第八十三話 後々裏切
『パノプティコン』──あらゆる“願い”を叶える『全能魔法』の存在を信じ、その実現を目指す組織集団。
かつては組織が一丸となって『全能魔法』研究を進めていたが、自分の“願い”を叶えたいが為に争いが生じた。
やがて『パノプティコン』は、協力体制を敷く組織という性質を失い、それぞれが競争するようになる。
そうして、今や『パノプティコン』とは組織の名前ではなく、個人的に『全能魔法』を追う者を指すようになった。
「あたし様は運がいいわ」
茜色の空を見上げて、ノッチは深く息を吸う。至福の時間を堪能するように、ゆっくりと。
意識を消失したピカロの手を引いて歩かせる。
「まさか、“適格者”と出会えるなんて」
──ノッチは、『パノプティコン』ではない。
『全能魔法』の存在を知識としては知っていたが、その実現のために生きてなどいなかった。本当に、神王国を取り返すためだけに生きてきたのだ。
人間界に単身降りてきたのも、ニクスの子孫を──『ミストハルトの戦士』という資格を持つ者を、天界へと連れ戻すため。
『全能魔法』などというものには頼らず、自分の可能な範囲で戦略を練り、神王国奪還の道を歩んだ。
実際、ノッチは計画通り、人間界から『ミストハルトの戦士』つまりピカロを天界に連れて行き、神王国を取り戻したのだから、そもそも『全能魔法』は必要ではなかった。
そんなものが無くとも、ノッチは“願い”を自力で叶えることに成功したのだ。
──ただ、ノッチにとっては“必要ではなかった”だけ。意地でも『全能魔法』には頼りたくないだとか、その存在を否定していたりしたわけでもない。
無論、使えるものなら使いたいのだ、『全能魔法』を。
そして今、ノッチの目の前には、条件を満たした“適格者”が──
「『全能魔法』を使えるのは、世界最強の生命体のみ……正直、最強の定義すら曖昧だし、そもそもそんな生命体が存在するわけないと思ってたけれど」
ポカーンと口を開けたまま、光のない目をしたピカロを、ノッチは嬉しそうに見つめる。
「現魔王であり、現神王……『神王の指輪』を装備した『ミストハルト』の戦士。まさしく世界最強ってわけね。見た目も性格もクソだから、本当は結婚なんてしたくなかったけど」
ノッチがわざわざ結婚を申し出たのは、『神王の指輪』を2人で装着する理由が欲しかったからだ。
『神王の指輪』は、装備者に膨大な魔力を授ける──のだと、ピカロには説明した。
もちろんそれは間違いないのだが、神王族のみが知るもう一つの効果については説明していない。
──相互奴隷契約。
愛し合う2人が、互いのためだけに生きることを誓う……その果てに、一度だけ、相手を思うがままに操ることができる。
愛の奴隷として。
このような恐ろしい機能については、これまでの歴代神王も知らなかった──ずっと、王女たちだけが受け継いできた秘密の効果。
強かな女性ならではの──女の秘密だ。
そういう意味で、神王国は実質的には王女たちに支配されていたとも言える。
「あの魔族……ヘルナイズだったかしら。あいつは、自分の妹を生き返らせるために『全能魔法』実現を目指していたみたいだけれど……スケールが小さいわよね」
返事などないと知りながら、ノッチはピカロに話しかける。
というか、返事がないことに安心しているのだ。『神王の指輪』の効果がちゃんと発動しているとわかるのだから。
「だって、『全能魔法』よ? 全能って言うくらいなんだから、誰か1人を生き返らせる程度の魔法ではないはず」
『全能魔法』の解釈は分かれるが、ノッチは文字通り、何でも“願い”を叶えうる魔法なのだと考えていた。
ただ、ヘルナイズは“全能”という言葉を軽視していたわけではない。彼にとっては、オルファリアさえ生き返れば、それだけで十分だったというだけだ。
「あたし様はもっと賢く使うわ──時間軸さえも狂わせて、世界を正しい方向へ導くの」
思考することも許されない、生きる人形となったピカロを連れて歩くこと、1時間。
2人は、ネーヴェ王国の王都を南に進み──世界樹の根元に辿り着いた。
『全能魔法』は、“世界樹そのもの”を用いて行使される。世界最強の生命体が、魔力の大元である世界樹を媒介することで初めて使える魔法。
世界樹の枝を加工した『世界樹の杖』という魔法アイテムがあったが、その比ではない──世界樹の杖というか、“世界樹が杖”なのだ。
つまりこの大木こそ、“願い”を叶える魔法の木。
──見上げると、赤紫の木漏れ日。大きな雲のような葉の群れが、北国の冷たい風に揺れる。
