過去 五
その、青ざめた肌色で並ぶ二人の遺体を眺めていた紫釉には一切の感情がなかった。
怒りも悲しみも全てを置き去りにし、ただ茫然と二人を見つめていた。
吐血した跡は全て拭われていた。死装束を着た玲秋と珠玉の瞳は永遠に閉じて開くことはない。
二人は、寄り添うように屋敷で倒れていたらしい。
原因とされる菓子が誰により運ばれてきたものなのか、屋敷に人の数が少ないため分からなかった。
劉偉は屋敷に携わった全ての者を処刑したという。
使用人も、家庭教師も、行商人も全てを殺した。
猟奇的なまでに恐ろしい劉偉の行動に、皆が恐れた。
血に塗れた汪国と呼ばれるまでに荒んだ。
高州の者の手口による噂が立てば高州を攻めた。
王宮内の官吏が企てたと言われれば一族ごと滅ぼした。
明らかに劉偉は壊れていた。
己を攻めるように、他者を攻めた。
彼には死を悼むより人を憎むことを優先したのだと、理解できたのは紫釉だけだった。
何故、劉偉があれほどに怒り狂い人を家畜以下に扱い殺すのか、紫釉には手に取るように分かる。
愛していたからだ。
愛していた人を奪われた憎しみを、何処かにぶつけたくて止まらないのだ。
かつての劉偉は姉が殺されたことにより血の粛清を見せた。今も同じなのだ。
彼は、玲秋を愛していたのだ。
彼の口から直接聞いたことはないが、一度だけ彼から不可思議な言葉を囁かれたことがあった。
『貴殿が羨ましい』と。
どういう意味なのかと尋ねる前に、彼は家臣の反逆により暗殺されてしまった。
血生臭い歴史の中に、紫釉だけがたった一人残されたのだ。
木偶人形のように王位を手にした紫釉は、誰一人いない広い部屋の中で小刀を抜いた。
紫釉には生きる目的が何も見つからなかった。
まるで壊れた人形のように日々息をしているだけで、玲秋が亡くなった日から紫釉の心は死んでいた。
何故、自分は生きているのだろうか。
そう思ったら小刀を抜き、今から後を追うべきではないのかと思い至ったのだ。
玲秋に直接愛情を伝えたことはなかったが。それでも言葉の端々から、触れ合う空気から想いが伝わり、そして想い返してくれていることは知っていた。
紫釉が門から出て帰る時、必ず見送る玲秋の手に触れ口づけていた。
いつか、その唇に触れられる時が来ることを願っていた。
しかし願いは叶わなかった。
首筋に小刀を据える。
血が滲むが、不思議なことに痛みは一切感じなかった。
力を込めて勢いを付けようとした時。
紫釉の耳に誰かが囁いたのだ。
それは、人の声とは思えぬ奏楽のような声。女性かと思えば男性のようにも聞き取れる不可思議な音質。
言葉として紡がれているのかも分からない囁きが紫釉に語り掛けたのだ。
『血に塗れた大地を元に戻せ』と。
王族の血を引く紫釉であれば可能であると、奏でる声は伝える。
しかし紫釉は首を横に振った。
今更世を是正したところで紫釉には何の利もないのだ。
元々皇帝になるつもりもなかった。兄が継げばよいものであり、自身は慎ましく生きていければ十分だった。唯一の欲が玲秋という女性に恋焦がれただけの生き方だったのだ。
今更、国を治めることに意欲などあるはずもない。
しかし、声は続ける。
『時を戻し、全てを改めよ』
その囁きに紫釉は手に持っていた刀を僅かに外した。
時を戻す。
「……玲秋が死なないの、か?」
声にならぬ声が『是』と伝う。
ならば紫釉の行動は一つ。刀をその場に落とし、姿なき声に応える。
「応じよう」
玲秋が取り戻せるのであれば、幾らでもやり直してみせる。
そう願いを込めた言葉を発した時。
世界は暗転した。
紫釉が目覚めた時、十四の年齢に戻っていた。
まだ若く幼さを残す身体を眺め、あの願いが届いたのだと理解した。
紫釉は急いで後宮を調べてみれば、竹簡の中から皇帝の妻に玲秋の名を見つけた。
竹簡に雫が落ちる。一つ、二つと雨のようにぽたりと落ちた。
己が泣いていることに気付いたのは暫くしてからだった。
蘇ったものは玲秋だけではなく、紫釉の感情も同様だった。
(玲秋……!)
今度は違えない。
何事も静観していた自身を悔い、今度は行動に移すと誓う。
早々に劉偉と懇意にし、過去にあった出来事を参考に対策を講じれば瞬く間に紫釉は期待の皇子と呼ばれた。
ただ、時を変えることにより想定外の事件が起きた。
紫釉を庇い玲秋が傷を負ったのだ。
紫釉の心を大きく苦しめる出来事だった。
祭事ならば玲秋に会えるかもしれないと仄かな期待を抱いてしまったのがいけなかった。素知らぬ態度で離れていればよかったのに。
玲秋はどこまでも優しく、紫釉は更に彼女が愛おしくなるばかりだった。
会えない想いを隠し珠玉の様子を文にしたため、少しでも彼女と繋がろうとする愚かな自身を止める術がなかった。
一度は亡くしてしまった想い人は、まっさらな状態で紫釉と対面した。
一度目の時、あの辺境の屋敷で出会った玲秋はもういない。
それはひどく物寂しい想いを紫釉にさせたが、それでも構わない。
玲秋が生きているのだから。
そう、思っていたのに。
紫釉は、再度玲秋を喪う羽目になる。
皇帝に即位して間もなく、劉偉により殺されたのだ。
神は血に塗れた大地を元に戻せと紫釉に伝えた。
二度目の世界で、紫釉は実現しようとしたが、止めた。
玲秋がいない世のどこに平穏があるというのか。
残虐なまでに人を殺めた。
まるで一度目の劉偉のように。
気が触れたのだと叫ばれようと、紫釉は気にしなかった。
玲秋がいないのだ。
玲秋がいない世を、改めずにして何になる。
神はそこまで察していたのだろうか。
最期の機会とばかりに、もう一度蘇ることに至った。
恐らくこれが、最期だと紫釉は感じていた。
そして最期の奇跡とばかりに。
玲秋もまた、過去の記憶を保有して蘇っていたのだった。




