改編 二
「劉……侍医様」
「劉で構わない。素性はもう知っているだろう?」
久しく聞かない男性の低い声に玲秋は怯えながら劉の顔をじっと見つめていた。
深く被った帽により周囲の者には素顔は見えないが対面している玲秋にはしっかりと見える。
鋭利な刃のように鋭い眦が、玲秋の表情を見ると困ったように和らいだ。
「其方の警戒ぶりは相変わらずだ」
「申し訳ございません」
「いや、急に声を掛けた俺も悪い。少し話がしたいと思い顔を出した。今ならば他の誰もいないので安心してほしい」
懐妊したことにより賢妃の元には頻繁に侍医が訪れるようになった。その中で、こうして時折劉偉も侍医の格好で訪れることがある。
本来は男性が入ることが出来ない後宮であるはずなのにこうして簡単に出入りできるのも紹賢妃の周到な手配や周囲の采配等が整っているからだろう。他の妃では絶対にあり得ない。
そう、たとえ皇子であろうとも後宮には入れない。
「……何の御用でしょうか」
「姉の暗殺を警戒してくれていると紫釉殿下から聞いている。その事にまず御礼を」
その場で劉偉が感謝の言葉を口にする。
玲秋は慌てて首を横に振る。
「小主にお仕えする身なれば当然のことにございます」
「仕えていればな。だが貴女は妃であろう。妃の立場で官女のような働きなど、本来であれば考えられないことだ。しかも過去に一度貴女は毒を突き止めている。気付かず姉が飲んでいれば命にかかわった。内密にされた事であるとはいえ……弟として感謝する」
「紫釉皇子からお聞きしているのですね」
以前の毒が盛られた茶葉については紹賢妃にも伝えていないことだった。
それを知っているということは、紫釉が自ら劉偉に伝えたということだ。
その理由が分かる。
紫釉と、そして玲秋が彼の姉の味方である証を見せたのだ。
その事で少しでも劉偉に対し信頼を得れば未来に起こりうる最悪の結末を緩和できるかもしれないと踏んだのかもしれない。
それならば、玲秋もまた態度を改めなければならない。
彼と対峙する度強張ってしまっていた態度を改めるために、玲秋は少しばかり間をおいてから劉偉に対し微笑み礼を見せた。
「紫釉皇子から信頼厚い劉様に、私からも信頼をお返し致します。至らぬ身ではございますが、賢妃の御身を御守りすることを誓います」
「…………」
劉偉の表情がぽかんとした顔をしていた。
日頃冷徹な大将軍と称される彼からは想像できないような、なんとも言えない表情だった。
「劉様……?」
「そ……貴女の体も大事にしてほしい。貴女の身に何かあっては……彼の方も心配なさるだろう」
「……お元気でいらっしゃいますか?」
直接的ではないとはいえ、紫釉の名が出ると玲秋の胸が大きくざわつく。
嬉しいような、それでいて会えない寂しさなのか。
彼が今どのように過ごしているのか聞きたかった。
玲秋と紫釉の間では、相変わらず文のやり取りが続いていた。報告をまとめたような真面目な文から、ひたすらに会いたいと願う恋文のような文まで送ってくれる。
名残惜しくも燃やし捨てなければならない文。贈られる喜び、捨てる哀しみ。紫釉との関係はその延長線だった。
玲秋は不思議でならなかった。
過去にも同じように文のやり取りはあったものの、顔を合わせた数は少ない。
だというのに、紫釉に惹かれて止まないのだ。
「…………ああ。息災なく過ごしておられる」
「そうですか……安心致しました」
無事でさえいてくれればよい。本当はもっと顔を見たいし声を聞きたい。
まだ若い年齢であるはずの紫釉。玲秋の方が年上なのだが、過去を繰り返しているためか紫釉の態度は出会った時からひどく落ち着いており、年下とは思えない風貌。
それでいて宴の際に会った彼は驚くほど成長していた。背は玲秋を超え、声色も透き通るようで心地良かった。
愛おしい想いが顔に浮かぶなど想像もしていない玲秋の様子を、ただ劉偉は黙って見つめていた。
分かりやすいほどに純粋な玲秋。
姉に対し純粋なまでに思いをぶつけ、既に半年以上官女として過ごしているというのに悪評どころか後宮で噂されるほどの美姫。
彼女を伽にと、求める皇帝を諫めたのは他ならぬ劉偉だった。
姉からの依頼でもあった。恩人であり、自身が身籠ったことにより今は事を荒立てたくないという采配でもあった。
姉が皇帝の子を身籠ったことにより紹の一族は今王朝に対し大きな態度を見せることが出来る。勿論使いすぎてはならない。あくまでも王に仕える家臣の一つとして、ただ少しばかり発言が許される程度の態度だ。
だが、他の家臣に見せるにはそれで充分だった。
皇帝から寵愛を受ける趙昭儀の一族が昨今王朝内でも強い態度を見せていたが、賢妃の懐妊により立場が若干落ち込んでいた。
(仮に昭儀の位が四夫人になっていたらまた変わっていたであろうな)
聞けば先日茶葉に含まれていた毒の送り元を考えてみれば、李貴妃の立ち位置は大きく変わっていただろう。紫釉皇子によれば、それこそが黒幕の思惑であろうということから貴妃の名も公にはしていない。
だが、皇后には釘を刺した。
李一族が脅かされる可能性のある今、大きく事を荒立てるような行動は慎むべきだと紹一族から伝えれば、皇后を含め李一族は口を噤んだ。
汪国で一時は名を牛耳った李一族を黙らせることが出来た事は僥倖だ。
(あとは……)
趙昭儀と、彼女の一族を思い浮かべる。あそこは一筋縄ではいかない。必ず紹賢妃に対し行動に出る筈である。
劉偉は暫く黙り、じっとこちらを見つめ微笑んでいた玲秋を見つめる。
(何事もなければよい)
健気な彼女の笑顔が曇らなければよい。
願わくば。
劉偉を見つめる顔が、このまま微笑んでくれればよいと。
小さな願いを込めながら、劉偉は玲秋の笑顔を見つめていた。




