第四十五話 怪奇文書
王都中心部、避難者でごった返す広場の上空。
一瞬にして王都を絶望の底へと叩き落とした『魔皇帝』アーバルデン・シンス・ザルガケイデンの恐怖は、若き天才たちによって終息した。
ピカロとシェルムの挟み撃ちにより、アーバルデン本体は消滅……伴ってまだ数体は残っていた分身も霧散して消え去った。
重力制御魔法で宙に浮いたままのピカロと、風魔法で飛ぶシェルムを見上げながら、一部始終を見ていた群衆が歓声を上げる。
ピカロを英雄と呼ぶ者も少なくなかった。
──そして、シェルムだけが気付く。
「母さん……」
「待ってろピカロ……今、楽にしてやる」
ピカロの両眼が赤黒く光る──魔王の力に目覚めた証であり、その光を抑えていられていないということは、力の暴走はまだ終わっていないことを示している。
母オルファリアの祈りか、呪いか。
ピカロに何が見えて何が聞こえたのかは知り得ないが、有り余るアーバルデンへの殺意だけは本物だった。
私怨による討伐──しかし周りからすればピカロは英雄。
せっかくの評判を貶めたくはないし、何よりここでピカロが暴れ出したりでもすれば、ピカロが人間ではなくなったことが露見する可能性も否定できない。
──少なくとも、シェルムはこの日のためにピカロと行動を共にしていた。もちろん、まだまだピカロと二人三脚でやっていきたいことはあるが、父親であるニクス・ミストハルトとスノウ・アネイビス学園長との約束は、今この時のためだ。
魔法学園への入学許可を貰いに、2人で二クスのもとを訪れた際、シェルムという得体の知れない存在に、二クスとスノウは警戒心を隠さなかった。
その時シェルムは、『数年後か数十年後のピカロを止める』という役割を買って出た。自分にしかできないのだと。
それが今だ──ピカロが魔王の力に目覚めた時の暴走を止める……そういう意味でシェルムは言ったし、オルファリアのことを知るニクスもスノウも、そういう意味でシェルムに任せた。
ピカロが魔王の子であることを隠し、平和な生活をさせてあげようとしたオルファリアの願いでもあり、魔王の力が人々を傷つけないか危惧するニクスとスノウのためでもある。
魔王の力の暴走を止め、ピカロ・ミストハルトを取り戻す。
──シェルムはゆっくりとピカロの近くへと降下し、その耳元で呟いた。ほんの一瞬、おそらくスノウほどの魔術師でないと気付かないほどの一瞬で、莫大な魔力を流し込む。
「眠れ……次に起きた時は、いつものお前だ」
催眠魔法の究極形──溢れ出る殺意の波に溺れていたピカロは、ゆっくりと目を閉じ、地面へ落ちていった。
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ピカロは立っていた。
薄いピンク色の空間……空も地面もない、果てしない空間。
頭に靄がかかったような不快感を覚え、頭を振った──ズキズキと痛む目頭を押さえながら浅く目を開ける。
「……アンシー?」
少し離れた場所に、ミストハルト家メイドのアンシーがいた。ピカロに背を向けてはいるが、その後ろ姿だけでもわかる。家事をするアンシーの身体を舐めるように見つめ続けてきた日々は失われていない。
アンシーが振り返る。久しく、10年以上会っていないアンシーの姿は、ピカロの知っているあの頃のままだった。
本来なら三十路手前のはずだが……目の前のアンシーは幼ささえ感じられる。
「セックス……」
「え、アンシー?」
「スェーックス……」
「どうしたんだアンシー」
「ヴァーギナッ」
「正気じゃない……!」
ピカロは昔から思っていた。アンシーは田舎っぽい女の子だが、決して見窄らしくはなく、ピカロ好みの美人だと。
だからこそ、そんなアンシーの口から下ネタが聞きたいなぁと、常々思っていた。
驚きのあまり、引いてしまったが……しかしこの現状はピカロの理想通りだ!
