第七十八話 追憶少女
時は16年前。場所はアルド王国立魔法学園校舎裏。
夕陽傾く紅の空が、斜めに影を作り出す──その、影の中。
金髪の少年が、手を伸ばす。
「イデアさんを返せ馬鹿野郎!」
その手は、紫の魔法陣に吸い込まれていく少女には、届かなかった。
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投げ出されるように、足場をなくした。背筋を冷やす浮遊感の直後、少女の小さな身体を、仮面の男が優しく包む。
ゆっくりと降り立つ2人。見上げると、永遠に続くような夜空が、怪しく輝く星々を抱えて笑っていた。
異様な空気感、不気味な世界。たった1人で訪れていたなら、一歩たりとも動けなくなっていたであろう恐怖の土地──しかし、誰よりも頼りになる男が、隣にいる。
「あ、あの……」
「急に連れてきてしまったが……ここは魔界だ、イデア・フィルマー」
「魔界……?」
イデアはあまりピンと来なかったようで、改めて景色に視線を移す。人間界の、どこか未踏の地にでも連れてこられたのかと想像していたが、まさか魔界とは。
怯えるように、仮面の男の服をぎゅっと掴むイデア。その美しい顔を自分に向けさせ、目を見つめる仮面の男。
「これからお前には、『世界最強の生命体』になってもらう」
唐突すぎて理解の及ばないイデアは、ただ瞬きを繰り返すのみだ。
確かに、イデアは「強くなりたい」と言って、この仮面の男に力を与えてもらった。それは魔法学園に不正入学したことへの罪悪感や、同級生たちへの嫉妬など、自分の不甲斐なさを何より嫌っていたからである。
誰にでも認めてもらえるくらいに強くなりたい。そのために、まずは新入生トーナメントで優勝できるだけの力が欲しかった。
しかし、世界最強になりたい、とまでは考えていない。高望みをしていないというよりは、そんなスケールの大きすぎる発想には至っていなかったのだ。
事実、何をもって世界最強と呼ぶのか、その判断基準さえ持ち合わせていない。
しかし仮面の男が望むのならば、イデアは協力を惜しまない──この男のために生きると決めたのだから。
「わ、わたしは何をすれば……」
「全て、一から話そう」
薄紫の霧が漂う、怪しげな森の中、少し冷んやりとした男の手を握りしめ、イデアは歩く。
やがて人間界では滅多にお目にかかれないほどの洋館が現れ、2人はその中へ。
適当に座るよう指示されたが、ガチガチに緊張したまま立っていたイデアに、仮面の男はティーカップを渡す。
染み込むような、花の香りがした。
「今更だが……私の名前はヘルナイズ・シンス・ザルガケイデン。最上級魔族だ」
男が仮面を取り、机に置く。
高鳴る胸に手を当て、イデアは恐る恐るその顔を見て──思わず咳き込んだ。
「げほっ、けふ。え、あの、えーっと」
「この顔に見覚えがあるか? まぁこの顔もまた、“仮面”に違いないが」
「た、確か、生徒会長?」
仮面の下には、入学式の挨拶の際に目にした、現生徒会長ザイオス・アルファルドの顔。新入生トーナメントでも司会を担当していた、爽やかな印象の色男である。
「……人間界で“適格者”を探すためには、人間に擬態する必要があった。と言っても常に人間として生活するほどの暇はないから、仮面を付けている時だけ、私がこのザイオスという青年を乗っ取っていただけだが」
「えっと、なぜ、ザイオス生徒会長なんですか……?」
「誰でもよかったんだ。実際、様々な人間にこの仮面を付けさせて人間界を歩き回った。その間は、私に乗っ取られているために記憶もない。“適格者”を探す目を沢山用意していて、そのうちの1人がザイオスだっただけだ」
「……じゃあヘルナイズ、様? はザイオス生徒会長とは、別人で……でも見た目は一緒で……」
「あぁ、今のこの姿は、幻覚魔法で偽っているだけ……戻そうか」
