第五十話 過去編(四)
ニクスが800年も眠っていた理由は、全身骨折や内臓裂傷などの致命傷を、魔力による自然回復によって治療しようとしたためである。
少なくともザンドルドには医療の心得はなかったため、ニクスを包帯でグルグル巻きにすることくらいしかできなかったし、魔力を注ぎ込むことで回復を促進させていたのも、ナナーク島に到着するまでの2日間だけだった。
要するに、手の付けようもないほどに死にかけた人体を、ちょっと空気中に魔力が多いだけの場所で自然回復させようとしたために、800年もかかってしまったのだ。
とはいえ、その状態で生きていたニクスの生命力が、天界人だということを加味しても尋常ではなかったことも確かである。
天界人の寿命はかなり長いが、800年も生きられるのは稀なケースであり、それもかなりの健康体だった場合に限る。死の淵まで転げ落ちたニクスが、いくら眠っていただけだとはいえ、800年も生きたのは奇跡だ。
偏に、オルファリアとの再会を願う想いの強さゆえ、なのだろうか。
──ニクスが眠りについてから、正確には760年後。ディアレクティケ遺跡に変化があった。
ニクスの眠る部屋が、外側から開けられたのである。
「……む、先客がいるな」
壮年の男が、少女を抱えて扉を開けた。その背後には、粉々にされて消滅していく部屋の番人──暗黒騎士の亡骸。
白い髭を揺らしながら、男は横たわるニクスの肩を叩く。
「おい、君。大丈夫か?」
「…………ん」
ニクスが目を開ける。ボヤけた視界にあった人影を、眼球だけで追った。何か話しかけているようだが、上手く聞き取れない。
それに、頭がボーッとして、何か大切なことを忘れているような気がした。
「……ここは……どこだ」
「この場所のことを知らずに、ここで眠っていたのか?」
「俺は……」
何も思い出せない。
──仮に、800年も眠ると、人はどうなるのだろうか。
おそらくは、筋肉は衰え、体は衰弱し、脳機能も低下するだろう。現に、全身の傷を治すことに魔力を使い切っていたニクスは、かつての引き締まった身体とは程遠い、病人さながらの体型だった。
極めつけに、ニクスは記憶を失ったらしい。
「……まぁいい。君のことは私が面倒を見てやる。とにかく、“この子”にその場所を譲ってはもらえないだろうか?」
何もわからず、言われるがまま起き上がり、倒れるように座り込むニクス。折れそうな細腕を支えられ、横の床に座らされた。
男は抱えていた少女を、先ほどまでニクスが横たわっていた場所に寝かせる。顔色が悪く、衰弱しているのが見て取れた。
ニクスは部屋を見回す。正直いってどれも見覚えのないものだ。
薄紫の盾を、まるで神様のような扱いで祀る祭壇。こんなものあっただろうか。
ふと、盾の近くにあった紙を手に取り、開いた──『未来の同士たちへ。ここから天界へは帰れない』……言葉の意味はわからなかった。
──実を言うとこの2つは、ニクスが眠った後に、ここを何度も訪れたザンドルドが勝手にやったことであるので、たとえニクスの記憶が正常だったとしても知り得ないものだ。
幾度も命を救われた月龍麟の盾を、仰々しく祀りあげたのはザンドルドのおふざけだが、未来への手紙は、今後この部屋を訪れるかもしれない天界人に向けた優しさである。
「とりあえずこの子はもう大丈夫だろう。……さて、この少女は、この部屋で『ミストハルトの戦士』を“待つ”のだと言っていたが──もしかして君がその『ミストハルトの戦士』だったりするのか?」
男に見下ろされ、ニクスは首を傾げる。何の話をしているのだろう。
「……自分の名前はわかるか?」
「ニクス──ニクス、しかわからない」
「そうか……しかしこれもまた巡り合わせだ。私についてこい、ニクス」
──ニクスは、2つの幸運に救われた。