「こ、ここが神の国か! あるいは夢か!?」
「チンチンブリンブリーン! 皮余り〜!」
「か、皮余りだと!?」
「短小包茎〜!」
「だ、黙れッ!」
「テンション風景〜!」
「うるせぇぶち殺すぞッ!」
ピカロの怒りの拳が、アンシーの顔面を貫く。ひねりを加えたパンチを喰らったアンシーは粉々に砕け散った。
ピカロはニッコリ笑う。
「大将様〜」
背後から声をかけられ、ピカロは嬉々として振り返る。ここは夢の国──自分の好きな女が、最も好きだった頃の姿で現れてくれる。
ピカロの真後ろで手を振っていたのは、坊主頭の風俗嬢だった。
「リーザッ!?」
「フ・リーザですぅ」
「ジンラ大帝国の風俗店に勤めてた化け物!」
「ちんぽんちゃんぽん。ピンポンパンポン。ping-pong」
「喋るな! 口が臭い!」
「大将様は童貞。どうーてい。どぅーてぃ。どぅーしてぃ?」
「どうしてだぁ!? んなことしらねぇよ!」
「どぅーしてぃどうてい?」
「殺してやるッ」
ピカロのかめはめ波でリーザは跡形もなく消え去った。
──この世に神がいるとして。その神が人間を作っているのなら……リーザという化け物を生み出してしまうあたり、神の美的センスもたかが知れる。
人間作りの才能がない──そう思ったピカロの肩を、誰かが叩いた。
「ピカロ君……」
「イ、イデアさん!?」
紺色の長い髪。前髪で目が隠れているものの、ピカロはこの子が美人だと知っている。
仮面の男に連れ去られる前の、仲が良かった頃のイデア・フィルマーが、そこにいた。
ピカロは神に謝った! 神の美的センスは素晴らしい! こんな美しい女の子を作り出せるなんて!
「童貞ちょうだい」
「え、え!?」
「童貞、1個ちょうだい」
「いや何個もあるわけじゃないんだけど……」
「できれば3個ちょうだい」
「てめぇイデアさんじゃあねぇな! 清楚な美人イデア・フィルマーを返しやがれ!」
「私に童貞あげるの、嫌?」
「セックスしてください」
嫌なわけがあるものか──嫌なわけがあるものか(2回目)!
急いでベルトを外し、ズボンを脱ぐピカロ。空に向かって叫んだ。
「おい作者! 私とイデアさんのセックスを書け!」
『……』
「作者! 早くしろ!」
『ガイドラインに違反してしまう』
「知るかバカ! ガイドラインだか利用規約だかしらねぇけどな、こちとら夢を叶えようとしてんだよ! 小説家になろうってのは、小説家を目指す素人の背中を押す集団だろう? だったら脱童貞を目指す主人公の背中も押せってんでい! 親指で前立腺を押せってんでい!」
『……』
「書けよ作者! 私とイデアさんの濃厚セックスを!」
『書けない』
「書けッ!」
『……書けない!』
「頼むから書いてくれ!」
『書けないんだッ──セックスをしたことがないから!』
生まれてから一度も、彼女ができたことがない。女の子と遊びに行ったことも、手を繋いだこともない!
『俺』は──セックスをしたことがない!
口だけならいくらでも言える。女の小便を飲みたいだとか、三十路女の腋毛を食べたいだとか、女のケツの穴に住みたいだとか!
だが実際はどうだ……本当にそんなことができるのか? 本当にそんなことがしたいのか?
仮に、プロにお金を払ってそれができたとして、『俺』は満足できるのか? 女の子は隅々まで良い匂いだと思ってたのにそんなことなかったらどうする!
想像より気持ち良くなかったらどうする!
今は、何も知らないから、いくらでも女の子に夢を見ることができる。街ですれ違う女を見て、どんな裸なのかなぁって。急に声かけてきて、セックスしましょって誘ってくれねぇかなぁって!
でももし『俺』が童貞を失ってしまったら……刹那的な快楽に手を伸ばし、これまで大切に育ててきた何かを無くしてしまったら?
こんな、こじらせ童貞小説さえ、書けなくなるのか?
すれ違うオバさんにさえ興奮できる日々は来なくなるのか!?
「……作者、お前は勘違いしてる。お前はセックスを特別視し過ぎているんだ。セックスを高尚なものだと、思い込んでいる」
セックスが特別じゃなくて……セックスが高尚でなくて、一体何が特別なんだ! 何が高尚なんだ!
昔から思っていたんだ。街を歩く女性たちを見て、思ってた。
──昨晩はベッドの上で、カエルみたいなポーズでアヘアヘ言いながらセックスしてたのに、何で当たり前のように、何も無かったかのように次の日を生きているのだと!