ザイオスの姿をしたヘルナイズの輪郭がぼやけ、空気に溶けるように、外側へ滲んでいくと、やがて白髪の男が姿を現した。
冷たい目をした、肌の白い男。
「私が人間界を覗くには、誰かに仮面を被っていて貰わないといけなかったんだが……今日のザイオスはトーナメントが終わってすぐに、疲れて眠ってしまった。仕方なく私が人間界に直接、お前を迎えにきたわけだ」
「な、なぜわざわざザイオス生徒会長の姿に?」
「私は最上級魔族として顔を知られているかもしれないし、仮面で顔を隠しても、仮面の男が学園内をうろついていたら怪しいだろう。だからザイオスのフリをしてお前を探した。そしたら、ピカロ・ミストハルトと共にいるのが見えたから、仮面で顔を隠して登場したわけだ……まぁザイオスの姿で登場して、お前にも警戒されても敵わないからな」
ピカロから正体を隠すことで、姿を借りているザイオスの人生を守りつつ、自分が『仮面の男』だとイデアに認識してもらうために、仮面を付けた。
「……どうしてそこまでして、わたしを」
「言っただろう、お前は“適格者”なんだ」
「世界最強の……生命体に、なりうるってことですか?」
「そうだ。お前なら、私の“願い”を叶えることができる」
ヘルナイズの願い。それが何かに関わらず、そのためにイデアが必要とされるなら、それは彼女にとって本望だった。
「私の願いは──死んだ妹を蘇らせることだ」
「蘇らせる……」
「オルファリアという、妹は、10年前に死んだ──殺されたんだ、ニクス・ミストハルトに」
「え、ニクスって」
「そう。あのピカロ・ミストハルトの父親だ」
ここにきて急に現れた聴き慣れた名前。
しかしイデアにとってのピカロは同級生で、ニクスは大英雄。アルド王国の子供たちは大英雄ニクス・ミストハルトを尊敬していて、イデアも例に漏れず彼の英雄譚に心を躍らせたものだ。
「私の妹は、魔王だった」
「魔王!?」
「私は3人兄弟の次男。兄のアーバルデンと、妹のオルファリア。最も魔王となるべきだったアーバルデンが、無理やりオルファリアを魔王の座につかせたんだ」
「あ……ニクス・ミストハルトは、魔王討伐で貴族に成り上がったんだっけ……」
「まぁ、事はそんなに単純ではないんだがな。オルファリアとニクスは愛し合っていたし、アーバルデンはオルファリアをレイプしたり……」
「え、え?」
「まぁ、何だっていいんだ。過程はどうあれ、オルファリアが命を落としたことに変わりはない」
この時点から10年前の戦争──魔王軍がアルド王国に攻め込んできた際、ヘルナイズは踏んだり蹴ったりの悲惨な目に遭った。
まず、当時、日常的に行われていた魔王軍の侵攻、その前衛部隊として先頭にたったヘルナイズの部下たちが、800年の眠りから目覚めたニクスによって皆殺しにされたこと。
そして愛する妹オルファリアが、その憎きニクスと子供を作ってしまったこと。
さらにアーバルデンがオルファリアをレイプして子供を作ったこと。
身も心もボロボロで、ただ事の成り行きを見つめることしかできなかったヘルナイズが最後に目にしたのは、ニクスに殺されるオルファリアの姿。
そして悟った、今の自分よりも、オルファリアの方がずっと辛かったのだと。悲しくて、苦しかったのだと。
「私はオルファリアの蘇生方法を探し続け、やがてとある組織に辿り着いた」
「組織……?」
「『パノプティコン』──世界の裏側で“願い”を追い求める馬鹿の集まりだ」
「そのパノプ……何とかという組織が、死者蘇生の技術を持っていたんですか?」
「いや、そうじゃない。『パノプティコン』は宗教みたいなもので、つまるところ、ある1つの魔法の存在を信じ、実現のために動く組織……そしてその魔法こそが、死者蘇生を可能にする唯一の希望なんだ」
「死者蘇生の、魔法?」
「いいや、もっと凄い──それは、『全能魔法』」
「ぜ、全能?」
「曰く、あらゆる“願い”を叶える魔法、だそうだ」
