の声がまた聞こえました。そのおかげで再び「入れ替わった」という自覚を取り戻しました。私は試しに家族や職場の人の前で「私と替わればいいわ」という恐ろしい呪文を唱えてみましたが、何も起こりません。明日の朝起きたら、また入れ替わったことを忘れて惨めな生活に戻ってしまうでしょう。
私はとにかく元の身体に戻りたい、生活を取り戻したい。とにかくすべてを返してほしいのです。返してさえもらえれば、いま私が身体に入っているこの女を責めたりもしません。
入れ替わりの方法をご存じの方がこの文章を読んでいたら、ぜひやり方を教えてください。もちろん相応のお礼もさせていただきます。