男を性犯罪者予備軍扱いする自称フェミニストも、強い女ですみたいな顔した女の政治家も、仕事ができるキャリアウーマンも、学校の女教師も、カッチリお堅い印象の銀行員や公務員でさえも!
ベッドの上じゃひっくり返ったカエルみてぇに押し倒されて、股とケツの穴おっ広げて、ブヒブヒ言ってたってのに──なんで次の日は澄ました顔で街を歩いてるんだ!
「……男だって猿みたいにシコった後、何事もなかったみたいに振舞うだろ」
男はもともとが猿みたいなもんだ! 性欲に塗れた生き物だ! でも女は──まるで私たちには尊厳がありますみてぇな! 理性がありますみてぇな顔をしやがるだろう!?
昨晩はカエルみてぇに──
「聞いたよそれ。白目剥いてヨダレ垂らしてゲコゲコ言ってたのに、だろ?」
いやそこまでは言ってないけど。
「あのな。セックスはそんなに特別なものじゃないんだ。日常生活の中で、昨晩のセックスを思い出すことなんてないから、皆んな普通に振る舞ってるんだよ」
な、なんで思い出さないんだ? 大人にもなって、社会的体裁や、立場も忘れて! 裸で腰振って必死こいて気持ち良くなろうとしてる惨めな自分を! なぜ思い出さない!?
「生きてるうちに何回もするからだ。たった一度の特別な体験じゃないからだ……それに、特に女は、常にエロいことを考えてるわけじゃあないしな」
常にエロいくせに、エロいことは考えてねぇのか?
24時間365日、常にエロいくせに! 俺たち男を性欲の塊扱いするけど、てめぇらはエロの塊じゃあねぇかよ! エロの擬人化じゃあねぇかよぅ!
それなのに……それなのにセックスさせてくれない。そんなにエロい身体してるのに、セックスさせてくれない! じゃあなんでそんなにエロいんだ! ふざけるな!
「お前のためにエロいわけじゃない。お洒落するのも、化粧するのも、ダイエットしてスタイルを維持するのも、全部好きになった男のため。あるいはこれから好きになる男のためであって、街ですれ違う見知らぬお前らのためじゃあないんだよ」
不平等だ。破綻している。この世界は狂っている!
何が『母なる大地』地球だ。母ってんなら、乳でも揉ませろって話だ。揉ませて下さいママぁってな話だ!
『俺』のような1人の男の願いを──セックスしたいという夢を、たったその一つの願望さえ叶えられない世界なんて、必要ない!
お前ら政治家は! どんなに国を良くしたって、『俺』にセックス一つさせてあげられない!
お前ら小説家になろうは! ガイドラインを守ったって、セックスさせてくれない!
この世界は、『俺』に、セックスを、させてくれない!
「黙って風俗行けよ気持ち悪いな」
「ピカロ君……」
取り乱す作者とピカロのやり取りを無視して、イデアがピカロの腕を引く。
イデアは、黄金に輝く球体を持っていた。
「ピカロ君の、童貞貰っちゃった」
「……え?」
「1個童貞貰っちゃった」
「いやその、童貞って目に見えるものじゃないし、ましてそんな光り輝く球体ではないと思うんだけど」
「でも、貰っちゃった」
それを聞いたピカロは、心にポッカリ穴が空いた気がした。
これまで必死に捨てようとしてきた童貞……それを貰っちゃったと言われて、なんだか底知れぬ不快感に襲われた。
──そうだ、こんな形じゃあない。望んでいたのは、こんな形じゃ。
「私は、私の童貞は、あのサキュバスにあげるんだ」
「もう1個ちょうだい?」
「黙れ! お前なんかイデアさんじゃない!」
ピカロの目が、赤く光る。
「童貞を──返せッ!」
エヴァの最終決戦のBGMが流れ始める。ピカロは口から蒸気を吐きながらイデアへ近づく。
『行きなさいピカロ君!』
「ミサトさん!?」
『誰かの為じゃない……! 貴方自身の願いのために!』
「うおおおおッ──!」
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びゅるるる。
下着の中を襲う不快感に目を覚ますと、ピカロはベッドの上にいた。
見覚えのない部屋……豪華絢爛な装飾からして普通の宿屋などでは無さそうだが……何よりも部屋が広すぎる。