神秘の大樹の足下で、ノッチが振り返った。
「あたし様の“願い”は──800年前に転生すること」
ボーッと突っ立っているピカロの両手を取り、強く握りしめる。
「神王国が衰退を始めたのは、およそ800年前だった。でも仮に、その時代にあたし様が生まれていれば、革命派による国家転覆なんてさせなかったわ。神王国の誇りを、踏みにじらせたりなど、絶対にしなかった」
下唇を噛む。
ノッチが生まれた時には、既に神王国は革命派に乗っ取られてから数百年も経っていた。その間、天界の神と崇められた神王族の名に泥が塗られ続けたのだ。
常勝無敗の一族ではなく、民衆の暴力に負けた弱き王家。
そのように侮られたことは事実だ。実際、多くの天界人は、かつての神王族が国を取り返すことなど不可能だと考えていた。
ノッチはそれが許せない。崇め奉られるべき神王族が、数百年でも、あるいはたった1秒であろうと、“下に見られた”ことが、許せない。
ピカロたちと協力して神王国は取り返した……しかし、何百年もの間、革命派に遅れをとっていた事実は消えないのだ。悪しき歴史として残り続けてしまう。
それならば、過去を変えれば──ノッチがかつての神王国に生まれ、その手腕で神王族の威信を保てれば、今度こそ神王族は神の一族となる。
「欲を言えば、不老不死の状態で、800年前にワープしたいのよね。そしたら、あたし様が死んだ後の神王国を心配する必要もなくなるし……“全能”の魔法なら、それくらい可能じゃなきゃ困るんだけれど」
一度失った信用を取り戻すのは至難。そして過去は、歴史は変わらず残り続けてしまう。
輝かしい歴史に傷一つない神王族になるには、やり直すしかない。
そのチャンスが今、ノッチの手の中に。
「さぁ、ピカロ・ミストハルト。あたし様の“願い”を叶えなさい──『全能魔法』を使いなさい」
「……」
「あぁ、確かに“願い”が曖昧だったわね。転生って言ったり不老不死って言ったり」
「……」
「最終確認よ、間違えないでちょうだいね。あたし様の“願い”は、不老不死の状態で、800年前の神王国に転生すること……わかった?」
「……セックス」
「は?」
ピカロは意識を失ったままだ。しかしその口は、真実の願いしか告げない。
ノッチはピカロの前髪を掴んで引っ張る。怒りと焦りで乱暴になった彼女が怒鳴った。
「ちょっと、ちゃんと復唱しなさい! いい? あたし様の願いは、不老不死で──」
「──セックスが、したい」
「いい加減にしなさい! あんたは愛の奴隷でしょ!? あたし様の言うことだけを聞けばいいの!」
「サキュバスと……セックス……」
「ど、どうして」
「──ピカロは今、愛の奴隷としての義務よりも、自分の性欲を優先している」
背後からの声に、ノッチは振り返る。
誰にも目撃されずに来たはずだった──しかし、背後には紫紺の美青年。
「シェルム・リューグナー……!」
「ピカロはちゃんと指輪の呪いにかかってるよ。実際、意識はない」
「あ、あんたどうしてここに!」
「ピカロは、指輪の呪いによって、ノッチの“願い”を叶えたいと本気で思っている──しかしそれ以上に、本気でセックスがしたいんだ」
「……何を、言っているの?」
「ピカロは、この世のあらゆる事情よりも、セックスを優先している。意識がなくても、呪われてても、どうしてもセックスのことしか考えることができない……そういう男だと、知っているだろう、ノッチ」
シェルムはポケットに手を突っ込んだまま歩み寄る。ノッチは、数歩だけ後退り、戦闘態勢に入った。
神王槍──黄金の大槍を構え、シェルムを睨みつける。
「あたし様の邪魔をするなら、殺すわよ」
「邪魔をしているのはノッチの方だろ? 僕とピカロの物語の終盤に食い込んできやがって」
「……確か、あんたも『パノプティコン』なのよね。あんたもずっと、この日を待ってた……ピカロ・ミストハルトが“適格者”として完成する日を!」
「心外だな。僕はピカロを利用するつもりなんてない」
「じゃあどうして! 『パノプティコン』の一員が! “適格者”と行動を共にしているの!?」
「──友達だからだ」
シェルムはピカロの肩に手を置いた。
「僕の“願い”はもう叶ってるんだ。『全能魔法』なんていらないよ」
「……それが本音かは知らないけど。だったら、あたし様の邪魔をしないで!」
「でも、ピカロの“願い”はまだ叶っていない。そのために今、『全能魔法』が必要なんだ」
「ふざけないで! そんな、一時の性欲が、あたし様の崇高な“願い”に優先するわけないじゃない!」
「知るか、黙れモブキャラ」
