改編 一
二日に渡る大雨により甚大な被害が生まれた過去に比べると今の状況がとても良いことを玲秋は知っている。
水害を見越して築かれた堤防により水が農村に被害を及ばす数が大いに減っていたのだ。
特に紫釉が州牧を務める安州の被害はほとんど無かった。これは、紫釉が過去に戻ってから第一に行っていた準備が功を成したからだった。勿論他の州や皇帝に提案や予防すべきだと忠告をしてはいたが、その声に従わなかった州の被害は大きかった。
この行動に対し民は賞賛した。特に畑の被害を深刻に見ていた民は被害が及んだ民の様子を見ては安堵し感謝することだろう。
次期皇帝と言われる第一皇子以上に紫釉こそ天下に相応しいと噂する声すらあった。
第一皇子巽壽が州牧を務める錦州の被害が大きかったせいもある。
巽壽は何一つ水害の対策を講じてはいなかった。それどころか他州よりも暮らしがひっ迫していたこともあり、瞬く間に立場が崩れ落ちていた。
更に事態が一変したのは、賢妃である紹充栄が懐妊したことがある。
もし男児が誕生するとなれば、長く汪国に仕えた紹一族から皇子が誕生することとなる。
第一、第三皇子よりも母の立場が強い紹賢妃の皇子が次期皇帝となれば、政権はより盤石となる。特に姉弟で交流深い紹劉偉大将軍の後ろ盾もあり、この時の皇帝は紹の言葉を蔑ろにすることは出来なかった。
何より皇帝が水害が起きた頃、宴を催していたどころか我先に避難をしていたことは後宮だけではなく外朝でも知れ渡っている。
暫くは行動をお控えするように。
紹将軍の冷たい視線に諫められ、気まずい表情を見せながらも大人しく城に籠る皇帝の様子に劉偉は溜息を零す。
そして、「父に行動を控えるよう強く伝えてほしい」と頼んできた紫釉の顔を思い出す。
あの青年は逸材だ。
先見の明を持ち、未来すら予測しているような行動。
まだ若き皇子だというのに、その言葉遣いや風貌は紹以上の年かさを感じるほどだった。
紫釉は賢妃の懐妊が分かってすぐ、劉偉に文を送っていた。
『貴殿の甥には天より与えられた恩恵が得られるだろう。私は生まれる弟に天を見せたい』
天とはつまり皇帝の座を差す。つまり、紫釉は劉偉に対し生まれてくる弟に王位を与えたいと言うのだ。まだ性別すら、生まれることすら分からないというのに、その文面には明確な意思が感じられた。
真意は分からないが、劉偉はそれが偽りではないと分かる。
紫釉には皇帝の座に対する野心が何一つなかった。
知力もあり皇帝となれば賢君として名を残すことも出来るだろうに、彼には一切の欲がない。
彼から感じる欲を言うならば、それは一人の女性に向けられているのではないだろうか。
劉偉は先日顔を合わせた蓮花の姿を思い浮かべる。
確かに美しい女性であった。謙虚な様子で、それでいて媚びない姿勢。
一つ拭えない疑問は、劉偉に向ける恐怖。
いつ劉偉に殺されるのか。そんな恐怖心を抱きながら視線を向けてくる。
劉偉にはそれが不思議でならなかった。
それと同時にどうしてだろうか。
ひどく、とても。
悲しいと思ったのだ。
月日は瞬く間に夏を終える。
地の祭祀をつつがなく終え、秋の訪れを待ちわびる。
紹賢妃のお腹も大きくなり、間もなく赤子が生まれてくるのではないかと清秦軒では賑わいが絶えない。
「このように元気にお腹を蹴られているのですから、皇子様かもしれませんね」
「ふふふ……これで女子でしたらとてもやんちゃだわ」
何度もお腹を蹴ってくるらしい赤子の様子を微笑ましく見つめる紹賢妃の様子に玲秋は朗らかに微笑んだ。愛おしそうにお腹を見つめる賢妃の表情はみるみる女性から母親らしい面影を築いていく。赤子の成長と共に、母の自覚が芽生えていると、かつての賢妃が言っていたことを思い出す。
「皇子がお生まれになられれば、趙昭儀もこれ以上突っかかってこないですかね」
「こらっ明琳。そんなことを思っていても口にしては駄目よ」
共に茶の支度を整えていた明琳に対し同じく官女の愁蘭が諫める。彼女達は古くから紹賢妃に仕えているため、こうした軽口を言い合っていても咎められることはない。
二人の様子を眺めていた紹賢妃は穏やかな笑みを浮かべながら見つめている。
暖かく優しい光景。
玲秋は改めて願う。この平和を絶やさず残り続けたい、と。
予定を考えれば間もなくに紹賢妃は殺される。
死んだ理由も、原因も、殺された方法すら分からない。ただ事実だけを玲秋は知っている。
(少しでもおかしいところがないか確認しなければ)
いつも以上に念入りに茶葉や食器に気を遣う。
毒殺なのか、暗殺なのか。
物に変化が無いかを毎日必ず確認する。
建物内に変わりがなければ次は外を。
池の周辺は水嵩が増したために今は近づけないようになっている。
玲秋は塀や木々の間までを掃除する素振りを見せて確認していると。
「まるで不審者のようだな」
低い声色で話しかけられてきた。
驚いて振り返れば、相変わらず侍医の衣を身に纏った紹劉偉が立っていた。




