過去 三
いつしか屋敷に訪れる人を待つようになった。
古びた正門から現れ、玲秋の名を呼ぶ青年を日々待ち望んでいる自分の気持ちに気付いたのは何時の事だろう。
あからさまに喜んでいたのか、ある日珠玉が何気なく「玲秋は紫釉兄さまがいるとうれしそう」と言ってくるものだから、玲秋は赤らんだ顔を抑えるのに必死だった。
それだけ露骨だっただろうか……
本来なら、そのような感情を抱くような立場ではないことは重々承知している。
相手は皇帝の身。話に聞く限り飾りのような皇帝だと言われても、その立場が違えることはない。
それに比べ、玲秋の立場は何だというのか。
故郷にも帰れず、珠玉の世話をしている官女のような己を顧みる。
手続きなどで時間を要したものの、珠玉は次の季節を終える頃に高州へ引き取られることが決まっている。
珠玉の事を考えれば玲秋も高州に向かうべきだろう。
その時、恐らく玲秋は使用人という立場に変わる。
もう、珠玉と毎日のように傍に居られることもないかもしれないと漠然に思っていた。
そのような立場の玲秋が、紫釉と会話を交わし彼の姿を待ちわびることがどうかしているのだ。
けれど、玲秋とて自惚れてしまうような時がある。
紫釉から向けられる熱の籠った視線。
玲秋と、名を呼ばれる度に胸が弾む理由。
ふとした瞬間に触れられる指先から、紫釉の感情が伝わってくる。
その感情に名をつけるのであれば……それは恋なのではないか。
そんな、自惚れを抱いてしまう。
自惚れのままでも構わない。
世界が全て色褪せ、珠玉との日々だけが喜びだった玲秋の中で新たな色で世界を描いてくれるのであればそれで十分だと。
それだけで良い。
これ以上の欲など必要ない。
自身に言い聞かせながら、それでも会いに訪れる紫釉の姿が見える度に心が歓喜に満ち溢れる。
玲秋は、この時確かに紫釉に対し恋を抱いていた。
「…………近頃、紫釉様が訪れていると聞いているが」
久し振りに訪れた劉偉の表情は何処か疲れているように見えた。しかし、玲秋は尋ねられた言葉に意識が向いてしまい劉偉の体調を気遣う余裕は生まれなかった。
「は、はい……公主のご様子を見に来て下さいます。とても、良くして頂いております」
「……そうか」
玲秋は気が付かない。
彼女が日頃見せる、劉偉に対する畏怖した表情が紫釉の名を呼んだことにより緩和し、それどころか微かに笑みを浮かべていることなど。
未だ一度たりとも向けられたことのない玲秋の表情に劉偉の胸は痛んだ。
暗雲とした感情が胸の内に漂っているのが分かる。
これは嫉妬だ。
想いを打ち明けるつもりなど毛頭ない。その資格が己には無いと理解していた。
それでもこうして顔を覗かせ、敵しか存在しない王朝の殺伐とした気分を和ませていた劉偉にとって今の玲秋の表情は何よりも胸に刺さった。
しかも相手が紫釉だとすれば殊更納得は出来なかった。
彼は皇帝徐欣の息子だ。玲秋は身分を剥奪されたとはいえ、元は彼の父の妻だ。
(…………不快だ)
劉偉の心情は失恋の苦しみよりも、その一言に表れていた。
潔癖とさえ思えるような不快な感情。
高潔な姉は徐欣の妻となり不幸な死を遂げた。
あの男の息子ではあるものの、中立で公正な目を持つがために後見人として紫釉を据え置いた。
だが、実際はどうだ。
父と同じように、否、それ以上に父親の妻に手を出すというのか。
紫釉を皇帝に据え置いて良いのだろうか……?
そんな疑問を抱いたが、すぐに否定した。
既に即位の儀も終えた。今、皇帝の座が空席となっては余計な反感をきたす。
ただでさえ、今は内乱も多く劉偉に対し謀反を企てる声も上がっていることを知っている。
武力で統率した劉偉に未だ敵は多かった。皇帝を弑すまでは協力者であったはずの者も今では敵となっている事もある。
その最中で余計な反乱の種を捲けば、己に全て返ってくることは必須。
だとすれば。
(早々に玲秋を離すしかないか)
どのみち彼女は珠玉と共に高州に迎えてもらう予定だった。
その時期を早めたところで何もおかしいことはない。
(そうとなれば急いで手配しなければ)
内乱により混乱した状態で高州に送る手続きを進めてしまえば、それが高州と結託するように見えることもあり、汪国内では他国と劉偉が干渉することを厭う者も多いため後回しにしていたが、それを無理に進めても良いかもしれないと、劉偉は思う。
決定は、些細な感情だった。
仄かに惹かれた女性が別の男性に向ける視線に嫉妬し。
その相手が、己の嫌悪する男の息子だった。
人によっては大いに影響ある理由と思う者もいるだろう。
或いは国の中心に立つ者が何を些末な感情で左右されているのだと憤慨するだろう。
分かっていることは。
この早計な判断こそが、劉偉の死期を早めたことだった。




