第二話の2
翌日の朝、ようやく起き出した俺は、締め切り前の仕事を手早く片付けた。こんなに快調に仕事が進んだことは今までなかった。
「死んじゃうという締切は凄いな」
出来上がったファイルを送る時、別れの挨拶でも入れようかと思ったが、メール先の顔も知らなかった。同じ仕事先だが担当者が何度も変わっているため、名前も満足に覚えていない。
「まあ、次の依頼メールに返事がなければ、それで終わりだろう」
自分の人生の社会との接点の少なさ、接点の弱さを思う。寂しくはあるが悲観するほどでもない。
「あとは…」
部屋の掃除と洗濯だが、まだ早朝なので後回しにしよう。食い物がないのでコンビニに行くことにした。最後の晩餐がコンビニの食事になるだろう。コンビニ飯で生き、コンビニ飯で死ぬ。それでいいじゃないか。
財布を持って外に出た。
アパートから出ると、目の前にお隣さんの女子校生が立っていた。何かを待っているかのような険しい表情でこちらを見ている。俺は思わずほころんだ顔で
「おはよう!」
と元気よく挨拶してしまった。
「え?あ、お早うございます」
彼女は驚いて返事を返す。朝っぱらからこんな中年に出会って挨拶なんてされたら不機嫌にもなるだろう、彼女の顔は少し険しいものだったが、こちらは人生にもう後がない中年だ、陽気に話ができる。別れの挨拶だってできる。
「急なんだけど、引っ越すことになったんだ」
「え?、キュ、急ですね。どちらに?」
「遠くさ…」
そう言って俺は空を見上げる。彼女は眉をしかめる。
「あの、それって絶対に行かないといけないんですか?」
「え?引き止めてくれるの?」
「引き止めては…いません。けどよく考えた方がいいと思います。この街だって、住みやすいし…」
「住みやすいし、君の故郷だもんね。でも俺はもう、ここにいちゃいけないんだ」
「…誰かに追われてるんですか?…借金取りとか」
「ハハハ、借金取りよりも、も~~~~っとおっかない人に追われてるんだ」
「おっかないって…そんなわけないじゃないですか!」
「いや~、すごいのが家に来てね、もう大暴れしたから」
「大暴れ…それは怖いですね。ひどいですネ…。だから逃げるんですか?」
「逃げないよ。逃げない。自分の役目を果たすために、ここにはいられなくなった。大人だからね、おじさんは」
「大人は…逃げないんですか?怖くても」
彼女と会話している時、ヘリコプターが頭上を通過する音が響いた。このヘリも、あの競馬場に向かうマスコミが乗っているのだろう。
「ずいぶん、怖いことになっちゃったね」
俺は何機ものヘリが上空を飛んでいる競馬場の方を見ながら言った。
「そうですね、また壊れたみたいで。でもあれは事故であって、誰かが悪いわけじゃ…」
「俺は、みんなが怖いと思っていることを放っておいちゃいけないと思うんだ。誰かが対処しなくちゃいけない。一人で対処できないなら、二人で…」
「二人だったら対処できるんですか?」
「一人じゃ無理みたいだから…二人じゃないと」
彼女と一緒に遠く競馬場の方を見つめていた。女の子とこんなに長く喋ったのはいつ以来か。死ぬ前にいい思い出が出来た。
「じゃあ」
最後の晩餐を買いにコンビニに出かけた。覚悟が決まっている男は、たとえ女子校生が見つめていたとしても振り返らない。
食事を終え、部屋の片付けをした。大掃除には程遠く、床を撫でるだけの掃除だが気分は良くなる。
「俺だって、跡を濁さず」
濁しっぱなしの人生だったが、最後に女の子二人と知り合え、会話が出来た。十分だった。一人はお隣さん、もう一人は世界を守っているらしい魔法少女だ。小さな荷物を懐に抱えて座り込み、待った。
夜を待った。
夜空の月のすぐ横に、新しい星が輝いていることに気づく者はいなかった。
アパートから出てきた男も気が付かなかった。周囲の人がいないかだけを気にしていた、空など見る余裕はない。男は小さな荷物を抱えて、小走りにでかけていった。
月の横で輝く星、魔法少女は男の様子を空から見ていた。空高くに浮かんでいた彼女は、男が走っていった方向に飛び、追跡を開始した。
深夜の競馬場、二度目の破壊現場となった競馬場。更に多くなったマスコミや野次馬が消えるのを待っていたら、夜中の二時すぎになっていた。俺は再び敷地内に侵入しコース側から建物を眺めた。
「時間もないし…どうすんのコレ」
前回の被害が、屋根の一部の欠損だったのに対して、今回は建物から突き出していた巨大な屋根が丸々へし折られている。
「まあ、俺がやったんだけどね」
今日の部屋掃除の時に、魔法少女が訪問中に破壊した部屋の修復も行っていた。俺の修復能力は自分が壊したもの限定の能力ではないようで、彼女の壊した家具も治すことができた。修理する際に俺にその物体に対しての知識がなくても完璧に修理できる、というのを確認できたのはラッキーだった。
つまり俺はこの建物を治せる。
「ただし、それは俺がどれだけ頑張れるかが問題と…」
建物に近づくたびに、治すべき建物の巨大さと、破壊の大きさに圧倒される。傷を受け痛がってる巨象に近づいているような気分だ。俺にほんとに治せるのか?
「手近なところからコツコツと…やるしかないか」
俺は落ちていた建物の破片を拾った。この巨大な建物の大きさに比べたら、ホコリのように小さな破片だった。
競馬場を囲む様に立っている高いポールの上に、魔法少女が立っていた。彼女は眼下の競馬場で行われている、孤独な男の修復作業を見つめていた。彼の姿は一万ピースのジグソーパズルに迷いこんだ蟻のようだ。
彼女の肩に止まっているプラスチックな虫が話しかける。
「やはり私は反対だ。長い歴史の中で、門の所有者とのコンタクトは全て悲劇に終わっている。我々は最大のチャンスを得ている。彼は協力的で殺されることさえ拒否していない。いち早く殺すことで君もこの使命を最速で終わらせることができる。それを引き伸ばしても得られるのは増大するリスクだけだ」
この虫の静かな説得に魔法少女は答えを返さなかった。
「遮蔽シェードの魔法は万全なの?」
彼女は違う質問で返した。
「ああ、この周辺に貼っている魔法は、周囲の人間の意識をこちらに向かわせない。姿も音も合わせて隠してから大丈夫だ」
「そう、だったらもう少し待ちましょう」
彼女はそう言ったが、夜明けまでもうそれほど時間は残っていなかった。