懐妊 五
甲高い男性の声が響くと共に、屋敷内は騒然となった。
まず護衛についていた衛兵達が徐欣に駆け寄り、皇帝の身をいち早く避難させるべく移動させた。徐欣は酔いで顔を赤くしていたがその表情は強張り、声もなく兵と共にその場を去った。隣に居た紹賢妃や蓮花を気に掛ける様子はない。
賢妃の表情は強張っていたものの動揺はなかった。
皇帝が立ち去ったと同時に動揺で悲鳴を上げる官女達に対し静まるよう叫ぶ。
「急いで屋敷を出て仁春宮に向かいなさい!」
仁春宮は後宮内の東側にある救護のためにある建物だ。過去の玲秋も静養のために仁春宮で過ごしていたため、その建物の位置も全て把握している。
逃げ惑う官女達の中で、玲秋は紹賢妃に寄り添い彼女を避難させるために道を進む。
そんな玲秋の行動に賢妃は大きく目を開く。
「蓮花……貴女」
「急ぎましょう、小主」
外に出れば大雨が待ち構えている。
玲秋が外に出れば屋内では分からなかったが随分と雨が酷く降っていた。
まだ肌寒さの残る時期に冷たい雨が体を一瞬で冷やす。
(強い雨……一体いつまで降るのかしら……)
そう考えた時、玲秋は思い出す。
水害が起きた過去の出来事を。
(あれは……あれはいつだった?)
水害により汪国に大きな打撃を与えたのは、確か春先のことだった。
当時の玲秋は矢傷の治療により日付も曖昧な頃に起きたことしか覚えていなかった。
(まさか……これだというの?)
汪国を襲った水害。
春先に訪れる雨は汪国にとって不思議なことではない。その頃も、いつものように雨が降っていたという。
だが突如として天候は汪国に牙を向ける。
降り注ぐ雨は天の怒りを表すかのように汪国を襲い、川や湖だけではなく、城内まで水が襲ったという。
足元まで浸水したという水害により最も被害を受けたのがまさしく紹賢妃の屋敷だった。彼女の屋敷のほとりには人工的とはいえ池を築いていたからだ。
玲秋はなるべく紹賢妃を支えながら仁春宮へ走る。転ばないよう手を支える玲秋の表情を雨の中で見つめる賢妃の表情は薄暗くて見えなかった。
他の妃達も同様に集まっていた仁春宮は人で溢れていた。
他の官女に賢妃を任せた後、玲秋は急いで珠玉の安否を確認するために建物の中を駆ける。時に声を掛け、珠玉の居場所を確認した。
けれど珠玉を知る者はいない。
(公主……!)
不安が襲う。
あの時、過去の時はどうだった?
思い出せない。
あの頃の玲秋はまだ病み上がりで珠玉がこの時無事だったのか覚えていない。
濡れて冷えた体をそのままに玲秋は走り出す。
時折すれ違う官女の顔を確認しながら明翠軒に走る。灯りもなく土砂降りの雨では道も分からない。それでも、確かめずにいられなかった。
「公主……!」
不安から叫ぶ。
雨でかき消えてしまうというのに。全身が鉛のように重いままに。それでも玲秋は走った。
突然、腕を強く掴まれた。
走り息も切れていた玲秋はその力に抗えず、身体を崩す。
しかし地面に倒れることはなく、温かな何かに包まれた。
「玲秋……!」
騒々しいほどの雨の中でも、その声が誰であるか玲秋に分かった。
けれど幻だと思った。
ここは後宮で、彼が入れる筈無いのだ。
しかし玲秋の名を呼んだ主はもう一度彼女の名を呼び、そして強く抱き締めた。
数か月会えなかっただけだというのに、彼の体格は成長していた。初めて顔を合わせた時は玲秋より少し背の高い青年は、あっという間に玲秋を包み込むほどの背丈で抱き締めてくる。
声も、少し低く掠れていた。
不思議なことに玲秋にはとても馴染み深い声だった。
懐かしい。
愛おしい。
そう、思わずにいられない声の主。
「紫釉様……!」
そこには確かに紫釉が居たのだった。
紫釉もまた全身が濡れ、互いに見つめ合えば前髪から雫が滴り落ちている。
紫釉は玲秋を抱き上げるとすぐ近くにあった建物まで走り出した。建物に入ってみれば誰も中にはおらず避難をした後らしい。
紫釉は周囲を確認すると拭くものを探す。適当に見繕い玲秋に掛けた。彼自ら玲秋の頬を、髪を拭う。
間近で見つめてくる紫釉と目が合うだけで玲秋の体は熱くなった。見られているという恥ずかしさ。会えたことの喜びが体中から溢れてくる。
「紫釉様も……」
玲秋は近くに置かれた布を手に取り、紫釉の頬と髪を拭いた。ぽたりぽたりと落ちる雫。少しだけ日に焼けた肌は少年らしさを脱ぎ捨て、一人の男としてその場にいる。
互いに拭きあう間、言葉はなかった。
何故此処にいるのか。
どうして傍にいてくれるのか。
今、何が起きているのか。
尋ねたいことは沢山あった。
けれど言葉を放つことは出来なかった。
互いに見つめ合い、一瞬たりとも視線を外したくない強い欲が二人を掻き立てる。
紫釉の前髪が玲秋の頬に当たる。
顔が、近づく。
互いに冷えた鼻先が触れ合う。
玲秋はゆっくりと目を閉じた。
その先に何が起きるのか、見ていては止めてしまいそうで。
玲秋は自身の理性をせき止めて瞳を閉じた。
そうすれば彼女の唇に柔らかな紫釉の唇が触れ。
二人は氷のように冷たくなった唇を重ね合っていた。
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