走る緊張感に、ノッチは槍を掴む手に力を込める。
シェルムは確かに規格外の戦士だ。それは共に戦ったことのあるノッチだからこそ重々承知している──しかし、『神王の指輪』を装備している今ならば。
負ける気がしない。
殺気を纏うノッチ。対するシェルムは、半笑いで尋ねた。
「ねぇ、ノッチ。どうして僕は、君がピカロを利用するのだと気づいたと思う?」
「知らないわよ……」
「どうして、君が裏切るのだと知っていたと思う?」
「だから知らないってば!」
「──君が、“ノチノチ・ウラギル”って名前だからだよ」
当然のように言うシェルム──対するノッチは、何故か、“理解ができない”。
「何を、言っているの? 意味がわからないわ」
「だから、君はモブキャラなんだ。自分の名前が明らかにおかしいことにさえ、違和感を感じることができない」
「名前? 普通じゃない、ノチノチ・ウラギルなんて」
「普通ではないよ。でも君にはわからない──わからないように作られたキャラだから」
頭にモヤがかかったかのように、シェルムの言葉が理解できない。
ノッチはただ、酷い頭痛に耐えつつ、シェルムを殺すタイミングを探すのみ。
「……さよならだ。君の伏線はこれで全部おしまい。“ノチノチ・ウラギル”なんて名前のキャラが、裏切らずにストーリーが終わるのは不自然だからね。ちゃんと裏切ってくれてよかった」
「お前は、何を……」
「もう、いらないや」
──気がつくと、世界樹の足下にはピカロとシェルムだけがいた。
この世界から、ノッチはいなくなった。
『神王の指輪』の効果が強制的に途切れ、ピカロが目を覚ます。
「ん、お? どこだここ?」
「おはようピカロ」
「世界樹? あれ、ノッチは?」
「いやそれがさ、ノッチ、裏切ってたんだよ。お前を操ってたんだ」
「えぇ!? まぁでも、“ノチノチ・ウラギル”なんて名前だったしな。いつか裏切るとは思ってたけど」
「だよな」
やたら嬉しそうに笑うシェルム。
ピカロは、ふと思い出したことを口にした。
「あ、そういえばさ。サキュバスが死んでしまったことについて、解決法を考えたんだよ!」
「おう、聞かせてくれ」
「『全能魔法』でサキュバスを復活させればいい!」
「おい待て。時系列的に、お前はまだ『全能魔法』という言葉を知らないはずだぞ」
「いや、第七十八話で、ヘルナイズがイデアさんに説明してたじゃん」
「あれは過去編だぞ。お前はまだ『パノプティコン』についてほとんど理解してない設定なんだ」
「もういいだろ。同じ説明を読まされる読者の身になってくれ」
「……まぁそうだな」
「そんなわけで、サキュバスを蘇らせます!」
「いやちょっと待て」
シェルムは人差し指を揺らす。わざとらしくチッチッチと言いながら、地面に“全能”と書いた。
「いいか? 蘇生魔法じゃないんだ。全能魔法なんだぞ?」
「……何でもできるのか」
「そうだ。何でもできる」
「あらゆる女を性奴隷にすることも?」
「もちろん可能だ」
「ど、どうしよう迷うなぁ!」
おもちゃ箱をひっくり返した子供のように、ワクワクが止まらないピカロ。
何か一つだけ願いを叶えられるなら──やりたいことが多すぎて、どれか一つに絞れない。
「まぁ物語の流れとしては、お前はサキュバスとの再会のためにここまで来たんだし、普通にサキュバスを蘇生してもいいけどな」
「あー、そっか。もう私の目標って叶うんだな」
「そうだ。ようやく、僕らの旅が終わる」
「長かったなぁ……魔法学園とかから始まったんだぜ?」
「紆余曲折あった物語も、ようやくあらすじ通りに、ここまで来た」
「まぁ、“無能貴族”という設定は魔界編以降なくなったけどね」
「あとはサキュバスだけだ」
「大して伏線とか貼ってなかった物語だし、サクサク進んでよかったわ」
「じゃあ、気持ちよく終わってくれ」
肩の荷が下りたとばかりに満足げなシェルム。
ピカロも、長かった旅路の最後に、胸が熱くなる。
ピカロ1人では何もできなかった。サキュバスとの再会はもちろん、故郷から出ることすらなかったかもしれない。
いつだってシェルムが助けてくれた。友達や仲間はいるけれど、常に隣にいてくれたのはシェルムだけだ。
そして今、2人の日々に終わりが──
「ん?」
「どうしたピカロ」
「……あれ、ごめん。まだ謎に満ちてることが残ってたわ」
「いやもうないだろ。これ以上話数を稼ぐのはキツイぞ」
「いやお前だよ、シェルム」
ピカロは振り返る。
見慣れた相棒と視線が合う。
今更、本当に今更、ピカロは問うた。
「──シェルム。お前って何者なんだ?」




