第二十二話 労働所有
イギリスの哲学者ジョン・ロックは、所有権についてこのように説明した。
人は、自身の身体そのものに所有権を持ち、伴ってその身体による“労働”にも所有権を持つ。その労働によって手に入れたものは、その人の所有物となる。
つまりは、この世の全てのものは、まず「自然・共有の状態」であり、誰のものでもない。しかしその「みんなのもの状態」に、誰かの所有物である“労働”が介入・混入・干渉した途端、それは誰も触れたことのない共有状態から、誰かの所有権(労働)が混ざり込んだ状態に変わる。
その状態を、当該労働者の所有物となった──その人の所有権に服した、と考えたのだ。
植民地政策を正当化していたロックらしい考え方である。
──では、これを女に当てはめて考えてみる。
処女・非処女の区別は当然、男性との性行為経験の有無で判断させられる。同性との性行為によって処女性が失われるかは、人によって解釈が異なるためここでは触れないが、とにかく。
性交渉というラインを超えたか否か、で処女か否かを語るのが通常だろう。
では、その“ライン”は、果たして明確な1本の線だろうか?
一般的に、いわゆる“挿入”行為を、処女喪失のタイミングだと考える人が多い。
しかし、ちんぽを咥えながら「まだ処女です〜」と言われたら、女のこめかみにシャーペンを突き刺したくなる衝動に駆られるだろう?
男に股間をまさぐられながら、「ちんぽじゃないのでセーフです〜」と言われたら、女の踝をハンマーでカチ割りたくなるだろう?
つまりその女が処女かどうかは、挿入の有無だけで判断すべきではないのだ。後ろの穴ならセーフとかも認めないからなぶち殺すぞ貴様ァ!
……とにかく。ジョン・ロックは、誰かの所有権(労働)が混ざり込んでしまったものは、「誰のものでもない共有状態」から「その労働者の所有状態」になると考えた。
では、処女という共有状態に、一体、どの程度の「男という要素」が混ざり込んだら、非処女状態になるのだろうか。
手を繋ぐ? キス? 互いの裸を見る? 裸で抱きしめ合う? 互いの性器に触れる? 挿入以外の性的な行為? 挿入を伴う一般的な性交渉?
まるで、「どこからが浮気になるか」みたいな線引きとも繋がりそうではあるが、いずれにせよ処女・非処女を分けるラインは人によってまばらで、かつわかりやすく明確な1本の線では区別されていないのだ。
さて、ここで思い出していただきたいことが2つ。
1つ目は、無能貴族(仮)の第五話『黒女尻穴』での、ピカロの発言──宗教上の理由で、非処女とは会話禁止なんですよ。
『黒ギャルのケツの穴舐めたい教』に属するピカロは、非処女を忌み嫌う。実際には、街で買い物するにも、非処女に話しかけないという制限は大きすぎるので、実際ピカロは非処女と会話自体はしている。
しかし、彼女にするなら、その相手は処女でなければならないと考えているし、それだけは絶対に譲れないのだ。
そんな彼が今、想いを寄せている相手──イデア・フィルマー。
思い出して欲しいことの2つ目は、第十四話『堕天願望』での出来事──イデアは、仮面の男によって、恐ろしいほどの強大な力を与えられた。
どんな方法だったか、覚えているだろうか? 覚えてるわけないので説明すると、仮面の男はイデアの右目に指を突っ込み、掻き回した後、その指から右目へ力を流し込んでいったのだ。
ゆえに、(気づいていないだろうが)イデアの右目が赤黒く光る描写や、校舎裏でのシェルムとの敵対シーンで、右半身だけ黒く染まったりしていた。
要するに、身体の半分は人間ではないということを伝えたいだけなのだが、それはともかく。
“男の指を目に突っ込まれて掻き回された”というイデアを──処女と呼べるだろうか?
いやいやお前そりゃ言えるだろ童貞だからそういうのに敏感になってるんだって! と思うクソ野郎は今すぐにブラウザバックしてからちんぽの尿道の割れ目の所に画用紙を挟んで、シュッ! っと思い切りスライドしてしまえばいいのに──想像するだけでゾッとするよね。
と、に、か、く。少なくともピカロ・ミストハルトが、そんなイデアの経験を知ったらどう思うのかが問題なのだ。
非処女を忌み嫌うピカロが、片思い中のイデアに非処女性を感じてしまったら。
──そんなことを、シェルムは考えていた。
ようやく、ヒロイン候補として登場したイデア。別に無能貴族となるために、恋愛が必要かと問われれば、そんなことはないのだけれど、守るべきものがあるかないかで、特に男は変わる。
そういう意味では、ピカロに彼女がいても、悪くはないとシェルムは考えているのだが──実際は既にイデアは仮面の男に恋をしていて、ピカロなどどうだって良いこともシェルムは知っている。
だから結局、イデアが男に目を弄られたことに関しては、言おうが言わまいが、どうせピカロとイデアは結ばれない。
ジョン・ロックの思想を引き合いに出すまでもなかったのだ。
しかしここまで考えてから、ようやく、シェルムは気がついた──気がついてしまった。
──非処女を嫌うピカロが、サキュバスとの再会を求めるこの物語、破綻していないか?
