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1日目(4)




「あ、これはご丁寧にどうも。えっと……どちら様なんでしょうか?」


俺は反射的に挨拶を返した。

良かった、相手は礼儀正しいおじさんだ。すごくほっとした。

得体のしれない存在でなかったというのもそうだし、挨拶が丁寧なのが何より良い。

最近はいい歳のおじさんおばさんでも、挨拶できなかったりマナーが悪かったり、しょっちゅう嫌な体験をする。

いつもエレベーターで会う小学生だって『こんにちはー何階ですか?』って礼儀正しく挨拶してくれるというのに……。


俺は大分安堵しながら、相手を観察した。

黒いスリーピースのスーツを完璧に着こなしていて、シルバーのネクタイがとてもよく似合っている。

ネクタイの結び目は太目でほれぼれする絞り具合だ。

俺はあんなに上手に結べないよ……。すごい。

身長は185cmある俺とほぼ同じくらい。

ボリュームのある黒髪は綺麗に後ろへ撫でつけられていて、髭はなく肌荒れなどもない綺麗な肌だ。

なのに彫が深いからかな……、雰囲気が俺よりもずっと年上な感じがする。

50代か60代だろうか?


「私はマスターの案内人でございます。私の最初に行うべき仕事として、こうしてマスターのもとへと伺わせていただきました」


彼はそう言って、微笑を浮かべ思慮深い眼差しをこちらへと向けてくれた。

マスターというのが良く解らないけれど……、とりあえず沢山お話をしてこの状況への理解を擦り合わせなければならないだろう。

そのためには部屋へ上がってもらう方が良い。

俺も飲み物欲しいし。


「こんな所で立ち話もなんですから、うちに上がってお話をお伺いしてもよろしいですか?」


「ありがとうございます。お邪魔させていただきます」


彼はもう一度、先ほどよりも軽くお辞儀をした。

素敵紳士! 髭もじゃもじゃで頭剃ってる俺とは大違いだよ……。

なぜ剃っているかと言えば……薄くなって……だから……。


いつもの日常なら、いくら素敵紳士さんでも知らない人がいきなり訪ねてきたら玄関先で対応を済ますだろう。

けれど、こんな状況だ。

先行きも見えず、そんなところに礼儀正しい人が現れたんだ。ありがたい。

たくさんお話をさせてもらいたいと思う。


ただ彼の恰好から推察するに、あんまり良い話は期待できそうにない。


(たしか……シルバーのネクタイは年忌とかだっけ? 通夜や葬式は黒だもんな。案内人って言ったから……もしかして葬儀屋さんとかなのかな?)


遠くで暮らす親、妹、友人達のことが思い浮かんで、胸が少し切なくなった。


俺は玄関の鍵を開けて、彼を向かい入れる。

そう言えば、気心の知れた友達なら招いたことはあるけど、それ以外男を家に上げるのは初めてだ。

女性なら知らない女の子も何度か入れたことはあるけど……。

まさか男同士で何かとかないよな? ないはずだっ、うん! 絶対ないだろう!

そんな不安もちょっと過ったのは秘密だ。


うちのリビングダイニングは、ドアを抜けてすぐ左にキッチンがあり、シンクと対面カウンターを挟んで向こう側がリビングスペースとなっている。

俺はキッチンに進みながら、彼にリビングのソファへ座るよう勧めた。


「コーヒーと紅茶、どっち飲まれます?」


「ありがとうございます。では紅茶をいただきます」


俺は、冷凍庫から氷を取り出すと綺麗な円柱タイプのグラスにいれ、次いで冷蔵庫からペットボトルの紅茶取り出して注いだ。


「すみません。大したものはお出しできませんが……」


そう言って、彼の座る前のローテーブルに、コルク製のコースターとともにグラスを置く。

自分の分は、いつものマグカップでいいだろう。

キッチンに戻ると、自分用に紅茶を注いで対面カウンターの上へ。

換気扇の下に置いていた葉巻と、あと灰皿も対面カウンターの上へ。

そしてスツールを持つとリビング側へまわって、対面カウンターの脇へと落ち着いた。


「とても素敵なお部屋ですね」


彼は窓際の観葉植物を眺めながら、そう褒めてくれた。

礼を言いながら俺は、彼にとても好感を抱き始めていた。


俺の部屋は素敵と言われるほど、そんな大層な部屋ではない。

築40年以上経っている古いマンションだし、中年男性の独り暮らしの部屋だから殺風景だ。

高層タワーマンションのモダンでお洒落な空間なんかとは全然違うだろう。

だけど自分なりに綺麗にしているし、快適に過ごせるようにあちこちDIYしている。


コツコツ、コツコツと、何年もかけてゆっくりと部屋を改善してきた。

キッチンのシンクは自分で新しいものに組み替え、当然水栓やその裏の排水パイプも交換済みだ。

キッチンの戸板も、白い化粧粘着シートで綺麗に統一している。


床は、フローリングが痛んで表面塗装が剥げたりささくれ立っていたので、ヴィンテージウッド調のクッションフロアを敷いている。

室内用の1.8mm厚のじゃなくて、2.3mm厚のボリュームのある土足用タイプだ。

もちろん土足で部屋に上がったりはしていないけれど、冷たくて硬いフローリングを感じないのでとても気に入っている。


リビングの壁には柱を数本立て、そこに長さ120cm幅30cmくらいの木板を横向きに打ち付けている。もちろん木目が美しく出るように、塗装はダークウォルナットのステインでしっかり色をつけている。

キッチンの対面カウンターにも木板を打ち付けていて、こっちはきちんとウレタンニスで防水加工済みだ。


天井には蛍光灯ではなく、配電用ダクトレールを取り付け電球を吊り下げている。

蛍光灯の寒々しい明かりが嫌で、暖かい電球色の光が俺の室内の基本だ。

ちなみに俺の部屋にテレビは置いていない。ほとんど観ないのに某放送局が集金に来るのが煩わしくて処分してしまった。

観たいものは動画配信サービスで観たいときに観れるし、パソコンがあれば十分だと思う。


だから、リビングにあるのは、ソファ、ローテーブル、棚、それだけだ。

彼の紅茶を置いたローテーブルも木の風合いを活かした自作だし、彼が眺めている観葉植物の置かれた棚は、苦労して作り上げた自慢の一品だ。

俺は、床位置から上部まで全部がガラスタイプのサッシが好きじゃない。

まず寒いし、上部は景色が見える窓だからまだしも、下部はベランダ内のコンクリートしか見えないのに、何故壁と窓を造らずにガラスサッシなのか意味が解らない。

だから、うちのリビングの4面のガラスサッシのうち、3面の下部部分を覆うようにハイボードを作り、そこに観葉植物を並べている。

左のサッシ1面だけが、ベランダ出入り用の扉となっている。

棚奥のカーテンは閉め切られたままだからそれほど良い眺めとも思えないけれど、自分が頑張って作り上げたものを褒められて嬉しくないわけがない。


気付けば俺は、引き出しからとっておき用の葉巻を2本取り出して、彼に勧めていた。


「良かったら一服いかがです?」







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