「そ、そんなとんでもない魔法が、この世に存在するんですか?」
「存在するのだと、本気で信じている集団が『パノプティコン』だ。まぁ集団だの組織だの言ってはいても、別段協力しているわけじゃない。むしろ、競い合うように、奪い合うように、誰よりも先に『全能魔法』に辿り着こうと切磋琢磨している」
かつては、その『全能魔法』に辿り着くために、組織が一体となっていたのだが……結局、誰の願いを叶えるのかでトラブルになり、早い者勝ちの様相を呈するに至った。
そういう意味では、現在の『パノプティコン』は、組織の名前というよりも、『全能魔法』の存在を知る者たちを指す言葉と言えよう。
「私はその『全能魔法』で、オルファリアを蘇らせる」
「……あの、そこまでは分かったんですけど、その『全能魔法』と、わたしはどういう関係があるんですか?」
「君のことを“適格者”と呼んだのは、『全能魔法』を行使できる者は世界でたった1人だからだ」
「それが、わたし?」
「まだ違う。しかし、素質はある」
素質。イデアにとっては、最も自分と程遠い言葉だ。
アルド王国中の天才が集まる魔法学園で、唯一、一般人として不正入学してしまったイデアには、他人に誇れる素質などない──少なくとも彼女自身はそう考えていた。
「世界樹を媒介して行使する『全能魔法』は、あまりにも膨大な魔力を必要とする……その条件に耐えうる魔術師は、まさしく“世界最強の生命体”のみ」
「わ、わたしが世界最強になれる……とでも言うんですか?」
「……君は、自分を過小評価しているみたいだが、そもそもどうして君は不正受験がバレたにもかかわらず入学が許されたのかを知っているか?」
「えっと、スノウ・アネイビス学園長が……優しくて」
「違う、直接言われたはずだ、入学を許可する理由を」
「あ──『魔法の才能がある』」
これだけはイデアの疑問というか、ずっと心に引っかかっていたことだ。
なぜかスノウ学園長は、イデアをひと目見て、魔法の才能があると言い切り、入学を許してくれた。
それもまた、気を遣ってくれたのか、スノウ学園長の優しさなのかと思っていたが……アルド王国が誇る世界最大級の魔術師育成機関が、気遣いや同情だけで不正を許すとも思えない。
「スノウは魔界でも有名な魔術師……実際、魔法の腕だけなら私よりも上だ。あの男が見逃すはずもない」
「ほ、本当にわたしには才能が?」
「正確には──“あらゆる魔力に適応できる体質”を持っている」
「体質、ですか」
「例えば、君の右眼」
ヘルナイズはぐいっと顔を近づけて、イデアの赤い右眼を見つめた。
頭から湯気を立てて赤くなるイデア。暴れ狂う心臓の音を聞かれないよう、努めて深く息を吸う。
「これは、私の右眼を無理やり移植したんだが……普通の人間なら死んでいる」
「え!?」
「魔族特有の魔力に、人間の身体は耐えられないんだ。人間、魔族、天界人……それぞれの身体には、種族に合った魔力が存在する」
「じゃあわたしは、魔族なんですか!?」
「いいや、人間だ。魔族の魔力に、拒絶反応を起こさない──“適格者”」
「たまたま、魔族と相性が良かったんですかね……」
「魔族だけじゃない。言っただろう、君はあらゆる魔力に適応できる──天界人の魔力も例外じゃない」
「……天界人」
「これから君には、私の右眼が完全に定着するよう、最上級魔族に成長してもらう。そうしたら次に、天界へ行って、天界最強の力を手に入れるんだ……確か、『神王の指輪』とかいう魔法アイテムがある」
「魔族の力と、天界の力……」
「魔王族の力と、神王族の力。その2つに適応できる君こそが、『全能魔法』に辿り着ける“世界最強の生命体”だ」
何か、燃えるような、焼けるような、そんな熱さが身体の奥に広がっていく。
ごくりと唾を飲み込む。鼓動の早鐘は勢いを増すばかりだ。
久しく、感じていなかった感覚──ワクワクする。
