最終話
最終話
コツコツと刻を打つ時計。炬燵に突っ伏していた私は二十三時を告げるラジオの音声で、ふと目を覚ました。
「ん…?」
素面に戻っても、地中海を潜る建築物。バイオマスを手指に絡めて、青色発光ダイオードと会釈する人々の夢を見ていたが、気づいたら私は呼吸法をペンギンに教わっていたらしい。顔を手でこすり、眠気の残る瞳をパチパチと瞬かせる。きょろきょろとあたりを見渡して、ふと狐が居ないことに気が付いた。
「…まだ、絵を描いてるのかな。」
立ち上がって、隣の部屋にも狐が居ないことを確認する。少し思案したが、マフラーを体に巻き付けると、私は炬燵とラジオの電源を切った。やかんが湯気を出していなこと、囲炉裏に引火しそうなものが周りにないことだけを確認して、未だ欠伸の残る体を軽くつねった。
「もう一枚、マフラー持って行った方がいいかな…。」
画材道具だけ持って、この雪が降る中で絵を描き続けているのだろう彼のことを想い、私は少し起きてから現実感のなかった体が、橙を装飾した枠に収まっていくのを感じていた。
「寒い。」
外に出て、凍るような寒さに震える。住職さんが入院してから二週間。吹雪が山に襲い掛かり、私たちは全く身動きが取れない状態だった。一反木綿ですら、ヌリカベと共にしないと前に進めないほどの豪雪だ。とても、町まで降りていくことはできなかった。
「まあ、今日は雪が止んでいただけいいかな…。これで吹雪いていたら大変なことだわ。」
ザクザクと雪を踏み締めて、よろめきそうになった体を慌てて安定させる。希少価値のある六カラットのα星。指先で摘まんでみても融けそうのないそれを、私は窮屈な雪の上に溢れさす二相系に透過して、慈しむのだろう。
「一体どこにいるの…。」
マフラーを握り締めて、落ち着かなげに静まり返った夜空を眺める。作家が言うに、夜は向日葵を慰めるための応力を嬉々として持つらしい。何てこともなく、人の心に泉を落とすのだと。それが本当なのか、衰弱した彼が弱弱しく語る言葉に聞き返すことはしなかったが、確かに指先に吸い付く暗闇は、彼の表現を諭しているように見えた。
「はぁ…っ、うわっ!」
その時だった。足を滑らして雪の中にダイブしそうになる。手をばたつかせたが、成すすべもなく転びそうになった体を、慌てたように良く知った腕が抱き留めた。
「おい…、お前こんなところで何してんだよ。」
驚いて耳が飛び出たのだろう。渋い顔をして、耳と尻尾を白銀の世界に揺らがせる狐が、転びかけた状態の私を、ひょいと持ち上げたのだった。
「マフラーを渡しに来たのよ。十一時になっても帰ってこない狐のためにね。」
「悪かったよ。絵を描いてたんだから、仕方ないだろう?それより、お前また炬燵で寝たのか?」
パタパタと雪を払われ、差し出したマフラーを彼は手際よく巻き付けた。そのまま、雪の中を歩いて疲れてしまった私を抱き上げる。手渡された絵をじっくりと観察しながら、呆れた声を出す狐に私は寄り掛かった。
「あなたが起こしてくれればよかっただけの話よ。…それよりも、今回は蕗の薹を描いたのね。てっきり、竹やぶに積もった雪や南天を描いているのかと思ったわ。」
星々を叩き起こした聡明さのある竹藪。そこに思いの外、鈍く置かれている対象物は、私を抱えた狐がこの一年で、ふてぶてしく成長したことを表しているようだった。
「随分と図々しくなったのね。」
絵の感想を述べる私に一瞬、目を見開いた彼が可笑しそうに笑いだした。
「それを図々しいとは言わないだろ。…どちらかと言えば遠慮がなくなったってのと、繊細である所以が解消されてしまったっていう、それだけだろうな。」
「…?」
「これに関しては、お前は分からなくていいよ。」
それよりも、またこの絵にお前の思う文章を書いてくれ。そう、耳元で囁いてくる彼の息が暖かくて、私はまた眠りに落ちてしまったのだった。
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「はい…、はい。…、って言っても俺の声何て聞こえてないか。」
また微睡んでしまったのか。時間的にも仕方のないところはあるが、またも中途半端な時間に起きた私は、時計を確認した。二十四時、その少し前。目を擦って、狐が用意してくれたらしい布団の中から這い出る。襖の向こうに明かりがついており、狐らしき人の姿があった。
「こんな時間に…、何してるの?」
呟くように独り言を言い、少しだけ襖を開ける。隙間からよく見ると、廊下にある電話の前で立ち尽くしている狐の姿があった。
「…。」
電話が切れた音が鳴り響き、それでも立ったまま動かない狐の後姿に、私は何があったのか悟った。
「あ…。」
さらに大きく襖を開けたことで、私が起きたことに気づいたのだろう。狐が振り返る。
「亡くなったのね。」
そう私が言うと、狐はためらいながらも頷く。
「なんて?」
私が言うと、狐はその場に座り込み、私に傍に来るよう手招いた。
「どうやら、前もって病院側に自分が亡くなったら自宅に電話をしてほしいと頼んでたみたいだ。俺たちは、声すらも人間には届かないから。向こうが無音でも、自分が亡くなったことだけは伝えてほしいと。