あの日、ピカロのもとに現れたサキュバスは、まだ処女のサキュバスだった、なんてことはもちろんない。幼女サキュバスとかならまだしも、普通に大人のサキュバスだったのだから。
つまり、この物語の最終目標であるピカロとサキュバスの再会において、ピカロの処女厨設定が邪魔になるのだ!
しかし第五話『黒女尻穴』は気に入っているので修正したくない!
そうしてシェルムは、読者の記憶を消す魔法を使うのだった──。
(つまり矛盾するけど許してねって話♡)
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「おーい、そろそろ3位決定戦始まるぞシェルム。どうした、ボーッとして」
「ん? ああ、ちょっとジョン・ロックの労働所有説について考えてた」
「何か難しそうなこと考えてるな……」
決勝戦を終えた2人は、在校生用の席に戻り、これから始まる3位決定戦を見届けようとしていた。
一応、前回シェルムはピカロに負けてステージに倒れ伏してはいたが、別に気絶していたわけではない。
そもそも剣で斬り合ってるようなやつらが、筋肉バスターだけで意識を手放すはずがない。
ピカロとシェルムの“特異性”を、観客や学園側に対して見せつけてから、それっぽく負けた演技をしただけである。
少なくとも、現時点において、シェルムはピカロよりも遥かに強い。
おそらくスノウ学園長あたりは、シェルムが気絶したフリをしていることに気づいていたかもしれないが、観客たちはピカロの勝利を確信し、大いに盛り上がっていた。
もともと、大英雄ニクス・ミストハルトの息子がいるらしいという噂を聞きつけてこのトーナメントを観戦しに来た客が大半だったため、その大本命のピカロが優勝する展開は大勢の琴線に触れたのだ。
大盛況、という意味では良いことだが、その反面──既にピカロの全試合が終わってしまったために、3位決定戦を見届ける律儀な観客はそこまで多くなかった。
結構な人数が帰ってしまったので、何だか静かな校庭。ピカロとシェルムの激突で完膚なきまでに破壊されたステージの修復も終わり、ようやく、今回のトーナメントの最終試合。
1学年から生徒会に入れるのは3人までであり、そのうちの2人はピカロとシェルムで確定。残りの一枠を争う3位決定戦が始まるのだ。
「すっかり夕方になってしまいましたけれど、これでようやくトーナメントも終わりです! いざ、最終、3位決定戦! 騎士科1年リード・リフィルゲルVS魔剣士科1年イデア・フィルマー!」
若干の疲れを滲ませる生徒会長、ザイオス・アルファルドが枯れた喉を震わせる。
今日1人で司会進行、実況、解説をこなしてきた疲労が隠しきれない様子だ。
「さぁ、これも注目の対決ですね! まず騎士科のリード選手ですが、騎士科とはいえ、基本的な魔法なら授業で習いますし、特に身体強化の魔法なんかは剣と相性が良いので使っても良さそうなんですけどね、彼はこれまで一度も魔法に頼ることなく、剣の腕だけでここまで登り詰めてきた逸材です」
別段、リードも魔法が使えないわけではない。彼が入学したのは魔法学園であるから、必修で魔法を学んでいるのは彼も例外ではない。
リードとしては、魔力が切れた時、本当のピンチに陥ってこそ、本来の自分自身の強さが必要になるため、極力魔法には依存しないようにしているのだ。
「対するイデア選手は、魔剣士科にもかかわらず、まだ一度も剣を抜いていません。どうやら剣が使えないらしいですが……なぜ魔剣士科を選んだのでしょうか?」
イデアは、不正入学の罪悪感から、専攻する学科を選ぶ際、自分のためになる学科に行きたい! というような気分になれず、なんとなく、自分が立っていた場所と最も近かった学科の列に並んだのだ。
そういう意味では、入学者30人のうち、10人が魔術師科、10人が騎士科、8人が魔剣士科の列を成していたから、キリをよくするために魔剣士科を選んだピカロ、シェルムと大差ない。
なんとなく──それに尽きる。
イデアは武器屋の娘だが、武器に関して造詣が深いわけでも、武器の扱いに長けているわけでもない。
記念受験というか、誰しも憧れるアルド王国立魔法学園の入学試験を体験してみたかっただけであり、たまたま合格してしまったが、特にやりたいこともないのだ。
無論、人並みの承認欲求もあるし、誰かに恐れられるほど強くなってみたいなどという想像はしたことはあるけれど、実際にそうなりたいと願っていたわけでもない。
しかし今は違う──負の感情に蝕まれていたイデアの心を救ってくれた仮面の男のために、強くなると決めた。
仮面の男のために生きると、決めたのだ。
それはイデアの言うように恋愛であり憧憬で、シェルムのいうように保身であり諦念。
人智を超えた強さに惚れ、憧れ──人ではなくなった自分の居場所が欲しくて、これまでのイデア・フィルマーであることを諦めた。
