1日目(2)
俺は自宅ではよく葉巻を吸う。
そんな上等なものじゃなくて数百円の安物だ。
20代の頃、何週間かインドを旅したことがあった。
ほんの少しの日本円を現地のお金に換えて、バックパッカーというやつだ。
カートンで持って行った日本の紙巻きたばこは、現地人とのやりとりなんかに使ったりしていたら1週間と経たずになくなってしまって、向こうではビディというインドたばこをずっと吸っていた。
値段は日本のたばこの10分の1くらいしかしなくて、葉っぱをくるくるっと巻いただけのような、そんなたばこだ。
異国の街並み、遺跡、そして異国の匂い、エキゾチックなビディの葉の匂い。
日本に帰ってきたら、またすぐに普通の紙巻きたばこを吸っていたのだけれど、30代の時、興味本位で友達と買ってみた葉巻を吸ったとき、すごく懐かしい気持ちになったんだ。
鼻腔の粘膜に、インドの情景が記憶されていて色んなことを思い出した。
ビディの味は、インドの独特のものだからあんな風味がしたのだとばかり思っていて、だからそれがたばこの味だなんて知らなかったんだ。
ずっと日本の紙巻きたばこの味をたばこの味だと思っていたのだけれど、葉巻の味は、ビディにあった薬草っぽい風味をちゃんと持っていた。
それがたばこの葉の味だった。
それから葉巻を吸うようになった。
そんなにお金があるわけじゃないし作法も知らないから、シガリロという吸い口をカットされた安いものとか、リトルシガーと言われる紙巻きたばこと似た形の葉巻などから選んで吸った。
ドライシガーといわれる太くて長い葉巻はほんの数本だけ。
何か特別なことがあったとき用に引き出しに大事にしまってある。それも安いやつだけれど。
それでも俺は、葉巻の薫りでとても幸せな気分になれるんだ。
旅をしたときは一生懸命で、とても楽しむ心の余裕までなかったのだけれど、こうして何年かたって葉巻の薫りとともに思い出せば、現地での様々な出来事がとても素敵な体験で懐かしい。
もともと匂いに敏感な質ではあるんだ。
助手席の女が生理前かどうかも匂いで分かるほどだ。
だから、スパイスやハーブ、アロマオイルなんかも俺の好きなものだ。
トマトソースにはオレガノとローリエを入れるとすごく美味しくなると思わないか?
麻婆豆腐には、紹興酒の甘味にフォアジャオの風味をこれでもかと効かせたくはないか?
セロリをかじってたら、それだけで夕飯満足しちゃわないか?
そういうことだ。
風味が最高に幸せな気持ちにしてくれる。
もうスパイスやハーブって、言葉の響きだけでなんか、くすぐられないか?
インディアンの精霊スピリット。
魔女の魔法薬。
修行僧の妙薬。
おしゃれさんな爽やか家庭菜園。
なんかそういう色んな雰囲気で。
その昔、胡椒は金と同等なんて言われたらしいが、わかる気がするよ。
キッチンにはDIYでつくった手製のラックがあり、そこに様々なスパイスやハーブを並べていて、眺めているだけでも本当に幸せな気分になってくる。
ここに引っ越してきてからあちこち自分で改造したけど、この棚もお気に入りのひとつだ。
キッチンのサイズを測り、ホームセンターで木材を買ってきて、やすりをかけたり、ダークウォルナットのステインで着色したり……、一生懸命作った趣深い一品となっている。
何が言いたいかというと、男は歳を重ねるごとに色々なことに拘りだし、自分の世界を楽しみだすということなのさ。
だから独身だとか、別に言い訳してるわけじゃない。
女は、抱かれるまでは『料理得意なんだーすごーい』とか楽しそうに恋愛をしているが、抱かれて結婚なんか考えだすと、『ねぇ、料理の微妙な味なんてどうでもいいのよっ私たちの将来のこと考えてよっ』なんて、だんだんめんどくさい表情になっていく。
女にとっては、最終的に冷凍食品をチンで済む男の方がずっといい男なのだ。
いや最近の冷凍食品は美味いから嫌いじゃないけど。
違う、そうじゃない。別に独身の言い訳なんてしてないっ。
俺は葉巻の説明をしようと思っただけだ。
もし死んだ後に、5分だけ地球上に生き返れるとしたら、俺は迷わず葉巻を吸うだろう。
ちなみに、1時間生き返れるのだとしたら、いい匂いの入浴剤をいれたお風呂でゆっくりするだろう。
結局、人生の大切なことなんてそんなものだろう?
1日生き返れたら?1週間生き返れたら?1か月生き返れたら?1年生き返れたら?10年、20年、では80年生き返れたら?
それはもう普通の人生だ。
だからそう、葉巻を吸うことは人生だ。
人生そのものなんだ。
社会に埋もれて疲れ切ってしまったとしても、手の届く幸せなら大切にしたい。
それこそが、生きている意味に変わるから。
現実逃避はここまでにしよう。
ちょうど葉巻は吸い終わった。終わってしまった。
俺は、会社行けないなぁとか、プラスチックごみまた溜まっちゃうなぁとか、そんなストレスだけでもう疲れてしまったよ。
寝てしまおうか?いやいや……、もう少しだけ頑張ろう。
部屋の明かりは点いている。
換気扇も回っているから電気はきているようだ。
さっき顔を洗ったとき、水も出たから水道も大丈夫なはずだ。
換気扇の下に設置されているガスコンロのスイッチを入れてみる。
ガスも問題なく点いた。
念のため、もう一度流しの水栓を開けてみるが、ちゃんと水が出る。
その後、トイレ、風呂と確かめたがどれもいつも通り、問題なく使えるようだった。
(岩……だったよな……部屋の周り。なんで電気つくんだろ……)
夢や幻覚かと思い、もう一度ベランダを覗き見るが、やっぱり真っ白。
玄関のドアを開けてみるが、やっぱり真っ暗に石の壁。
これはもう暗闇を探索してみるしかないか、と思い――気付く。
(あっ……!スマホ!)
すっかり頭になかったが、困ったときは警察に電話。
日本人ならまずこれだろう。
いつもアプリゲームにしか使ってないから忘れていた。
110番してみるが、画面には『キャリア通信が未接続です』と表示されてしまった。
wifiの問題かと接続をモバイル通信に切り替えたり、uimカードを入れ直してみたりするが駄目だった。
当然インターネットも繋がらなくて、SNSや検索エンジンを使用してみるも『not found』と表示されてしまう。
しばらくそのままスマホを弄って、メールを立ち上げてみたりゲームを立ち上げてみたり……、また現実逃避して時間を潰してしまった。
しかしながら、もう仕方ないだろう。
玄関の向こう側を確認しに行くしかない。
もしかしたら密室で、すぐ壁に行きあたってしまうかもしれない、と思うと心細くなった。
けれど、もしかしたらどこか出口へ繋がっているかもしれないし、知らないままにしておくのはまずいだろう。
以前、通信販売で購入したアウトドア用懐中電灯を引き出しから取り出すと、ちゃんと点くかオンオフを確認した。
友達の息子とカブト虫を捕まえに行くとき、友達と朝釣りに行くとき、いつも活躍してくれる。ありがとう。
ほんと買っておいて良かった。
高輝度LED10000ルーメンの安心感を手に、俺は玄関のドアを開けて暗闇へと進み出た。