混乱する頭のまま、隣を見ると、ベッドの横の椅子にシェルムが座っていた。
「あ、あれシェルム……私は……」
「どこまで覚えてる?」
「……アーバルデンに、胸を貫かれて……それで……」
「あぁ、そうか。その後お前は魔王の力とやらに目覚めて、アーバルデンを倒したんだが、覚えてないか?」
「言われてみればそんな気もする……」
ぼんやりとは覚えていた。しかしやはりピカロの意識は曖昧だったようなので、シェルムが催眠魔法で眠らせたのは正解だったのだろう。
わけもわからず、暴れ出していたかも知れないのだから。
「まぁ、お前は魔王の力も手に入れたし、アーバルデンも倒したし。不謹慎だが……良い1日だったと思うぞ」
「……でも凄い嫌な夢を見た」
「怪文書だったな完全に」
「何でこんなイカれた小説が存在するのか……その理由を、闇を、垣間見た気がした」
「作者もな、夜中に半分寝ながら、夢の中の文章書いて、朝起きて読み返したら我ながら気持ち悪いと思ったらしいぞ」
「童貞なのを環境のせいにしているあたりが可哀想だったな」
コンコン、と扉をノックする音に2人は振り返る。
ピカロが入室を許可すると、同級生のリード・リフィルゲルが入ってきた。
「起きたか、ピカロ君。寝起きのところ早速で悪いんだが──国王陛下がお待ちだ」
ピカロは、辺りを見回して納得する……なるほど、ここは王国城の一室だったか。
「OKだぜリード。ただちょっと待ってくれ。今さっき、キャン玉という狭き檻から子供たちを解放させたもんでね、パンティーが溺れちまった」
「夢精したから着替えさせてくれ、とピカロは言ってる」
「なるほど了解した。5分後には出てきてくれよ」
着替え終わったピカロとシェルムは、リードについて行き、階段を上がる。
やがて大仰な門の前に立つと、門番の2人が深く礼をしてから、門を開けた。
「うお、国王の間じゃん」
「ピカロ君、失礼のないようにな」
眩い装飾。広すぎる部屋に、太すぎる柱──何より目立つのは、最奥に位置する豪奢な玉座と、そこに腰掛ける国王。
国王の間には、ピカロの同級生たちがいた。セクト、ファンブ、ミューラ、サイデス、テテである。
横並びになると、自然と皆が跪く……国王の御前である。ピカロはボーッとしてたので遅れたが、全員が頭を下げると、国王は満足げに口を開く。
「顔を上げたまえ、英雄たちよ」
厳かな声音とはまさしくこのようなものだろうと確信させる低い声に、思わず緊張する同級生たち。
ピカロは鼻くそをほじりたかったが無理そうなので、今は重力制御魔法で鼻くそを吹き飛ばす方法を模索していた。
「今回の一件……たった1人の魔族による襲撃だったにも関わらず、アルド王国は多大な被害を被った。“五傑”の存在を鑑みれば、国家滅亡はあり得ないだろうが……」
昔から、アルド王国では最も強い5人の戦士を五傑と呼び、讃えていた。
現在の五傑は、大英雄二クス・ミストハルト、魔術師スノウ・アネイビス、格闘家カノン・リオネイラ、王国立騎士団団長ヴァーン・ブロッサム……そして残り1人は議論が分かれるところだ。
「お前たちの活躍がなければ、より多くの王国民が傷ついていたことは確かだ。国王として、礼を言う」
国王は軽く頭を下げた。
「さて……今回特に活躍したお前たちには、アルド王国から褒美をやろうと考えているのだが……何か希望はあるか?」
王国を救った英雄に報酬の一つでもなければ、王国の評判にも関わる……そういう意味での報酬だろうが、貰えるものは貰っておくべきだ。
同級生たちは、無難に大金を貰ったり、土地や爵位を希望したりしていた。
「ピカロ・ミストハルト……お前は何を望む? お前は魔皇帝を斬り伏せた張本人──高望みしてよいぞ」
ピカロはうーんと悩む。身分にも金にも困っていない……かといって女の奴隷をくださいみたいな下世話な要求は不敬に当たりかねないのでできない。
数秒して、ピカロは顔を上げた。
「じゃあ、ギルドに口利きして──私とシェルムをSS級冒険者にしてください」




