第一話の完
修復作業で疲れ果てて眠った日。昼過ぎに布団からようやく起き出した俺は、テレビで騒ぎを知った。
破壊された競馬場が一夜にして元に戻ったという不可解な事件に大騒ぎになっていた。破壊された事件よりも注目を集めていた。
俺はすぐにテレビを消し、自宅作業の仕事を始めた。ニュースを見ないことで無関係であると思い込みたかったのだ。ただ、鉄骨の強度や配線がきっちり機能しているという、専門家の発言だけは聞き逃さなかった。ちゃんと直せていたことには一応安堵した。
事件から三日が過ぎた。世間での騒ぎは続いているようだが、俺は情報を遮断することでそれと距離をとっていた。事件を忘れ自宅とコンビニを行き来するだけの人間に戻っていった。ただコンビニに出かけるたびに、隣に住む彼女の姿を探したが、あれから一度も会っていない。
当然だ、彼女が家の前に姿を表すのは出かける時、つまり通学時の朝と夕方、それと出かける用事がある時だけ。合わせても一日で一分もないだろう。対して俺はというと、完全不定期な生活で昼過ぎや深夜の活動も多い。接触する可能性はほとんどなかった。隣に住んでいながら十年以上、一度も会わなかったわけだ。
事件から三日目の夜、また夢を見た。
怪物になる夢だ。
また、競馬場だった。深夜、暗闇の中、いくつか点いている照明の明かりが俺が直したばかりの観客席と屋根を照らしていた。
そしてまた、俺はその屋根を見下ろす巨体だった。
怪物となった俺の体は前回と違い、より寸胴体型のようだ、足が短くよちよちとしか歩けない。
またしてもブヨブヨのゼリー人形のような体の中に浮いている感じだった。直したばかりの建物を傷つけまいと、体を動かさないようにしようとしたが、ゼリーの体にビリビリと弱い電流が流れているのがわかった。俺の意志とは関係なく流れる神経の電流。
体が勝手に動き出した。
屋根を殴ろうとゆっくり腕を振り上げた。
「止まれ、止まれバカ!」
俺は必死で体をコントロールした。腕は振り上げた位置で止まったが、振り下ろしたくてプルプルしていた。
その時俺は気づいた。この怪物の脳の位置にいるのは俺で、思考を司っているのが俺なのだが、この怪物の体にはそれ自体に本能がある。その本能が破壊活動をしようと、弱い電流を体中に駆け巡らせている。
足が観客席を蹴飛ばそうと跳ね上がる。
それを脳である俺が止めた結果、短い足はバランスを崩して横に倒れてしまった。
結果的に競馬場のコースと、レースのための施設をいくつも踏み潰してしまった。
「やっちまった」
慌てて体を回転させて起き上がったが、被害が拡大するばかりだ。
そんな風に俺が巨体を持て余して、七転八倒している時、空から光が舞い降りてきた。
再び彼女がやって来たのだ。
「やっばっ!」
今の俺は、いたずらが見つかった子犬のようなものだ。子犬なら口頭でのお仕置きですむが、怪物である俺に対しては、
光線が飛んできた。
脇腹をかすめて競馬場の芝を焼いた。
俺の足元から建物の二階分下にある脇腹から痛みの信号津波が押し寄せて、俺を飲み込む。俺の意識が弱ると、肉体の本能が主導権を奪い取る。
俺が操っていた時よりも敏捷に動き、空中に浮かぶ少女に攻撃を仕掛ける。足の短さからは想像できない跳躍力で建物の遥か上にまで飛び上がった。しかし少女はその攻撃を空中飛行で回避して、飛んできた魔物の大きな腹に何発も光線を叩き込んだ。
潜水艦映画でみたような、海中での魚雷爆裂のような破裂が怪物の体内で起こるのが足元に見えた。そしてその衝撃波が何度も俺を襲う。
衝撃が俺の意識をかき乱し、怪物の肉体の支配を完全に失わせた。
俺の支配から開放された怪物が赤い目を光らせ、雄叫びを上げる。落下しながらも空中で回転して、腕による一撃が少女にヒットする。愚鈍そうな魔物の姿からは想像できない機敏な攻撃を仕掛けられて、小型車サイズの拳をモロに食らってしまった少女。飛ばされた先、観客席の広い張り出し屋根の上を転がり、なんとか体勢を戻したが、そこに再び飛んできた怪物の両腕が振り下ろされた。
建物の巨大な張り出し屋根が真っ二つに打ち砕かれた。
その亀裂の真ん中に、打ち落とされる少女の姿があった。
滝のように破片が降り注ぐ観客席に、少女も落ちて跳ねた。
その様子を見た俺は、急速に意識を取り戻す。このまま攻撃が続けば、
勝ってしまうのはこの俺だ。
ギュっと意識の手綱を締める。自分の両手にこの巨大な魔物の神経網を握っているのが実感できた。止めを刺そうとしていた腕の動きを食い止める。俺は歯ぎしりしながら神経を引っ張るが、持ち上げられた腕を落とさないようにするので精一杯だった。
だがその一瞬の静止が少女を助けた。再び空に飛んだ彼女に遅れて、魔物の腕は振り下ろされて観客席のコンクリ床だけを砕いた。
「逃げろ!」
そう叫びたくても怪獣の体内で浮いている俺は、声を発することが出来なかった。彼女も俺という災厄を置いて逃げることはできないようだった。
