第三話 「キミが眠るまでに」開始
「なにニヤニヤしてるんですか、気持ち悪いです」
「え、ニヤニヤしてる?そんな事ないだろ」
俺は自分のほっぺたを両手で触ってみる。いつも通りの頬だ。
「…ニヤニヤしてます」
「うそぉ」
俺はアパートの入口に立ち、木須屋さんは自宅の前に立っている。
道路の両端に立っている状態だ。互いの間には三メートルほどの開きがある。会話をする距離ではないが、木須屋さんが近づけさせてはくれないのだ。
「当たり前です、私とあなたが接近して喋っている姿が見られたら、私に悪い評判が立ちます」
「それは理解できるけど…」
自分のような中年が、嫌がる女子校生のそばで話しかけていたら、通報ものであるのは俺もわかっている。
火曜の夕方、学校から帰宅してきた木須屋さんに呼ばれ作戦会議をすることになったのだが、まさか路上で行われることになるとは。
「前回の魔物化が日曜でしたので、月火と二日経ちました。三日間のインターバルという過去の学びから水曜以降が危険だと…」
「ごめんなさいね~」
鈴を鳴らしながらおばちゃんの自転車が二人の間を通った。俺はそれを目で追った後、木須屋さんを見る。
「…危険ですので、そういう心づもりでいてください。発生時刻も深夜…」
今度は車が音を立てて通り抜けた。
それを目で追った後で木須屋さんを見ると、彼女は固まっていた。
「だから言ったでしょ、道路で会議は無理だって」
「じゃあどうするっていうんですか」
「ファミレスとか」
「却下です。もしも私の友達とかに遭遇したらどうするんですか。余計な説明に時間を取られますし、噂というのは尾ひれがつくものです。特に学生生活においては」
「じゃあ君の部屋」
「却下。百%却下します」
「ご家族がいるとまずいか」
「両親はこの時間でかけていますが、そうでなくても許されません」
彼女はそういって睨みつけた。先日の天使のような微笑みとはずいぶんと違う。
「じゃあ…」
「じゃあ?」
俺は、心の炎を最大にし、太陽の温度にまで加熱する。今から言う言葉から全ての不純物と不順な動機を滅却させなければいけないのだ。
「俺の部屋、来る?」
決まった。完全なるナチュラルフェイス。完全なるビジネスライク。完全なる大人の余裕。全ての純粋さと潔白さと誠実さを結集させた真に純粋無垢なワードをついに言い放った。俺はこの一言を言うために今日という日を迎えていたのだ。
木須屋さんの顔が、吹雪の中に立っているかのように凍りついていた。
「おじゃま…します」
玄関で小さく挨拶して木須屋さんが俺の部屋に入ってきた。
まず玄関の隣にある小さなキッチンを見て
「はぁ」
続いてほとんど書庫と化している六畳部屋を見て
「はぁ」
最後に南向きのリビング兼仕事部屋に入って
「はぁ」
しばらく周囲を見回した後で
「それほど汚くないんですね。驚きました」
綺麗なことではなく、汚くないことに驚かれた。中年男性の一人暮らしの部屋である。綺麗なわけがない。この部屋にしても、先日の死を覚悟した最後の掃除のおかげでマシになっているだけなのだ。「跡を濁さず」精神がこの部屋の感想を「不潔」から「汚くない」に格上げさせただけなのだ。
「そりゃどうも」
俺は内心の動揺をさとられない様に落ち着いた大人の様子を作り続けた。
部屋の中の輝きが違うのだ、彼女がいるだけで。部屋のルクスが上がる。香りが良くなる。空気が清浄化される。
心が沸き返るのを抑えなければいけない。
リビング兼仕事場で彼女と正面を向いて座った。
小さな折りたたみのテーブルとクッション。来客用のセットなんてない。食事用のテーブルとチェアーなんてものもない。独身生活には不要なものだ。
ようやく、世界の運命をかけた作戦会議が行える状態になった。
「まず…」
彼女が切り出した。
「まず、あなたのお名前を教えて下さい」
「え?」
お互い、自己紹介もまだだった。名前も知らずに、ここまで突っ走ってきたのだ。
「郵便受けに落合とあったので、名字はわかりましたが」
「落合じゃないです、オチタニです」
俺は財布を取り出して、仕事用の名刺を渡した。女子校生である彼女は当然、名刺をもらったのは初めてのようで、珍しそうに手にとって眺めた。
「落合落土【オチタニ オチツチ】…さん?」
「オチタニ オチド です」
「落谷落土?……酷いお名前ですね」
「生まれた頃から同感です」
三〇年以上、その名で生きてきたので、まったく同感するしかない感想だった。
「そちらは、木須屋さんでいいんだよね?」
俺は確認した。名字は表札で確認済みだが、彼女の名前は知らない。
本名を聞かれた彼女は正座している姿勢を正して言った。
「私の名前は、キスや吐息です」
「ハイ?」
聞き返された彼女の顔は赤い。覚悟を決めもう一度繰り返した。
「木須屋吐息【キスヤ トイキ】です」
俺はようやくその文字の並びを理解して
「吐息…」
思わず呼び捨てにしてしまったためか、彼女の肩がビクリと上がった。
「お互い、親のネーミングセンスに苦労してるみたいだね…」
さすがに慰めの言葉が出た。彼女の美貌と人格からすれば、男子にからかわれる事があっても、苛められる様な事はなかっただろうが。
「あの、落谷さんは、ご両親に文句を言ったことってありますか?その、名前について…」
「まあ、何回かは…」
「すごい!やっぱり大人なんですね」
自分の両親に付けられた名前がどうかしてる、と文句を言うことが凄い事になるのだろうか。
「いや、木須屋さんも言ってみれば、素直に」
「まだわたし、親に養ってもらってる学生の身分なので、それに愛情込めてつけてもらった名前がいやとか言ったら、お母さん悲しむだろうし…」
「じゃあ、成人したら。一回位はいいと思うよ、言っても」
「そ、そうですよね。一回言うくらいは…成人したら…」
自分の名前に関して、そうとう気にしていたようだ。
「あの、お仕事はなにを?」
部屋の隅に置いてある仕事用PCと液晶タブレットをチラチラ見ながら尋ねた。
「名刺にもあったように、フリーのイラストレーターです」
俺はIPADを持ち出して、自分の仕事のサンプルを見せた。カードゲームのイラストを仕事で描いたものだ。
「へ~~、へぇ~~~、あ、これ知ってます!」
先程までと違い、妙にウキウキとしている。こういう仕事部屋に来たのが初めてなのだろう。俺も悪い気はしなかったが、なにか本筋からどんどん離れていっている気がしていた。
「トイキ、いい加減にしないか」
同じ様に思っていたらしく、吐息の髪の毛の中から、プラスチックのフナムシ、ソダリーが現れた。
「あ、そだ。ゴメン。うぉっほん!」
吐息はわざとらしく咳をし、テーブルの上のIPADと名刺をきれいに並べた後でようやく本筋に入った。