自己肯定感の低いイデアにとって、ヘルナイズの話の真偽はともかく、自分には唯一無二の可能性があると言われることは、形容し難い喜びがあった。
自分の代わりはいくらでもいて、それなのに自分は誰の代わりにもなれない。そんな風に見下していた自分に、足が浮くような追い風が吹き付ける。
目も眩む希望。極上の可能性。
15歳の少女の心に火を付けるには、十分な説明だった。
「ただし、タイムリミットがある」
「じゅ、寿命ですか?」
「それもそうだが……この世には、君の他にもう1人、“適格者”が存在する。そいつに先を越される前に、『全能魔法』に辿りつかなければならない」
なぜか、そのもう1人の適格者というのが誰なのか、イデアは直感的にわかった。
彼女の15年の人生の中で、最も輝きを放っていた男。誰とも違い、誰も代わることのできない、正真正銘、唯一無二のあの人。
「──ピカロ君」
「そうだ。あいつは、魔族と天界人の間に生まれた唯一の人間。しかも、魔王と天界最強の一族との子供だ」
「……なら、最初からピカロ君を選べば良かったんじゃ」
「私の親しい仲間たちは、戦争でニクスに殺された。愛しい妹も、ニクスに奪われた……恥ずかしい話、個人的な嫌悪感情が邪魔して、ピカロ・ミストハルトのことが好きになれない」
「ふふ」
ヘルナイズの見せた意外な一面に、思わず微笑むイデア。
首を傾げるヘルナイズが、少し不機嫌そうに眉を潜めたので、急いで取り繕う。
「いや、あの。か、可愛らしい一面もあるんだなぁ、と」
「……まぁいい。そんなわけで、私は君を選んだ、イデア・フィルマー」
──もっとも、ニクスへの恨みなどなくとも君を選んだが。
そう言って頭を撫でられ、思わずギュっとスカートの裾を掴む。
……耳元で囁かれたせいで、“濡れて”しまった。
「あの、ヘルナイズ様」
「どうした?」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
非常に興奮したし、今すぐにでも乱暴に抱いてほしいという欲望が口から出そうだったが、気合で飲み込み、一つだけ尋ねた。
ヘルナイズに恋をするイデアにとっては、正直、なによりも大切な質問。
「ヘルナイズ様は、妹さん──オルファリアさんを、家族として、愛しているのですか?」
正直、ヘルナイズの執着は家族愛の度を超えている。
オルファリアがニクスと結ばれたことだって、妹が幸せを見つけたのだと思えばいいのに、ニクスを恨んだり。
人生の全てを投げうって、オルファリアの蘇生を望んだり。
これはもう、妹想いの兄、という範疇の外だ。
想定外の質問だったようで、一瞬固まったヘルナイズだったが、その答えは彼の中では明確で、だからすぐに答えた──当たり前のように。
「女として、愛している」
「そう、ですか」
イデアは顔を伏せる。
こんなことで、ヘルナイズを嫌いになったりはしない。何も持たない自分に右眼を与えてくれて、希望を見せてくれたこの人を。
ただ利用されているだけだとしても、ヘルナイズの願いを叶えるためならば、奴隷のように働く覚悟がイデアにはある。
その覚悟は、ヘルナイズが妹を異性として見ていたとしても変わらない。
ただ、一つの真実として──イデアの恋は、儚い恋心は、報われないのだと。
手の届く距離にいるこの人が、本当の意味で自分を愛してくれることはないのだと。
そう、思っただけだ。
「……んぅ」
イデアは、胸に渦巻く灰色の感情を洗い流すように、ティーカップの中身を飲み干した。
鼻腔を刺す花の香りが、やけに甘かった。
「わたし、頑張ります。あなたの為に、あなたの“願い”の為だけに、生きていくことを誓います」
「ありがとう──愛しているよ、イデア」
額にされた口づけが、酷く冷たく思えて。
溢れそうになった涙を、瞳を閉じて耐えるだけ──
そうして、イデアは人間を辞めた。




