第八十二話 人界最強
「死んだ……? サキュバスが……?」
「あぁ。とっくのとうに、全員くたばった」
警戒を解かない真魔王ディー。
人の身でありながら、人ならざる威圧感を発するピカロが、隙を晒すのを虎視眈々と狙う。
対するピカロは、震える手を押さえ、深呼吸を繰り返す。
「そ、そんなはずがない。サキュバスとは、どんな世界でも常に需要があり、戦時中でも人間たちに殺されることはない!」
「……人間に殺されたとは言っていない」
「ではお前たち魔族が殺したのか!?」
「いや──勝手に死んだ。知らないのか? サキュバスは魔界でしか生きられない」
心臓を鷲掴みにされたようなショックに、ピカロは頭を抱える。
巡る記憶の中、確かにピカロは聞いたことがあったはずだ、サキュバスの生態について──しかし忘れていた。
サキュバスは、人間界では生きられない!
「……第三話で、シェルムが言っていたのに……私は完全に忘れていた」
仮にサキュバスが、自由に人間界に来れてしまうと、ピカロがわざわざ魔界に行くというストーリーに支障が生じる。
故に、この作品の中では、サキュバスは魔界でしか生息できないという設定にしたのだ。
一応、一時的にならば人間界に来れなくはない──実際、ピカロは5歳の時、人間界でサキュバスと出会っている。
しかし当時ピカロがいた場所は、魔界から人間界へのゲートが存在していた魔の森。ゲートを経由して魔界の空気が充満していた場所だったからこそ、サキュバスが遊びに来れた。
とはいえそれもあくまで“一時的”なもの。サキュバスは、魔素の濃い魔界でしか生きられない……という設定。
それが、人間界に連れてこられたとなれば、全滅も時間の問題……当然の結果なのだ。
例外はない──サキュバスという種族は、絶滅した。
「……私は、何のために……」
「くだらない話で時間稼ぎか? ピカロ・ミストハルト!」
痺れを切らしたディーが咆える。
刹那の内に肉薄したディーは、聖剣を大きく振りかぶった。
「くだらない話じゃねぇ!」
1秒にも満たない接近を、ピカロは見逃さない──むしろ遅い。
怒りを込めた拳を乱雑に振り下ろす。腰も回らず、体重も乗っていない拳は、迫りくる聖剣の切っ先を正面から迎え撃った。
──破砕。音を立てて粉々に散った聖剣アルドレイド。その巻き添えに、ディーの右腕も肘から先が消滅する。
「私のサキュバスを返せ!」
「化け物が……!」
ディーは、ガイ王子の身体を借りているため痛覚はない。聖剣ごと右腕を千切られてすぐ、瞬間を駆けて距離を取った。
ほんの一瞬の攻防。しかし誰もが、その戦闘力の差を察する。
「……なるほど、強い。どうやらまともに戦ってはならないようだ」
「まじでどうしよう……ここまで来て……」
「魔力の温存は愚作──ここで全てを出し切る!」
ボソボソと呟くピカロに、ディーは両手を向けた。
真紫の魔法陣がドーム内を妖しく照らす。
「ピカロ・ミストハルト──その身体、いただくぞ!」
地面から伸びるのは漆黒の鎖。豪速で伸び上がったそれらはピカロの身体を縛り付けていく。
寄生魔族の頂点、ディーのみが辿り着いた精神汚染魔法の境地。肉体に傷をつけず精神のみを腐らせ消し飛ばす大魔法。
