第六十九話 殺戮王子
「……じゃあ、あたし様が魔王を殺しても、天界への移動魔法が使えるようになるわけじゃないのね」
「アーバルデンの説明を100%信じるならな。何か、代々魔王族に流れる血に、『魔王の魂』とやらが反応して、初めて本当の意味で魔王になれるとか言ってた」
つまらなさそうにため息をつくノッチことノチノチ・ウラギルが、ピカロの返答を聞いて頭を抱えた。
──場所は魔王城の一室。
暇すぎてピカロとシェルムの部屋を訪れたノッチと、3人で雑談をしていたところだ。
雑談というか、今後の3人の方針を定める大切な会議ではあるのだが。
「とにかく、せっかく魔界まで来たのに、あんたみたいな豚野郎に頼らないとあたし様は天界に帰れないわけね」
「いや私は魔王じゃないから頼られても困る。現魔王デスファリアに土下座でもしてこいよ」
「あたし様、魔王ってのがそもそも嫌いなのよね。調子乗ってるって感じ」
「魔王が嫌いだろうが、故郷に帰るためならば全力を尽くせよ」
「……わかってるわよ、そんなこと」
魔界から天界に行くには、魔王のみが作り出せるゲートを通る他ない。
天界を経由して、再び人間界に帰らなければならなくなったピカロとしても、そのゲートが必要である。
かといって、現魔王デスファリアが、得体も知れない3人組のためだけに、時間と労力(というか魔力)を割いてまでゲートを作ってくれるかといえば、そんなハートフルな展開にはなり得ない。
今現在の魔界をどれだけ良い社会に作り替えるか、その一点に集中しているデスファリアにとって、この3人は何の価値も持たないのだ。魔界の役に立つ人材でなければ、話さえ聞いてもらえないだろう。
ただ、そんな事情がなくとも、ノッチは期待していた──ピカロが新たな魔王となることを。
「で、本格的にどうすんだよピカロ。魔王城に来てからもう3日……僕たちずっとダラダラしてるぞ」
「これを幸せな生活と呼ぶんじゃないのか?」
「どこがだよ。下手に動き回ってデスファリアにバレたら終わりだし、窮屈で仕方ない」
「まぁ私は毎晩のようにノッチとセックスしてるから、暇ではないんだ」
「してないわよ」
「昨晩も──“しました”」
「してないってば」
「お前のその架空セックスセクハラには、何の意味があるんだ」
「ただただノッチの耳にセックスという単語を聞かせたいだけ」
「きっしょ。もう部屋帰るわ」
1ミリもデレてくれないノッチが、自室へと帰っていった。
なぜか誇らしげな表情のピカロ。シェルムはキングサイズのベッドに潜り込み、天井を見上げる。
「本当に魔王になる気はないのか? ピカロ」
「いやそりゃなれるならなりたいけどさ、デスファリアに勝てる確証もないのに挑むのは怖いだろ」
「お前は魔王の強さを知ってるのか?」
「いや知らないけど……多分強いんでしょ」
「さぁな。でも、いつまでもこんな場所で時間を無駄にしているわけにもいかない」
「何か、もっとこう簡単そうな目標があれば、動き出せるんだけどな」
正直な話、右も左もわからない魔界において、3人にやれることは極端に少ない。
魔界のルールも、誰が危険人物なのかもわからない。
とりあえずこの魔王城にいればアーバルデンのおかげでご飯には困らないし、泊まる場所も確保できる。こうなると、この環境を捨ててまで魔界で大立ち回りをするだけの動機が、目標が必要なのだ。
人の本質は怠惰である。
「あ、おいピカロ、お前すごい大切なことを忘れてるぞ」
「倫理観?」
「それもそうだけど──イデアさんのことだよ」
「あ! 完全に忘れてた。ノッチという美少女が近くにいるせいで女に満足してたわ」
「モテる奴みたいな口ぶり……イデアさんはどうする? 一応お前の中ではまだヒロイン候補なんだろ?」
「そりゃもう最終回ではイデアさんが私に馬乗りになって腰を振っているはずだからな」
