過去 一
それは、徐玲秋にとって一度目の人生のことだ。
彼女は変わらず敬愛する珠玉の元に通っていた。
いつもと変わらない日常。華やかな後宮と無縁な暮らし。
自分に仕える官女も使用人もいないが、それでも幼い珠玉と共に過ごす日々に幸いを抱いていた。
ただ、王権の雲行きは常に怪しく後宮にいても外の悪い噂は耳に入っていた。
後宮の寵姫に溺れ乱れた徐欣は政事を蔑ろにしていた。
唯一皇帝に厳しくも優しく声を掛けてくれていた賢妃、充栄を火事で亡くしてから一層皇帝は荒れていった。
充栄は皇帝の子を身籠り臨月の頃だった。
風の強い日、賢妃の暮らす建物が業火によって燃え尽きた。
いち早く発見したのが珠玉の元から自身の屋敷に戻ろうとしていた玲秋だった。
不思議なことに日頃は護衛しているはずの見張りもおらず、玲秋は炎を確認して急いで声を張り上げ人を呼んだ。
だが、全ては遅かった。
炎が消えた後、少ない官女と共に賢妃らしき女性の遺体が発見されたのだ。
後宮は瞬く間に暗闇に包まれた。
未来の皇帝候補となるかもしれない賢妃の御子と賢妃を失ったことにより、後宮内は趙貴妃が掌握した。
皇帝から豪華な贈り物を貰い、食べきれないほどの食事を毎日のように食卓へ並べ、食べ尽くさずに捨てるような日々を繰り返していた。
そのような日々が長く続くはずもなく。
その翌年、大きな反乱が起きた。
首謀者は賢妃の弟である紹大将軍だった。
彼は後宮にいた皇帝徐欣と超貴妃を惨たらしいまでに刺殺し、その生首を凰柳城の門に投げつけた。
第一皇子である巽壽が討伐するため兵を挙げたが、これもすぐに滅ぼされた。
血に濡れた玉座に君臨した大将軍劉偉は、第三皇子紫釉の後見人として政権を代理で務めると宣誓した。
その時玲秋は二十歳を越えた頃だった。
五歳を前にした珠玉は聡明で、自身の置かれた立場をよく理解していた。父と兄が殺されたことを朧げながらもしっかりと覚えており、我儘を口にすることも減っていた。
寂れた広い屋敷に閉じ込められるようになった珠玉の元に玲秋も官女のような扱いで共に暮らしていた。
多くの妃達は劉偉により殺されたが、紹賢妃の火事を真っ先に報せ、助けようとした玲秋に温情が掛けられたのだ。珠玉の後見人として郊外の小さな屋敷に押し込められた。
それでも珠玉と共に在るのであれば玲秋には幸いだった。
政権は遠くからでも乱れていることが噂されていた。
劉偉の残虐な行為により乱れた国は治まりを知らない。未だ血が流れることは止まらないと聞く。
時折様子を見に劉偉が屋敷に訪れることがあった。
「様子はどうだ」
「…………特に問題はございません」
玲秋は劉偉が怖かった。
反乱を起こし妃達を殺す劉偉の姿を玲秋は目の当たりにしていたからだ。
血に染まり、何の情も抱かず家畜を捌くような様子で女達を殺めていた劉偉の姿。
彼の赤い瞳と目を合わせる度、次はお前だと言われているようで恐ろしかった。
「……珠玉姫を高州に預ける話も出ているが、其方はどうする」
「どう、とは……」
「高州の預かりとなれば其方と別れることになろう。其方には帰る場所があるか?」
「帰る場所……」
考えても玲秋に帰る場所は思い浮かばなかった。
売られるような形で後宮に送られた玲秋を匿ってくれるような親族はいないだろう。
黙っている玲秋に対し、何処か気まずい表情を浮かべる劉偉は言葉を選んでいるように見えた。
自身の言葉が彼女を困らせていることを分かっていた。
しかし、他に続けられる言葉が見つからない。
自身のところに嫁に来るかなど言おうものならば、その澄んだ瞳が怯えることが目に見えて分かるからだ。
姉である充栄の死を悼み涙した数少ない妃、玲秋。
復讐に染まり皇帝を弑した劉偉に残された感情は虚無であった。
事務処理を進めるように淡々と政を片付けている間、幼子の珠玉と姉を助けようとした玲秋だけは殺さなかった。
姉の死に纏わる手がかりはほとんどなく、証言出来る者が珠玉ぐらいしかいなかった。
始めこそ警戒して聴収していた玲秋と話す度、劉偉は心が凪いでいることに気が付いた。
ひたすらに珠玉を愛し守る母のような、姉のような慈愛。
姉を亡くした劉偉に対する憐憫の情。
他の者であれば不快に思うような感情や視線が、玲秋には一切感じなかった。
しかし、劉偉は己が素直に玲秋に対しそのような想いを抱くなど言葉にすることなど出来ない。
劉偉は数多くの者を殺した。
中には玲秋の知人や友人らしい女も殺した。
玲秋とて殺しても良いと思っていた。
ただ、姉の事を知りたいがために生かしておいただけに過ぎなかった。
だからこそ言えない。
貴女に惹かれているなどと、言葉に出来るはずもなく。
そして、そのような感情を抱く劉偉に気付くはずもない玲秋は。
こうして気まずい空気が流れる時間を過ごしていった。
それから少し月日が流れた頃。
玲秋は一人の男性に出会った。
それこそが、第三皇子紫釉であった。