脳内を蝕む真魔王の渇望を感じ取り、ピカロは眉間にしわを寄せた
「……なるほど、これほどの魔法で精神干渉されれば、ジンラ大帝国の帝国民も暴徒と化すわけだ」
「よくわかったな。これは精神に作用する魔法の中でも最上位! 一国の国民全てを同時に支配下に置くことができるほどのこの魔法を今、お前1人に集中させている!」
ガイ王子の肉体が生み出す膨大な魔力が、禁忌の大魔法の実現を可能にしていた。
魔法の鎖ががっしりとピカロを縛りつけ動きを封じると、ディーはガイ王子の身体からぬるりと外へ出る。
まるで濃霧のようなディーの本体。抜け殻となったガイ王子の身体は頽れるように地に伏した。
「それが本当の姿か、真魔王」
「そしてお前が、新たなる我の姿だ!」
ドームの天井を覆う霧状の悪魔が、吸い込まれるようにピカロに襲いかかった。
「ちんぽパーンチ!」
容易く鎖を引き千切ったピカロが、迫りくる濃霧に拳を放つ。
極光と共に放出された魔力が、大口を開けて咆哮──直後、全員の視界が白く染まり、音が消える。
後を追って襲う轟音、爆散。
光の柱となった魔力の塊が、ピカロの前方全てを吹き飛ばした。
「この醜い身体にも愛着ってもんがあるんだぜ」
振り抜いた拳。顔を上げると、そこには“何もなかった”。
“西洋の守護神”レイナード・ガルシュバイツが作り出した鉄壁の檻──『盾の監獄』はもちろん、遙か地平線の彼方まで、半円状に地面が消失している。
外にいたせいで光の柱に巻き込まれた魔族たちの死体すらもない。
晴れ渡る蒼穹が、異次元の破壊力の跡地を見下ろす。
サキュバスを追い求めて25年以上──ピカロはついに、強くなり過ぎた。
「ピカロお兄ちゃん……やりすぎ」
ピカロが魔王化した姿を一度だけ見ているノア王子が、かろうじて言葉を発した。
レイ王子は開いた口が塞がらず、護衛のレイナードは自分の『盾の監獄』の崩壊に目を疑う。
ネーヴェ王国のウサ王子は、現実逃避さながらに目を閉じていた。
「……まぁ、サキュバスが死んでるパターンは予想してたけどね! でも大丈夫! 一つだけ“解決策”を思いついた!」
独り言で笑顔になるピカロを、世界最高峰の勇者たちは見上げるのみだった。
────✳︎────✳︎────
ネーヴェ王国、王都。
人で溢れかえる街を見下ろす国王城の一室に、ピカロはいた。
「え!? アルド王国だけじゃなく、テイラス共和国も滅んじゃったの?」
「……事実上は、滅亡だね」
悲しげに目を伏せるのは、テイラス共和国のレイ王子。
机を挟み、豪奢なソファーに身を委ねた2人は、お茶を飲みながら向かい合っていた。
「真魔王ディーは、ガイ王子の身体──に込められた魔力を利用して、南のジンラ大帝国の国民を全て支配した。そして、東西に分かれて北へと侵攻したんだ」
人類4大国は、世界樹を囲うように位置している。
南のジンラ大帝国、西のテイラス共和国、東のアルド王国、北のネーヴェ王国。
ジンラ大帝国を出発した真魔王軍と暴走帝国民は、東西の2大国を滅ぼしながら侵攻し、北のネーヴェ王国にまで迫ってきていたのだ。
「……でも、ピカロ・ミストハルトが真魔王ディーを倒してくれたおかげで、また僕たちはやり直せる。テイラス共和国を、もう一度作り直すんだ」