「死ね。っていうか、お前新入生トーナメント後にイデアさんが拐われた際に、『イデアさんを返せ』って言ってただろ」
「うん」
「だから、魔界に来た今こそ、イデア・フィルマー救出編を始めるべきでは?」
「仮面の男討伐編でもいいけど……そうだな。そうしよう。魔王のことはとりあえず後回しにして、私のセックスフレンドを取り返しにいこう」
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紫色の霧が立ち込める森の奥。
仰々しい洋館の2階、最奥の部屋。ベッドの上に、熱い吐息が漏れていた。
「ヘルナイズ様……」
栗色の前髪の隙間から、血のように赤い瞳が顔を出す。
恍惚の表情で唾を飲み込むのは、イデア・フィルマー。
ピカロと同級生なので30歳を超えているとはいえ、身体が最上級魔族化しているため、ほとんど見た目は変わらない──魔法学園に通っていたころのあどけなさを残したままだ。
「きょ、今日こそは、ヘルナイズ様と、“ひとつ”に」
大きめの布1枚を身体に巻いただけという、大胆な格好でベッドに上がるイデア。火照った身体が興奮に震えるのを堪えつつ、静かに眠る主人の横へ。
起こさないよう、慎重に、隣に横たわり、その逞しい首筋に顔を埋めた。
「はぁ、はっ、良い匂い。ヘルナイズ様ぁ……」
筋肉質ながらも豊満で魅力的な身体をくねらせ、目に涙を溜めるイデア。
ひとしきり主人の匂いを堪能した後、イデアはゆっくりと覆いかぶさり、主人の唇を見つめながら、顔を近づけた。
「し、舌とかいれちゃおうかな」
「……何をしている?」
「きゃあっ!」
興奮したイデアの荒い鼻息が顔にかかり、思わず目を覚ましたのは、ヘルナイズと呼ばれた男。
短く切り揃えられた白髪。しかし見た目は若く、人間でいうところの30代前半といったところか。キリッとした男らしい印象を与える端正な顔立ちだ。
白く長い睫毛を震わせ、目を開けると、頬を朱に染めるイデアの姿。ちらりと視線を下に移せば、その艶かしい身体をたった1枚の布だけで隠していて──
「またか、イデア」
「だ、だってヘルナイズ様がいつまでも“おあずけ”するから……」
「……私は、お前のことを娘だと思っている。娘に欲情する父親がいるものか」
「わたしはヘルナイズ様をご主人様だと思っています。どうか、欲望の赴くままに、わたしを無茶苦茶に……」
「おふざけもいい加減にしろ。それに、そんな格好じゃあ風邪をひくぞ」
言うと、ヘルナイズはおもむろに服を脱ぎ出した。
ついに“キタ”とばかりに覚悟を決めるイデアだったが、ヘルナイズは脱いだ服をイデアの肩にかけ、上半身裸のまま部屋を出ていってしまう。
じんわりと熱い下腹部のうずきを抑えながら、イデアはその服に顔を埋めた。
「おふざけなんかじゃないのに…………まぁ寝汗を吸ったシャツが手に入ったのでよしとしましょう」
ブカブカの彼シャツ気分でヘルナイズの服を羽織ったイデアが一階に下りると、ヘルナイズは湯気を上げるティーカップを2つ、テーブルの上に置いていた。
ちらりとイデアを見ながら、片方のカップに口をつける。
「身体が冷えてしまう。ほら、飲みなさい」
そう言う自分が上半身裸だということは忘れているのかもしれない。
しかしそんなことはどうでもいいイデアは、その美しい肉体美に釘付けになった視線を根性で逸らして、テーブルへ向かう。
椅子に座ると、ティーカップから漂う花の香りが鼻腔をくすぐった。
大好きな一杯──初めてここに来たあの日にも飲んだ、思い出の。
「できればヘルナイズ様の飲みかけのものが欲しいです」
「意味がわからん。早く飲め」
「むぅ……」
口を尖らせるイデア。呆れた様子のヘルナイズが頭を撫でてやると、機嫌を直したようで、嬉々としてお茶を啜る。