空中に退避した彼女であったが、ダメージは深刻なようだ。ツバメのように空を飛んでいた彼女が、今や弱った蝶のような飛び方だ。当然だ、鉄骨の屋根を砕く攻撃をモロに食らっている。死んでいないだけでもすごい。
何発も空を切り続けていた魔物の攻撃が、ついに当たった。空中で叩かれた彼女は、競馬場のコースの上に叩きつけられ、何十メートルも転がっていった。
そして動けなくなった彼女の元へ、魔物が巨体を揺らしながらゆっくりと近づいていく。俺の支配は肉体側に完全に敗北していた。止めようとしても止まらない。
魔物が彼女の目の前で止まり、大きく右腕を上げて構える。止めの叩きつけ攻撃をするつもりのようだ。
地面に倒れ、うつろな目でこちらを見上げる少女と目があったように思えた。
彼女は泣くことも嘆くこともなく、最後の瞬間まで目をそらさないつもりのようだ。
実に、気丈であった。
「殺させん」
俺が彼女を殺すことを、俺は許さなかった。
振り下ろされる巨大な右腕、肉体の本能はその攻撃する右腕に集中していた。
そして、左腕のことは完全に意識の外だった。
俺は左腕に最大の信号を送り、支配した。
振り下ろされる右腕めがけて、左腕を殴らせた。
彼女の寸前で、左腕が右腕の迎撃に成功した。砕かれた右腕が殴り飛ばされた方向に合わせて、体も一回転した。
自分の目の間で起こった奇っ怪な魔物の行動に驚いた彼女であったが、そのチャンスは見逃さなかった。
片手を前に伸ばすと、観客席に転がっていた彼女の槍が飛び出してきて、その手の中に瞬時に収まった。
その槍を構えた彼女は、最大攻撃を放った。
それは、俺の股下から、股間を腹を胸を、真っ二つに裂く大出力光線だ。
俺は、股間に感じた熱が下腹部を通り、胃からせり上がってくる感覚を強烈に味わった。
その灼熱の熱波の中、
「やばい」
怪物の体内にいる俺の体を横に移動させ、光線が俺自身の体を焼き尽くすのを避けた。光線は俺のすぐ横を通り、怪物の頭部を通り抜け空に通り、ついに巨体を半分に分けた。
二つに別れた巨体から、青く光るドロドロとした体液が漏れ出してくる。俺はこの魔物の肉体が完全に死んだと実感できた。今まであった神経網の温かみが消えてしまって、今ではすっかり冷めてしまっている。僅かなバランスで立っていた体が斜めになると俺の体がズルリと滑り出し、地面に向かって落ちていく
「あ、死ぬ」
頭部の高さは三〇メートル以上あるのだから、ここからの落下は確実死ぬ。しかし、俺の体は斜めになっていた魔物のもう半分の体にのめり込み、そのまま滑り台のように滑り、最後は二メートルほどの高さから転がって地面に落ちた。
ブチャリと大きな音がしたと思う。
「門の所有者がいるはずだ。前回は逃したが、今回は必ず殺そう」
誰かの声が聞こえた。少女の声ではなかった。機械を通した子供の声のような…
「所有者を殺さない限り、アビスマルは何度も現れる。見つけるんだ」
どうやら魔物の本体を探しているようだ。俺は魔物の巨大な死体の影に、逆さまに転がったまま、その話を聞いていた。
「俺だよな」
どう考えても俺のことだ。俺が魔物の本体、俺こそが魔物を生み出す魔物であるようだ。魔物退治の専門家らしい彼女らが言っているので間違いないだろう。
「誰?そこにいるのは?」
今度の声は先程の声とは違う。あの少女の声だ。俺に対して「ありがとう」と言ってくれた、あの少女の声。俺を仲間だと思って喜んでくれたあの少女の声だ。
「嘘ついてたな、俺」
怪物であることを隠して、仲間だと偽った。
少女の足音がすぐ側まで来た。
俺は観念して寝っ転がった状態から体を起こして、近づいてきた人物と顔を合わせた。
「…嘘」
驚きに目を見開いた少女が立っていた。槍を持ち見事なスタイルと衣装の彼女。マスクをしてその顔はわからないが、その瞳の形は崩れ悲しみと辛さを伝えてくる。
「なんで、あなたが…?」
俺は彼女の顔を、申し訳無さと情けなさの合わさった表情で見るしかなかった。申し開きの言葉もなかった。
「これが門の所有者だ。さあ、」
彼女の肩に乗っている、プラスチックできたフナムシのような生き物が人間の声を発していた。それだけでも充分異常だが、今はもう気にならない。その変な生き物が彼女に最後の覚悟を迫っているようだ。
「そうだな、嘘つきの中年なんて生かしておく価値もないよな」
そう思った俺は彼女の前に無防備な姿を晒した。両手を広げ、彼女に委ねた、自分の命を。
俺は魔物であったことよりも、彼女に嘘をついたことのほうが罪深いと思った。
突然の事実に悲しげに目を泳がせる彼女、だが周囲に広がる怪物の残骸と、先日とは比べ物にならない破壊の惨状が目に入った。
目を伏せた彼女は、ゆっくりと、息を吐き、吸った。槍先を俺の喉元に定めて、覚悟を込めて宣言した。
「私があなたを殺します」
闇の中、世界には俺たち二人しかいなかった。