1つは、誰かに起こしてもらえたこと。実はニクスの傷は遥か昔に全治していたのだが、あまりに身体機能が衰退していたために、自分の力で目覚めることができなかった。
ゆえに、この男に起こしてもらわなければ、このままゆっくりと衰弱死していたことだろう。
そしてもう1つの幸運は、起こしてくれたのが、他の誰でもないこの男だったこと。
「あぁ、言い忘れていた──私はスノウ・アネイビス。天界について研究している者だ」
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それからのニクスは、スノウのもとでリハビリを続ける日々を送った。記憶は一向に戻らないが、ニクスが眠っていた場所がかつて天界と繋がっていた場所だということから、おそらくニクスは天界人であるということなどは説明された。
自分が何者なのかわからない恐怖や、生きる目的を持たない無気力も、いずれスノウの優しさで緩和され、少しずつではあるが、精神的な回復も進んだ。
スノウの弟子として過ごし、あらゆる冒険にもついて行ったニクスは、およそ10年ほどでかつての肉体を取り戻した。
天界最強の一族『ミストハルト』史上、最高傑作と噂された才能は伊達ではなく、やがてニクスはスノウを超える戦士へと成長した。
しかしスノウは言い聞かせる。
「ニクス、君の力は“目立ち過ぎる”。人類滅亡の危機でもなければ、君は人前でその実力を見せない方が身のためだ」
魔力を放つ世界樹の研究が進み、その世界樹を中心として囲うように大国が築かれた時代に、魔法を使わずに人類の枠を超えた強さを持つニクスは異質そのものだ。
魔法至上主義に満ちた世界にとって、ニクスはむしろ異端者として危険視されかねない──魔法に頼らず強いだなんて、まさか魔族なのではなかろうか、という疑いさえかけられてもおかしくなかった。
しかしそんなニクスが戦わなくてはならなくなってしまう事態が起こる──それからおよそ10年後の、魔族侵攻だ。
『魔皇帝』アーバルデン・シンス・ザルガケイデン率いる魔族の大軍が、世界各地を襲った。
当時ニクスが住んでいたアルド王国にも、魔の手は伸び、ニクスは戦いを余儀なくされたのだ──そして、魔王軍の大隊を1人で壊滅させてみせた。
その報せをきき、魔王オルファリアは何事かと詳しく調べたところ、かつて愛し合っていた男の姿に辿り着く。
魔王軍の戦闘に、魔王自ら出陣すると言って強引に魔界を出たオルファリアと、アルド王国にて人類最強の戦士の一角とされていたニクスが出会うのは、それからすぐのことだった。
「──ニクス」
突然、ニクスは森の中に迷い込む。先ほどまで荒野で魔族と戦闘を繰り広げていたというのに、気が付いたら森の中にいた。
周りにいた沢山の魔族も、人間もいない。ただ誰かの声のみが木々の隙間から聞こえる。
「ここはどこだ……魔族はどこに行った!?」
「ニクス、あなたなの?」
「だ、誰だ!?」
「私の声も忘れてしまったの?」
ザワザワと風に揺れる薄暗い森の中。あらゆる方向から聞こえる声に、ニクスは剣を構える。
ちなみにこの時の剣は、ニクスが天界から持ち込んだ聖剣アルドレイドではなく、普通の剣だ。
聖剣アルドレイドは、ゴールデンヘラクレスとの戦闘跡地に突き刺さったまま数百年経ち、その後大量の魔石を消費しながら世界樹の付近にまで運び込まれ、聖剣アルドレイドを国宝とした大国、アルド王国が建国された。
地面から抜くのに、大量の魔石を消費する神の剣を国宝とするアルド王国──そこに住むニクスは、まさかその国宝が自分の剣だとは知らないままだったのだ。
ともかく、大した装備もなしに、いきなり森の中に迷い込んだニクスは、死を覚悟するほどに絶望的な状況だった。
おそらくは魔法の中に閉じ込められてしまったのだと予想したニクスは、そのあまりの規模の大きさに驚愕した──森を作り出す魔法があるのか?