少し熱かったようで、フーフーと水面を揺らす愛おしい姿に、ヘルナイズも思わず笑ってしまった。
「ヘルナイズ様、計画は順調ですか?」
「そこそこ、というところだな。どこかのおてんば娘が勝手に人間界に遊びに行ったりしてなければもっと安心して計画を進められたけれど」
「まだ怒ってます!? ゆ、許して下さいよぉ」
「危ないところだったのだろう? あの忌まわしきピカロ・ミストハルトに助けられてしまうくらいにはピンチだったらしいじゃないか」
「それほどに、黒髪の女の子が強かったんですぅ」
最上級魔族であるヘルナイズの右眼を埋め込まれたイデアは、最上級魔族の魔法を使えるようになっていた。
その一つが、魔界と人間界を自由に行き来するというもので、アーバルデンなどがしょっちゅう使いまくっているアレだ。
つい最近使えるようになったため、調子に乗っていたイデアは、そのまま人間界に飛び込んでピカロを殺してやろうと企んだのだが……。
ノアライエ・アルドレイド第一王子に殺されかけて、そして最悪なことに殺すつもりだったピカロに命を救われてしまった。
どういうわけか、最上級魔族しか使えないはずのゲートを開いたシェルムによって魔界へと送り返されたイデアは、洋館に帰ってからヘルナイズにしこたま怒られたのだ。
ヘルナイズの怒りも無理もない……そんな勝手な行動でイデアが命を落としていたら──“計画”が台無しである。
「そ、そうだヘルナイズ様。わたしは反省するとして、実際のところ、ピカロ君やシェルム君についてはどうするつもりなんですか?」
「……何が言いたい」
「あの2人は──殺しますよね?」
見上げてくる紅緋の瞳は、欠片ほどの濁りもない、純粋なものだった。
そうなるよう“育てた”ヘルナイズが思うのもおかしいが、イデアはすでに立派な魔族のようだ──心も、身体も。
ヘルナイズの“個人的な恨み”が向けられている、というだけの理由で、かつて友人だったピカロとシェルムの死を心から願うイデア。
自分に心酔する様子を見て、やはり催眠魔法は必要なかったとヘルナイズは確信した。
忠実な駒ほど、愛おしい。
「嫌がらせのつもりで奴らに懸賞金を掛けていたが……そうして群がった魔族との戦闘が奴らの成長を促してしまったということもある。面倒くさいし、正直な話、もう関わりたくはないんだが」
「でも、ピカロ君は──」
「言わなくていい。……まぁ、向こうから喧嘩を売ってくるようなら、殺してやってもいいかもな」
優雅な所作でお茶を飲み干したヘルナイズ。欲しがりな目で見てくるイデアを無視してティーカップを洗いに台所へ。
自分に心酔してくれるのはいいが、まさかここまで性欲の強い女だったとは。
無論悪い気はしないが、色恋沙汰にうつつを抜かせるほど暇でもない。
それに、ヘルナイズにはもう──
「……ん? 森に侵入者のようだ」
「わたしが出ましょうか?」
「いや、この気配は……くそ、なんてことだ」
急いで館を出るヘルナイズ。イデアも熱々のお茶を頑張って飲み干してから、小走りでその背中を追った。
館を出ると、来客はもうすでに玄関前に立っていた。不快感を隠そうともしないヘルナイズに対し、来客は満面の笑みを浮かべている。
「何をしに来た──アーバルデン」
「いやぁ、久しぶりですね、ヘルナイズ」
最上級魔族同士の対面。魔族たちがこの光景を見れば震え上がること間違いなしだ。
アーバルデンについてはよく知らないイデアが、ヘルナイズの背に隠れるようにして様子を伺っていると、アーバルデンの背後から聞き覚えのある声がした。
「あ! イデアさんがブカブカのシャツだけを着てる! そして近くには上半身裸のイケメン! セックスじゃーん? それってつまりセックスじゃーん?」
「ピカロ君!?」
「何のつもりだアーバルデン!」
「いやぁ、ピカロ君がヘルナイズに会いたいって言うので……」
