懐妊 六
身体中が冷たいはずなのに触れ合う唇は温かいと思った。
瞳を閉じて唇を重ね合っていれば、紫釉の髪から水が伝い玲秋の頬に垂れる。
薄っすらと瞳を開けた玲秋は紫釉と目が合う。どうやら紫釉もまた目を開けたところだったらしい。
触れていた唇が離れたが、名残惜し気にもう一度紫釉から口づけされた。
「…………其方が父と顔を会わせると知った時は気が狂うかと思った」
紫釉の言葉に玲秋は気付く。紫釉には全て分かっていたのだろう。
今回の宴が、蓮花の披露目を兼ねたものであるということを。
申し訳ない思いから、僅かに顔を俯かせるが紫釉の指が玲秋の頬に触れ顔を上げさせる。
「父に触れさせなどしない」
「紫釉様……」
心臓が煩いほどに高鳴っている。
彼の言葉に従い、もう一度唇を重ねようというところで雷が落ちた。
一瞬明るくなった光景と音が玲秋を現実に戻らせた。
「公主……珠玉公主をお探ししているところでした」
「だと思った」
慌てて立ち上がろうとする玲秋を優しく掴みながら紫釉が穏やかに微笑んだ。
「珠玉は先んじて離宮に避難させている。彼女は無事だ」
「紫釉様は……今日このような事が起きると……ご存知だったのですね」
「ああ。暦を確認していたからな。後宮の内部で浸水による被害が出ることも知っていた故に混乱に乗じ後宮に入った」
ふと、よく見れば紫釉の衣装が皇族らしい衣装ではないことに気が付いた。
宦官や官吏の者が着るような地味な色合いをした服を着ていた。
「玲秋」
改まった表情を見せて紫釉が名を呼ぶ。
「茶葉を祥媛より預かった。あれは、今後の後宮の政権を大きく変える切っ掛けとなる物だったのだ。其方が持ち運んできたことには驚いたが……ありがとう。其方のお陰で多くの者の命と職が救われることになる」
「どういう……ことですか?」
玲秋には、あの茶葉にそれほどの影響があると思ってもいなかった。
「過去の記憶を覚えているだろうか。あの茶葉は皇后の妹が紹賢妃を暗殺するために用意されたと言われている。その真実は定かではないが、露見したことにより皇后側の権威は地の底にまで落ちた。李貴妃は亡くなり皇后も立場を追われ静養という名の監禁状態となる。権力を失った皇后の影響で其方の官女も異動していたし、珠玉の官女も数を減らされていたのだが覚えているか?」
「覚えてはおりますが……そのような事実があったことまでは」
「この暗殺未遂を機に政権を翻したのは趙昭儀だ。空席となった貴妃の席に趙昭儀を置き、後宮内は悪化の一途をたどっていた。其方が毒を先んじて取り払ったため貴妃の権力は覆されない。これは、大きな貢献だ」
「紫釉様……」
「ありがとう、玲秋。私には変えることが出来ないと思っていた未来を其方が変えてくれたのだ。危険に巻き込みたくない思いはあるが……それでもよくやった」
紫釉の言葉を聞き終えると同時に、玲秋は頬から涙が伝っていた。
「玲秋?」
「いえ……違うのです……っ」
誤魔化そうと思ったが、それは出来なかった。
嬉しかった。
何も出来ないと思っていた。たとえ未来を知っていても玲秋一人では何も救えないのではないか。そんな不安がよぎっていた。
けれど違うのだと、紫釉の言葉からようやく自分自身を認められた。
(私は未来を変えられる……)
どのような未来かは分からない。けれどもあの地獄のような未来を回避できるのであれば。
「玲秋」
「大丈夫です。ありがとうございます……紫釉様のお言葉に感動しておりました」
「……何度も言うが、本来であれば其方を巻き込みたくはなかった。だが、其方の判断は正しい。後宮は後宮に属する者でしか変えることが出来ない」
歯がゆい思いを吐き出す紫釉の表情は暗い。
「私は争いを極力無くし、血が降り注ぐような未来を避けたい。そのためにも、貴女の協力は不可欠なのかもしれない」
「紫釉様……私が紫釉様と共に過去に遡ることとなったのも、こうした働きを求められていたのでしょう。どうぞお任せくださいませ」
それは確かに玲秋の本心から出た言葉だった。
過去に戻ったことは珠玉を救うために行動せよという神のお告げなのだと思った。
けれどその言葉を聞いても紫釉の表情が明るくなることはなく。
むしろ、暗い影を落としたのだった。
「……この水害と同時にもう一つ大きな事件が起こることは玲秋も知っているな」
改めて互いの服を乾かし合いながら建物の中で暖を取っていた。紫釉の話ではこの後多少雨は治まるため、その時を見計らって移動する話となった。
後宮に紫釉が居続けることは危険であることは承知しているが、離れ難いと思う玲秋は自身の我儘な心に叱咤していた。
そんな時、紫釉が告げた言葉に玲秋は静かに頷いた。
「この雨の後、紹賢妃は体調を崩す。雨に濡れたために体を壊したと言われるが懐妊と分かる。それと重なり各地水害により混乱が生じるだろう。水害の被害は私の方で対応できるが……」
「お任せください紫釉様」
玲秋は紫釉の手を握る。
「紹賢妃の御体は私が御守り致します」
そして、予測した通り。
ようやく雨の明けた日より紹賢妃は体を壊す。
賢妃の侍医の診断により、彼女の懐妊が報告されたのだった。