「あなたと引き離されてからおよそ800年……運命がまた私たちを結び付けてくれたのだと思っていたのに──まさかニクス、あなた記憶が……」
「先ほどから話しかけているお前は、一体誰なんだ! 姿を現せ、卑怯者!」
「……それでも、私はあなたを愛している」
深い森の奥。突然差し込んだ陽光に、ニクスは目を細める。後方からの物音に剣を構えると、草花をかき分け、美女が現れた。
漆黒の長髪と白い肌のコントラスト。陽光を反射する赤い瞳が、ニクスを見つめている。
「……な、なんだ君は」
「私はオルファリア・シンス・ザルガケイデン。あなたと将来を誓い合った……ただの魔王」
「ま、魔王!?」
「ニクス・ミストハルト……あなたはもう、私のことを覚えていないの?」
「ミスト……ハルト……?」
耐えがたい頭痛に襲われ、座り込むニクス。すぐさま駆けつけたオルファリアが、心配そうにニクスの周りをうろちょろしている。
美女が背中をさすったり、肩を揉んだりしているのも気にかけず、ニクスは頭痛の中に響く声に耳を傾けた。
──数分後、あまりの激痛に気絶していたらしいニクスが、目を覚ます。
川のほとりで、オルファリアに膝枕をされていたらしい。
「……オル……ファリア?」
「……っ! 思い出してくれたの!?」
「いや、まだ頭はボヤけている……でも、君のことだけは、なぜかハッキリとわかるよ、オルファリア」
「本当かな……じゃ、じゃあ私の飼ってたケルベロスの名前は?」
「え、えーっと。確か“ワンワン君”」
「きゃー! 本当に思い出したのね!」
抱きつくオルファリア。豊かな双丘に顔を包まれ、焦ったニクスがバッと身体を離す。なにせ2人はまだ、手を繋いだことしかなかったのだから。
「オルファリア……その、800年で随分と大胆になったな」
「もう会えないと思ってたから……」
「ちょ、うわ、胸が!」
「絶対離さない! 800年分の愛を思い知れ!」
それから随分と2人は話し合った。かつて手紙でやり取りをしていたこと、初めて姿を見せあった日のこと、初めて手を繋いだ日のこと。
積もりに積もった愛は、戦争中だということさえ忘れさせる。
オルファリアは、魔界のことを。ニクスは人間界に来てからのことを話した。
「ま、まさか死にかけて800年も眠っていただなんて……助けてくれたザンドルドって人には感謝しなくちゃ」
「俺もまさか、君が無理やり魔王にされてから800年も魔王を続けていたとは思わなかったよ」
「だってアーバルデン兄さんには逆らえないもの……強いし、怖い」
「……そ、そうだ! 今はアーバルデン率いる魔王軍との戦争中だった!」
「いいよそんなの。私たちは失った800年を取り戻しましょうよ」
「い、いやそれどころじゃ……」
しかし結局、ニクスはそれからも毎日のようにオルファリアと逢引するようになった。場所はオルファリアの作る魔法の森の中。
ほとんど思い入れのないアルド王国の危機よりも、愛する女性との再会の方がニクスにとっては大切なことだったのだ。
ニクスは段々と記憶を思い出していき、完全に記憶障害を克服したころには、気づけば子供ができていた。
オルファリアの熱烈なアプローチに耐えきれず、愛を育んだ──そうして生まれたのがピカロである。
2人はピカロを森の中で育てた。魔王の子供だと知られれば、人間界で生きる場所はない。魔界でも、人間との子供なんて迫害されてしまうだろう。
ピカロを普通の人間として育てるために、2人は自身の素性をピカロには話さず、平和な人間の家族として5年の時を過ごした。
──しかしそんな幸せな日々も、突然終わりを告げる。
魔界にて、魔王を辞めたいと申し出たオルファリアを、怒り狂ったアーバルデンがレイプ。無理やり子種を植え付けられ、魔力により急成長した子種は、受精卵のまま意思を持ち、母体であるオルファリアを完全に支配した。
