終 一
新皇帝となった御子は榮來と名付けられた。
栄光ある汪国の未来を委ねられる人となるようにという母の願いが込められた名だ。
榮來の傍には姉である珠玉、そして後見人にして叔父である大将軍劉偉の姿があった。
少しばかり成長した彼の元に不定期だが教育係として時折訪れる男性が居る。
背丈も高く髪は漆黒のように美しい青年に男女問わず溜め息が漏れる。
しかし彼は名を告げることもなく用を終えると何処かに消える。
まるで数年前に姿を消した第三皇子紫釉のように。
「樂」
榮來に勉強を教えていた男が務めを終え帰路に向かうところで珍しく名を呼ばれた。
顔を隠すよう布を覆っていた男が振り返ってみれば、丞相としての地位に定着した劉偉の姿があった。
将軍としての籍も残したままではあるが、戦乱の少ない今は丞相としての姿を見る機会が多い。
「紹将軍。お久しぶりです」
男は丁寧に頭を下げる。
流れるような仕草は劉偉に対し敬う様子を見せるが、それでも彼自身から溢れる覇気は幾年経とうとも変わらずに溢れている。
「いつぶりだろうか」
「ひと月ですよ。将軍との面会には半年を要すると聞いておりましたが?」
「つまらぬ面会が多すぎるからな」
鼻で笑う劉偉の目元に皺が寄る。未だ若さが残る劉偉であったはずだが日頃忙殺している劉偉は少し老けたようにも見えた。
樂と呼ばれた男はその姿に懐かしさを覚える。
一度目の生の頃も、彼はこのような顔をしていた。あの頃は更に窶れ疲れ果てた顔をしていたが。
「少し話そうか」
「よろしいので?」
「其方と次に会う機会を待っていれば、それこそ半年掛かりそうだからな」
劉偉が笑う。
随分と穏やかな表情を見せるようになった劉偉を一瞥しつつ、男は静かに頷いた。
凰柳城の外れにある庭園。梅や桃などの木が植えられており、今の時期は梅の香が広がっている。
先に伝えていたのか、庭の中央に小さな卓と席が用意されていた。既に使用人により茶の準備まで終えていた。
「毒見は終えてある。安心して飲まれるといい」
「有難く頂戴いたします」
席に座り先に茶を飲んだ劉偉を見てから樂と呼ばれた男は茶を口に含む。久しく飲んでいない高級な茶の味は美味かった。
真正面に座っている劉偉を静かに見据えていれば、先に口を開いたのは劉偉からだった。
「……彼女は息災だろうか」
樂の手が止まる。茶器の中に入っていた茶が微かに揺れるが問題なく茶器を下す。
「ええ、息災です。近々子が生まれる予定のため、王朝に足を運ぶ機会は減るでしょうが」
茶を大きく揺らし零したのは劉偉であった。僅かに跳ねた茶が手に掛かるが態度はいつも通りに見える。少なくとも周囲にはそう感じるぐらいには動揺を隠していた。
「…………そうか。子が……」
「はい。先日医師に確認したところ間違いないかと」
「そうか…………」
樂が内心安堵していることなど、目の前の男が気付くはずもない。それほど余裕がないのだ。
三年経っても尚、劉偉が懸想していることが改めて分かった。そして、早々に手を打っておいた数年前の自身を樂は褒めたい。
樂は数年前に蓮花という女性を娶った。出自が不明な二人の婚姻など周囲は特に気にするはずもなく、ただ汪国から承認を得た二人は問題なく結ばれた。
樂の妻である蓮花が懐妊したと分かったのは一週間ぐらい前のことだ。
蓮花の体調が近頃悪く、話し相手となっていた珠玉公主に会いに行く日も伸ばしていた。そろそろ勘ぐられることを想定していたので、樂としては今日のような機会で話せて良かった。
「申し遅れました。皇子……おめでとうございます」
「昔の呼び方に戻っているよ、将軍」
「ああ、失礼を」
随分と動揺が続いているらしい。男は苦笑した。
樂とは紫釉の幼名である。身分を捨てる時、紫釉のままではと思い幼名である樂を名乗っているのだ。それは玲秋も同じであるため、彼女は蓮花と名乗ることにしている。
「そういうわけで、珠玉には暫く会う機会を減らしてもらうようお願いしたい」
「そうでしょうね……かしこまりました」
動揺は既に消え、平静さを取り戻した男の顔を見て樂は思う。
この男が玲秋と出会えば、まるで運命の流れかのように玲秋に愛情を抱く。
二度目の時は出会う機会も少なかったが、その結果劉偉は玲秋を生き埋めにした。あの時の怒りと恐怖は今も覚えている。
紫釉の想いもまた、幾度繰り返そうとも玲秋に向かうだろう。そういうところは同じであった。
(出会いが異なっていれば立場も違っただろうな)
もしかしたら皇帝となっているのは自身であったかもしれない。
玲秋の傍に寄り添う男は劉偉であったのかもしれない。
しかし、そのような仮説を立てたところで樂は考えを一蹴する。
どんな境遇になろうとも、己が玲秋を手に入れる。
それはかつて存在した後宮の世界よりも何よりも。
なんて醜い執心であろうかと。
それでも尚、思わずにはいられない。
「…………美味い茶をご馳走になった。また、来ます」
樂は立ち上がり丁寧に頭を下げた。
念のため顔を布で隠し庭園から去っていく。
席に残る劉偉は立ち上がることもなく樂を見つめ続けている。
交差し合った運命の環はもう、解き放たれたのだ。