怒りを露わにするヘルナイズと、相変わらずヘラヘラしているアーバルデン。その後ろから、ピカロとシェルム、そしてノッチが姿を現した。
すると、アーバルデンは踵を返し、来た道を戻り始める。
「ではでは、色々と忙しいので私は帰りますね、ピカロ君たちも、夕食までには帰ってください」
「はーいお義父さん」
「ピカロお前、アーバルデンのことは嫌いって設定だったろ。お前の母親をレイプしたクソ野郎だぞ」
「あ、そうだった。あまりにも優しいから好きになってたわ」
「あんた達、こんな辛気臭い森にあたし様をいつまでも居座らせる気じゃないでしょうね。さっさと用事を済ませなさいよ」
緊張感に欠ける3人組。
対してヘルナイズとイデアは殺気を隠そうともしていなかった。
「何をしに来た、ピカロ・ミストハルト」
「散々嫌がらせをされた仮面の男を懲らしめてやりたくてさ、アーバルデンに相談したらここに案内されたんだよ」
「……あの道化師め」
「しかしまさか仮面の下がそんなイケメンだったとは……ますます気に食わねぇな」
「この私を殺しに来たのか? 人間風情が」
「いやまぁ殺さなくてもいいけど。イデアさんさえ返してくれれば」
「わたしは人間界になんて帰らない!」
何も知らないピカロの無神経な一言に、イデアは怒りを爆発させた。
一瞬で魔力反応が増大し、イデアの右半身が黒く染まる──戦闘体勢だ。
「いやいやイデアさん。君はそこのイケメンに洗脳でもされてるんだよ。私が救ってあげよう」
「何の根拠もない正義感を振りかざして……わたしのことを本気で思ってくれているのなら、大人しく死ね!」
「こっわ何だこいつ。さっきからシャツをチラチラ揺らして、女性器が見えそうで見えない角度を演出してるのも知ってるぞ! そんなエロ娘は私が引き取ります! 性奴隷にしてやらぁ!」
「おいピカロ。ヒロイン候補じゃなかったのか」
「そうだった。恋する普通の女の子にしてやらぁ!」
「余計なお世話!」
「──私が殺す、下がってろイデア」
ただのエゴでここにやって来たらしいピカロたちを見て、ヘルナイズのスイッチが切り替わる──弱者を屠る、強者の目。
その引き締まった筋肉をなぞるように、黒い紋様がヘルナイズの身体を覆い始める。
禍々しい死の香り──アーバルデンと同じ、最上級魔族特有の威圧感。
さすがにふざけた雰囲気ではなさそうだと察したピカロも、戦闘態勢に入る。
右腕をかざし、イデアを見つめながら格好つけて言い放った。
「『魔王の右腕』」
「でましたクソダサネーミング!」
茶化すシェルムを無視し、右腕に魔力を込めると、次第にゴツゴツとした巨碗へと変貌していく。黒々としたそれは、まさしく魔族の腕だ。
ふざけているようだが、しかしその強さは折り紙付き。魔王の血を受け継ぐ正統な魔王族の力である。
自身が最上級魔族となったイデアも、その腕を見て察した──正真正銘、あの腕は最上級魔族のものだ。
「このぶっとい指を、イデアさんの愛液で濡らしておくれよ!」
「最低……」
「あぁ、美少女の罵倒ほど気持ちの良いものはない……!」
もはやどちらが魔族でどちらが悪役なのかわからなくなりそうな異様な雰囲気。
最近のノッチへのセクハラの日々が楽しすぎたせいで、今のピカロはセクハラをしたくてたまらないのだ。
もはやイデアを救う気もなさそうなピカロを、ヘルナイズは冷たい目で見つめる。
「既に人間を辞めたか、ピカロ・ミストハルト」
「私は──神だっ! キリッ」
「──ならば殺そう」
──愚かな神よ。
ヘルナイズがピカロに向けて手を突き出し、拳を握った。
その刹那、ピカロの右腕がグシャリと曲がる──まるで踏み潰された芋虫のように、血潮と骨片を噴き出しながら、見るも無残な形へと変わっていく。
「ひぎゃぁぁああッ!?」
「死ね、“失敗作”」
『殺戮王子』ヘルナイズ──その赤黒い双眸に、火が灯る。