そうして、次にニクスとオルファリアが顔を合わせたときには、全てが終わってしまっていたのだ。
──アルド王国と魔王軍の主戦場であった荒野にて、魔王オルファリアと、ニクスが対面する。
「一体どうしたんだ、オルファリア!」
「…………わ、私は」
身体が勝手に動く。オルファリアはその小さな身体に秘めた悍しいほどの魔力を振り回し、アルド王国軍を蹂躙する。
全ては、本能的に人類を滅ぼそうとする受精卵──デスファリアの意思だ。
オルファリアの暴走を止めるべく、ニクスは剣を振るう。
オルファリアは、言葉を発することはできても、身体の暴走を止めることはできない。
2人の激闘は数十分も続いた。
2人は戦いながら何度も言葉を交わし、そしてニクスは全てを知った。アーバルデンの暴挙とオルファリアの絶望を。
そして、ついにニクスの剣がオルファリアの胸を貫く。剣を伝い、手を濡らす血の暖かさが、ニクスの心を締め付けた。
オルファリアは、ニクスの耳元で囁く──死の間際、デスファリアの呪縛から解放されたオルファリアの魂が、か細い声で語りかける。
「……今、私のお腹の中にいる子は、私が望んだ子じゃない。私とあなたの幸せを粉々に打ち砕く、絶望そのもの……。アーバルデン兄さんは私のことを滅茶苦茶にして、あなたを傷つけた」
「……オルファリア」
「私にとって、息子はピカロ1人……世界で1番愛しているのも、ピカロとあなただけ。その想いに間違いはないの……でも、でもねニクス」
オルファリアは涙を流して、笑った。
「どんなに望まれなくたって、どんなに恨まれたって、“この子”に罪はないでしょう?」
「……ッ!」
「辛いし、悲しいし、苦しいけど……“この子”は何も悪くない。ごめんなさい、ニクス。あなたとの愛を裏切りたいわけじゃないの……でも、でも」
「わかってる……! 君がそれほどに優しい人だから……俺は君を好きになったんだ。……その子は殺さない!」
「……私が死んだら、アーバルデンは転移魔法で“この子”だけは回収するはず……次の魔王に育て上げると言っていたから……。だから、だからね、ニクス」
耐えがたい苦痛。幸せな日々を台無しにされ、忌々しくても罪のない命に、怒りはぶつけられない。報復したくとも、アーバルデンには敵わない。
ただ1人の女として幸せになりたかったオルファリアは、しかし非業の運命に抗えず、ただ涙を流す。
「──あなたの手で、私を殺して」
言葉にしなくても、ニクスには伝わっていた。
無理やりとはいえ、アーバルデンに身体を許してしまったこと。アーバルデンの子を孕んでしまったこと。ニクスの妻として生きられないこと。ピカロの母親として生きられないこと。
もうかつての幸せには戻れないこと。
オルファリアに、もはや生きる気力は残されていないのだ。度重なる絶望が、オルファリアの心を壊してしまった。
ニクスへの裏切りの罪悪感と、罪のないデスファリアへの耐えがたい嫌悪感。
“死”以外に、オルファリアを救えない。
「……ピカロは『魔王の魂』を受け継いでいる。私の魔法で封印はしてるけど、いつ力に目覚めてもおかしくない。呪われた運命から、ピカロを、どうか守って……」
「……命にかえても……!」
「泣かないでニクス……。ピカロを、お願いね」
ニクスは剣に魔力を込める。
ついに、決着の時であると察したアーバルデンが、オルファリアの子宮を転移魔法で移動させた。激痛に顔を歪めるオルファリア。
止めどなく涙を流しながら、ニクスは剣を振り抜く。死の間際、魔王の微かな呟きは、ニクスにしか聞こえない。
「──ピカロが……誰よりも幸せになりますように」
「うおおおおぉッッ──!」
ピカロ・ミストハルト、5歳の誕生日。
オルファリア・シンス・ザルガケイデンは、我が子の幸せを願い、ニクス・ミストハルトの手でこの世を去った。