「ふーん。じゃあアルド王国も、10年後には元どおりかな」
「テイラス共和国も、アルド王国も、人口がかなり減っちゃったから、もっと長期的な再建国になるだろうけど……」
ピカロが真魔王ディーを消し飛ばしてから、1日が経っていた。
避難という形でネーヴェ王国に集結していた各国の戦士たちは、今現在も真魔王軍の残党を討伐している。
今度こそ、真魔王軍に勝利したのだ。
「……しかしびっくりしたよ。こんなに強い人がいるなんて……本当に人間なの?」
「ふははは。私は世界最強なのだ!」
「まぁ、僕には一回負けてるけどね──ザンドルド・ディズゴルドさん?」
「……え!?」
子供らしいいたずらな笑顔を浮かべるレイ王子。
かつて『世界樹の杖』を盗みにテイラス共和国へと忍び込んだピカロは、確かにレイ王子に惨敗していたのだったが……。
「な、何のことかな」
「僕、人間観察が得意なんだ。ピカロ・ミストハルトの身振り手振りが、見覚えあるなぁとは思ってたし」
「……まぁいいか。今更だし」
「ザンドルド・ディズゴルドって、数百年前から生きてるって噂だけど、今何歳なの?」
「悪いが、私はザンドルド・ディズゴルドじゃないよ。黄金殻の鎧を着ていただけさ」
「えぇ……だったら、その異常なまでの強さに説明がつかないじゃないか!」
「説明不要! 私は主人公なのだから!」
「何言ってるんだか……」
肩を竦めるレイ王子の背後、部屋の扉がノックされた。
扉が開くと、入ってきたのはノア王子。
「ピカロお兄ちゃん!」
「……よぉ、ノア王子。なんだか、私に懐いてないか?」
「オレは強い男が好きなんだ! なぁなぁ、お嫁さんにしてくれないか?」
「だ、ダメだ!」
「どうして? オレ、容姿には結構自信があるんだけど」
アルド王国の第一王子が、女の子だったなんて、知る人ぞ知る国家機密。
ましてこれほどの美少女とは──夜の滝のような黒髪と、宝石のような瞳。触れれば壊れてしまいそうな、白く美しい肌。氷柱のような長い睫毛が、小さく震える。
桃色の唇を尖らせて、ノア王子は怒ってみせた。
「なんで結婚しちゃだめなの!?」
「お前は私の父親を殺してるだろうが!」
「そんなどうでもいいこと忘れちゃったよー!」
「ふざけるなクソガキ!」
「きゃー、襲われるー!」
美少女と戯れる最高のイベントに、ピカロは酔いしれる。
実際、ニクスを殺された恨みが無いわけではないが、悲しいことに家族愛よりもちんぽに従う男なのだ……どうしてもノア王子を嫌いになれない。
追いかけ回すピカロと、キャッキャと笑いながら逃げるノア王子。
騒がしい部屋に、ネーヴェ王国のウサ王子が入ってきて──ピカロと激突した。
「いたた……」
「ご、ごめんウサ王子……って、うぬぅ??」
一国の王子様を押し倒してしまった無礼を詫びようと、立ち上がろうとするピカロ。
しかし視界には、中世的な美少年。山吹色のショーボブは、むしろ女の子らしさすら感じさせる。
伝説の勇者候補の1人とはいえ、他の3人とは違い魔法での戦闘を得意とするウサ王子は、どちらかというと華奢な体型。白い太ももは、透き通るような線の細さ。
見る人によっては、女の子と間違えられてもおかしくない美少年を目の前に、ピカロは──勃起!
