懐妊 二
皇帝が賢妃の元で酒宴を行う話が出ると、後宮内はたちまち賑わいだ。
久方ぶりに行われる趙昭儀以外の妃との行事に家臣を含め憶測が走る。
ついに趙昭儀に飽きたのだ。
紹賢妃が外戚に命じて宴を要求したのだ。
歯に衣着せぬ噂話はまたたく間に後宮だけではなく外朝にも知れ渡る。
将軍、紹劉偉も噂を耳にした当人の一人である。
時には遠慮がちに真相を知りたいと官僚が劉偉に尋ねてくることもあるが、一瞥するだけで黙らせる劉偉の口から真実が伝えられることは勿論ない。
姉の考えに間違いはないことだけは確信している。
汪国の未来を憂い、紹の一族が背負う未来を憂い、己が出来ることを後宮内で果たそうとする強き姉。
劉偉は姉の行動に疑問一つ抱くことはなかった。
恐らく姉のことだろう。何か目的があるはずだと。
ただ、一つ気掛かりがあるとすれば劉偉を怯えた瞳で見てきた蓮花という官女のことだった。
好奇の目でも野心めいた目でもなく怯えた蓮花の目が、劉偉は忘れられなかった。
(何故だろう)
何一つ、彼女に対し罪悪を感じるような行いなど劉偉はしたことがない。
だというのに、ひどく心を痛めるのだった。
酒宴が決まるや否や、想像を絶する忙しさに見舞われた。
近頃は蓮花の化粧も以前ほど華やかさを装わず、着飾るというよりも手伝い要員として走り回ることが多い。
皿の数、配膳する食事の内容確認、お酒の量は、皇帝以外に参列するような者がいるか。守衛兵へ労うための銭まで用意した。
玲秋は初めて宴を催すためにどれだけの労力が使われているのかを知った。
そして、その労力を難なく続けていく皇帝の行為に呆れた。聞けば紹賢妃との酒宴が決まった後、寵愛している趙昭儀が拗ねて自分にも酒宴をしてほしいとねだったという。それに承諾し、賢妃の宴が終わった後、別の日取りで昭儀との酒宴も予定されているらしい。
「蓮花、小主がお呼びよ」
建物外にある備蓄庫で酒の数を確認していた玲秋の元に顔馴染みの官女がやってきた。
竹簡を読みながら数を数えていた玲秋は他の官女にそれを手渡し、足早に建物へ戻る。
走る間、一瞬だけ空を見上げてみれば曇り空に覆われている。晴れ間など見えることはなく、今が昼なのか夕刻なのかすら分からない。
あと少しでもすれば雨が降り出しそうな天気に玲秋の胸はざわついた。
「蓮花です。お呼びでしょうか?」
「ああ、来たわね」
紹賢妃は官女に手を揉ませ寛いだまま寝台に座っていた。近頃体がむくみ、体調が思わしくないという。
玲秋は理由を知っているが、それを口にすることなく賢妃の言葉を待った。
「明日の夕刻から酒宴があるでしょう? 貴女に私の側仕えをお願いしたいの」
「私でよろしいのでしょうか」
賢妃には筆頭の官女がついている。行事ごとがあれば常に彼女を連れ立っていたことを玲秋は覚えていたため確認をするが、優雅な笑みを返された。
「ええ。貴女がいいの。陛下に御膳を用意したり酒を注いでくれればいいわ」
「…………」
さすがの玲秋にも分かった。
飾られ過度なほどに装わせた官女、蓮花のお披露目なのだと。
「…………かしこまりました」
頭を下げ、退室するがその手は震えていた。
まさか。
あり得ない。
大丈夫。
気休めに自身を慰める。
皇帝に相手にされるようなことなど決してないと玲秋は思う。
けれど、本当に?
一緒に働く官女達が口にしていた言葉を思い出す。
蓮花なら陛下に選ばれるかもしれない。
そう、嬉しそうに囁く官女達の言葉が耳にこびりついて離れなかった。
(いらない)
気付けば玲秋は走り出していた。
動悸が治まらない。手は冷えて感覚すらなかった。
(恩恵なんて……いらない!)
心から思った。
選ばれたくなどない。
皇帝の妻になんて、本当はなりたくなかった。
一族の総意により強制的に妃となるよう躾けられ、そして物のように贈られた。
家族の願いを叶えるために心を殺して後宮に入ってみれば。
たった一度の機会は他の官女らによって潰された。
皇帝が玲秋を選ばず、後宮の隅に追いやった時も玲秋は安堵した。
もう、何の柵にも縛られることはないのだと。
(いやよ……嫌……)
はたはたと涙が零れ落ちていく。
時が戻り生き長らえる機会があったとしても、こんな未来があるなど思いもしなかった。
皇帝に愛される日など二度と来ないと思っていた。
否、来なければ良いと思っていた。
玲秋には幼い頃から抱いていた憧れがあった。
いつか、愛する人と手を取り合い愛する人の子を授かり育てていく。
道具のように扱われる玲秋が、村で見かける小さな家族の光景を見る度に羨ましかった。
なまじ権力と野心がある家に生まれた玲秋には叶えられない願い。
眺めることしか出来ない理想の光景。
後宮で愛する人はいなかったが、それでも大切に思う珠玉を育てられることは玲秋の憧れに通じていた。愛おしい、大切な我が子同然の存在。
妹のように娘のように、ひたすらに愛情を注げる相手。
そう。
玲秋はいつだって、愛情に飢えていたのだから。
息を殺し涙を流す間。
何故だろうか。
玲秋はずっと、紫釉の姿だけが思い浮かんでいた。
理由は分からない。
けれど、どうしてだろうか。
今すぐ、彼に会いたいと思ってしまったのだった。
零れ落ちていく涙を袖で拭い落ち着くまで家屋の隅に引きこもっていた。
気持ちが落ち着き、そろそろ仕事に戻らなければならないと思った時。
コトリと何かの音がした。
ふと視線を向けてみれば、人影が屋敷の隅で玲秋と同じように蹲っていた。影を潜め隠れていた玲秋の存在には気付いていないらしく、その背中は何かに集中している。
使用人らしき女が立ち上がると、綺麗な布で何かを丁寧に拭いていた。拭いていた物は小さな壺だった。
官女として働いていた玲秋には分かる。あれは、紹賢妃が第一皇子の母でもあり、皇后の妹でもある李貴妃から贈られた茶葉の入った壺と同じ装飾であると。
そして思い出す。
紹賢妃が亡くなるよりも前。
李貴妃が殺人を企てた罪により冷宮に送り込まれ、そして自殺をしたことを。
その後、貴妃の位に就いた者が。
趙昭儀であることを。




