1日目(6)
吸いかけの葉巻を灰皿に置いて、立ち上がった俺は、カーテンまで歩み寄って外の様子を窺う。
もしかしたら、もしかしたら全部嘘なんじゃないかって……、そう思って……。
カーテンの隙間から、さっきまで白一色だったはずの外に青空が見えた。
(ほらっ……ほらっ! やっぱり何かの間違いだったんだよ! いつも通りの外があるじゃないかっ!)
すぐにサッシを開けてベランダに出た俺は――落胆と――次いで大きな驚きを感じて、そこに立ち尽くすことになった。
視界の上には澄み切った爽やかな青空が広がって清々しく、遥か下方には大きな湖がずっと向こうまで広がっていて、その先に延々と続く深緑が続いている。
深緑の果てには、立派な岩壁が聳え立ち、それは徐々に弧を描いて自分のいる場所まで続いている。
俺は、聳え立つ崖の遥か高い壁面にいて、その世界を見渡していた。
美しく荘厳だ。そのパノラマから目を離せない。
300m、いや500m……解らない、以前どこかの展望台から見た景色よりずっと高い場所にいると思う。
左右を見れば、緩やかに弧を描いて張り出している岩壁の、いたるところから水が噴き出して飛沫を上げて落下し、下が霧で煙っている。
水流がベランダ上部からも流れ落ちてきていて、時々視界にカーテンをかけるのが煩わしかった。
夢中で景色を眺めた。
それは圧倒的な迫力を叩きつけて、俺を逃がさない。
(なんだよこれ……すごい……!)
5分か10分か、20分か……時間の感覚など解らない。ただただ興奮が収まるまで、その景色を眺め続け、興奮が収まっても、その景色を眺め続けた。
「このダンジョンが接する円柱内の世界、そのひとつでございますね」
急に声をかけられて、ビクッとした。
彼が左後ろに立っていた。
すっかり彼の存在を忘れていた……。ごめんなさい。
気を悪くしたりしていないだろうか?
「あ……すみませんっ。すっかり我を忘れてしまって……。自分がこんな場所にいるとは知らなくて……」
「お気になさらないでください。私はマスターのために存在しておりますので、マスターはそのままご自分の思うようにしていただいて構いません」
「……ありがとうございます。……すごいところですね……」
「地球にも似たような景色はあったかもしれません。素晴らしい景色というものは、記憶や記録よりも、こうして実際に体感することで感動を感じることができるものですね。私も素晴らしい景色だと思います。しかしながら、ここは地球とは異なりますので、存在するものを構成する原子や組織の作り、機能、性質、そして大気成分なども異なっているかもしれません。ベランダより外側にはなるべく体を出さないことをお勧めいたします」
(……え!? 早く言って!? そういうことはっ!)
俺は景色を振り返って一瞥すると、そそくさと部屋へ戻る。
続いて彼も部屋へ入ったので、しっかりとサッシを閉めた。
(危ないわー……怖いわー……当たり前のようにベランダに出たり暗闇探索したりしたけど、危機感が全然足りてなかった……今度から気をつけよ……)
疑問は沢山ある。
彼は何なのか、ほんとにもう戻れないのか、円柱ってなんだよとか、何で部屋は無事なのとか、何で俺がとか、これからどうしたらいいのかとか……。
だけど……だけどとりあえず、もう寝てしまいたかった。
熱い湯にゆっくり浸かって、ゆっくり眠りたい。
それかプリン食べたい、美味しいやつ。あ、アップルパイも良い、シナモンたっぷりの……。
彼に家とかはあるんだろうか? まだそんなに話していないし、聞きたいこともたくさんあるんだけれど、『疲れて寝たいから帰ってくれ』なんてさすがに悪くて言えないよ……。
あれ……? 泊って行ったりしないよな? え? ないよね?
不安になってきた……。あぁ、やっぱり大事なことは確認しておかなければならないだろう。
さっき色々と気を付けようとおもったばっかりだもの。
「あの……プリンとか買えるコンビニとか、近くにありませんか?」
「コンビニは存在しないと思いますが、お取り寄せならできるかもしれませんよ?」
「ふふっなるほどー」
ちょっと気分を変えたくて冗談を言ったつもりだったのだけれど、彼にも冗談で返されて笑ってしまった。
素敵紳士は冗談もお上手だ。
「今日はもうお疲れの様ですので、明日また伺いたいと思います。ご挨拶ができましたので一旦おいとま致します」
素敵紳士さんは本当に素敵紳士さんだ。
そこで俺は、彼の名前も聞いていないことを思い出した。
なんて大事なことを忘れていたのだろうか。
なし崩し的に会話してしまって、自分も自己紹介していなかった。申し訳ない。
「あ……! 自己紹介もせずに失礼しました。俺は春日与太郎といいます。歯科材料を販売する会社に勤めています。今日は出会えて助かりました。ありがとうございました」
「私はマスターのことは全て存じ上げていますので、礼も自己紹介も不要でございます。私には案内人という役職がありますが、名はまだありません。しかし、そうですね、私は葉巻というものをとても気に入りました。宜しければ、『シガー』と、そうお呼びくだされば嬉しく思います」
この日、シガーさんと出会ってから、俺の人生は変わっていったんだ。