「か、可愛い!」
「ちょっと、早くどいてよ」
「ちんぽ見せろぉ!」
「や、やめ」
「ピカロお兄ちゃんの変態! ホモ!」
ノア王子に側頭部を蹴られてピカロは床を転がる。
不機嫌そうに立ち上がったウサ王子は、ピカロから離れるようにソファーに腰掛け、机の上のお菓子を頬張った。
「真魔王軍の残党処理が終わったら、大きな戦勝祭をやるんだけど、その時にピカロ・ミストハルトを“真魔王を倒した英雄”として扱おうって話があるんだ」
「え、私が? 英雄?」
「うん。まぁ僕らもそれに異論はないよ」
ウサ王子は、わざわざそれを伝えに来てくれたらしい。ピカロがどこかに行ってしまっても困るだろうから、ネーヴェ王国に残ってくれということだろう。
「まぁ褒められるのは好きだからな。戦勝祭には参加するよ」
「……さて、僕たち伝説の勇者は、傷ついた大衆を癒すために、街中を走り回らないと」
「お、いってらっしゃい」
「あんまし活躍してないんだけどね……まぁ僕らの顔を見るだけで元気が出るなら、それでいいさ」
レイ王子とウサ王子は部屋を出て行った。
ネーヴェ王国には、故郷をなくしたテイラス共和国民とアルド王国民が沢山いる。伝説の勇者たちが歩き回って、労いの言葉を掛けるだけでも、人々の力となるだろう。
「ノア王子は……いかないか」
「オレは名前しか知られてないからね。女であることを隠すために、人前には出れなかったし」
「それじゃあ……2人きりだね」
「ま、待ってピカロお兄ちゃん! 結婚しようとは言ったけど、あの……」
「大丈夫、優しくするさ」
「いや、ほら、走り回って汗かいちゃったし! せめて湯あみしてから──」
「美少女の汗をペーロペロー!」
親の敵だということも忘れ、ベルトを外すピカロだったが、部屋に入ってきた邪魔者の声を聞いて手を止める。
「おいピカロ、ノッチが探してたぞ」
「シェルム、今いいところだったのに」
「童貞卒業はサキュバスって決めただろ。ほら早くズボン履け」
「サキュバスは死んだ!」
「解決策、思いついてるんだろ?」
「それは次回話そうぜ! 文字数的にキツイから」
「わかったよ。ノッチは裏庭にいるから、会ってこいよ」
「はいよ」
放心状態のノア王子を置いて、ピカロは部屋を飛び出した。
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「ノッチ、何のようだ?」
「……」
「あぁそっか。天界に戻って、神王国をやり直さなきゃいけないんだっけ?」
「ええ、そうね」
「でもさノッチ、あと1日だけ待ってくれない? サキュバスと再会する方法を思いついたんだ!」
国王城の裏、敷地内のベンチに座るノッチは、俯いたままだ。
ピカロはその隣に座る。
「天界も大事だけどさ、私の目的は最初からサキュバスだし、せめてこっちを優先させてくれよ」
「ええ、わかってるわ──でも」
ノッチはゆっくりと横を向く。金色の瞳と、目が合った。
熱い吐息。紅潮した頬を涙に濡らし、ノッチはピカロの胸にしがみ付く。
「わがままなのはわかってる……それでも」
「な、何だよノッチ」
「どうしても、夫をサキュバスに取られるのが怖いわ」
「ええ!?」
ここにきてノッチがデレた。ピカロは胸を踊らせつつ、しかしサキュバスとの再会と天秤にかけて頭を悩ませた。
そんなピカロの理性を吹き飛ばすように、ノッチは身体を密着させてくる。
「サキュバスとの再会も……あんたの昔からの願いなら、仕方ない。でもどうか……どうかあんたの“初めて”は──」
膝の上にまたがるノッチが、ピカロの首に手を回した。
「あたし様を、抱いて」
息がかかるほどの至近距離。絶世の美女が、熱っぽい視線を浴びせてくる。
ピカロは意識が遠のくような、人生初の胸の高鳴りに、唾を飲んだ。
初めてはサキュバスとする、などと決めていたが、もはやどうだって良い。
これほどの美女に求められて断る男がいるはずもない。
ピカロは、ゆっくりと目を閉じて、唇を近づけた──
「『王女の誘惑』」
ピカロの動きが止まる。
ノッチは身体を離し、固まったピカロを見下ろした。
何も言わないピカロ。その目に光はなく、まるで操られているようで──
「『神王の指輪』の効果は、魔力付与だけじゃない。互いを愛の奴隷にもできるのよ……まぁ、こんなこと神王族しか知らないけどね」
死んだように固まったピカロに、もはや意識はない。
不敵に笑う美女は、ピカロの手を引いて歩き出した。
「さぁ行きましょう。あたし様の“願い”を叶えに」
夕陽差すネーヴェ王国。空を覆う薄闇に紛れるように、2人は姿を消した。
「──これで、あたし様も『パノプティコン』の仲間入りね」