病院の人は、何も聞こえてないのにちゃんと説明してくれたよ。隣の県に住んでる子供さん達が葬儀を執り行う事とか、最後はちゃんと家族に看取られた事とか。後は、俺たちの幸せを祈ってた事とか…。」
私は、上から聞こえてくる狐が淡々とした声を出しながらも優しい表情をしてることに気づいていた。
「家族が居たのね。」
「ああ。独りきりで逝くのは寂しすぎるから、本当に良かった。」
それでも拭えない悲しみが、涙と言う形になったのだろう。頬を伝う水滴を拭う私の手を、彼の大きな手が覆った。硬い木の床が、私の足に冷たさを伝える。既に通話の切れた固定電話。襖の向こうは電気が点いていないため暗い。時計の音以外は何も聞こえない現実的な静寂が、ふと私の心までも締め付けるように思考を遮った。
「今日は十二月三十一日よ。」
そろそろ十二時を指そうとしている時計を、私は指差す。狐の耳がピクリと震え、涙に濡れたままではあるが、幾分落ち着きを取り戻した様子の瞳が、私に眼差しを送った。
「行きましょう。」
狐の手を引いて、外へと出ていく。薄着のままの私を見て、彼は何か言いたげだったが。私に手を引かれるままついてきた。
星々が明滅し、掲げた手の平に神聖な息吹をもたらすような仕草。少し気を抜けば、持っていかれそうな寒さに私は狐の腰のあたりに身を寄せた。見上げれば、一億年先の星雲までもが私の心を打ちとめるだろう。仄かに細める瞳には、夜中の街の灯りと雑然と輝く天の川銀河がミスマッチに思えた。
「この鐘を鳴らすのは、三人がよかったな…。」
雪が降り始めた中、梵鐘の前に立つ。ただ、静寂をまとって落ちてくる白さを感じながら、狐は鐘木を引いた。
「俺たちは全ての人々から忘れ去られた。そう思っていたよ。でも、違った。住職さん。あんたが俺達を見つけてくれたんだ。」
「…。」
何故か、言葉が出てこなかった。口を開いても紡げぬ想い。そのことに、目を見開いて立ち尽くしている私を彼が優しい顔で見つめる。
「大丈夫。俺は、絶対にお前を置いて行ったりしないよ。お前にとって俺が必要でも、例え必要とされなくても、俺はお前の居場所だ。そして、住職さんの居たあのお寺が俺たち二人の居場所だ。」
どうしてか分からない涙だった。ただ、とめどない涙が狐の彼と住職さんに想いを伝えたいはずの私の言葉を遮ってしまう。
「この鐘を鳴らせば、一月一日の朝が来る。そしたら、囲炉裏を囲んで雑煮を食べよう。そうやって、俺たちは住職さんの言ってた幸せを繋いでいくんだよ。」
「…うん。」
今なら彼が描いたばかりの蕗の薹に、私は何て名前を付けるのだろうか?鐘木を釣鐘に打ち付けようとする彼の頬に、流したばかりの涙が光る。冷えた柄杓を藍色の炎が、包み込む。雪風が私の心を攫う様に揺れ、小さく溢した笑みすらも神楽鈴に祓われる。そんな、均衡の取れない悲しみを嘗ては抱いていた。ここに来た当初は、確かにそうだっただろう。
「過ぎた季節に邂逅を、読み伏せた書物に紫紺の情景を。」
口元からこぼれた言葉に狐が、悪戯な笑みを浮かべる。
「除夜の鐘に相応しいだろう?」
「ええ。」
ゴーンと、鈍い音で新年の始まりを告げる梵鐘の音が響く。繋がれた手は、さらに強く握りしめられ、そのまま引き寄せられた体を抱きしめられた。
狐の腕の中で、そっと目を閉じる。季節外れの蕗の薹の絵に付ける言葉は、たった一言。再生の文字が似合うことを、優しい琥珀の瞳を見て、私は確信したのだった。
了
完結しました!ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます!!
なんだか、まだ座敷童ちゃんと狐くんの話を書いていたかったような気もしますが、今回はこれにして終幕とさせていただきます。何百年も生きるアヤカシが主人公という事で、六百年も生きた人が考えることなんて、僕にはわからんぞ…と悩みぬきながらもなんとか完成させた作品となりました。二人の幸せと居場所の在り方を、二人と一緒に探し求め、最終的には主人公二人も僕も住職さんから大事なことを教わった気がします。小さな幸せの積み重ねが、日常を作る。僕は、それを念頭にこの作品を書きました。誰か一人にでも、この作品で伝えたかったことが胸に響いていたら、本当に嬉しいです。
話が変わって次回からの投稿ですが、二週間ほどお休みにさせていただきます。その間に、作品のプロットや参考資料なんかを片手に、右往左往しようかなと。ということで、次回の投稿は9/19となります。作品の題名はまだ考えていませんが、今のところ設定はタイタニックです。船の上のラブロマンスが描きたい!主人公は、絵本作家の貴族の少女と同じく貴族の青年です。ただ、恋と言うよりは少女の幻想的な世界に焦点を当てて書くことになると思います。…恋愛小説書いてみたいと言いながら、気恥ずかしさが勝って甘い恋愛を描くことができない若輩者なので。
次の作品もよろしくお願いします!読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました!
Mei.(神楽鳴)より