しかし理由など何だっていいのだ。イデアからすれば、大した目標もなくダラダラと生きていた人生に、やりたいことが見つかった──そのことに意味がある。
自分が間違った道に足を踏み入れたことを自覚し、その上でもう一方の足も突っ込んだ。
後戻りはできないし、するつもりもない。
そんな彼女の決意に水を差すとすれば、別に強くなって目立ったところで仮面の男が再びイデアの前に現れるとは限らない、ということ。
限らない、というか、そもそも「強くなったらまた会おう」という類のことを言われたわけではないのだから、再会自体、イデアの勝手な願望だ。
勝手に執着している、という点は、ピカロのサキュバスに対するそれと同じだけれど。
エロいことをしたいから魔界まで追いかけてサキュバスと再会しようとしているピカロと比べれば、恩返しも含めて仮面の男の力になりたいから再会を望むイデアの方が美しくはある。
いずれにせよ身勝手な片思いだ。
「さぁそれでは始めましょうか。両選手向かい合ってください、いきますよ──試合開始ィ!」
本日最後の開幕宣言に喉を使い切るザイオス──試合終了を告げるのも、その後の解説も彼の役目なのだが、もはや疲れで脳が回っていないらしい。
──試合は一方的な展開で幕を開ける。
相変わらず剣を抜かないイデアの猛攻。鋼より遥かに硬い身体で、人並み外れた力を行使する。
対するリードは剣で防ぐ──少女の素手の攻撃を剣で防御する、というのもおかしな話だが、実際、今はイデアの全身が剣を上回る危険性の塊なのだから仕方ない。
──イデアは、Bブロック決勝戦でのシェルムとの試合で、通常の見た目を保ちながら、しかしギリギリまで魔力を解放する感覚を掴んだ。
一歩間違えば、右目は紅く灯り、右半身は黒く染まりかねないが、その瀬戸際を見極めた。イデアの細い腕は今、悍しいまでの魔力によって強化された殺人兵器である。
もはや身体強化魔法のような、元々のスペックに加算していく形ではなく、イデア元来のスペックが桁外れなものに変わったわけだ。
魔法によって強化されたわけではないので、魔法の効果時間や魔力切れを心配する必要もない。
イデアは今、素材のまま強いのだから。
「……凄まじい力だな! 君も身体強化魔法を使うのか!」
「……」
防戦一方に見えるリードだが、話しかける余裕はあるらしい。
何にせよ、力の正体を教えてやる義理もないので、無視。
人の域を超えた速度と威力による、攻めの圧力──しかしそれは、通常時のピカロほどではなく、ゆえにそのピカロを上回ってみせたリードからすれば、
「強いけど、弱い!」
──だ、そうだ。
ギラリと光る刀身が滑らかに肉薄、間一髪、上体を反らして回避したイデア。
「お、今のを避けるのか!」
感触なく振り抜いた剣を見て驚くリード。
一方のイデアは、先ほどまでイデアの攻撃への対応に追われていたリードが当たり前のように致命傷クラスの攻撃を挟んできたことに驚いていた。
前述の通り、イデア・フィルマーは、これまでの全試合──特にシェルムとの戦いを経て、進化を遂げた。正確には進化というよりも適応なのだが、とにかく。
力の加減と使い方を覚えたイデアは、トーナメント開始時よりも遥かに強い。
しかし対するリード・リフィルゲルは──目覚めた。
自分には才能がない、ゆえに弛まぬ努力を重ねるしかないと信じ続けていたリードが、ピカロとの戦闘で、天賦の才を自覚した。
重要なのは、リードは才能に慢心するような心の持ち主ではないということ。
あくまで、“一般人”の領域を磨き続けた剣技──それでもリードほどに極めれば、大天才ピカロの剣撃をギリギリ凌ぐことを可能にする。
しかしそこから一歩先。ピカロの上をいったあの一撃で掴んだ感覚。
ゲーム的に言えば、進化前のレベル上限に達した後、進化後のレベル1から始めるようなもの。
リードは新たに持ち前の努力を注ぎ込む対象を見つけ出した──自分の才能という対象を。
「過去の研鑽が水泡と化したわけではないが、また1からのスタート! 俺はまだ強くなれるということがわかっただけでも、このトーナメントに参加してよかった!」
いずれリードと対立することになる魔族側からすればとんでもない最悪の事態だが──人類側のスーパールーキーの成長は、まだまだ止まらない。
「……参加賞で満足してるなら、その程度」
「ん? 何を言ってるんだイデア君! 俺の目的は初めから一つ! 生徒会長になることだ!」
「……そう」
負の感情に溺れ、悪しき力に頼ったイデアにとって、いささかリードは眩しすぎた。
なんとなく不快感を感じたイデアは、一気に勝負を終わらせるため、少し枷を外す。
魔力解放──多少見た目に影響があるかもしれないが、一瞬ならばバレないだろう。
「これで終わり」
赤黒い粒子を纏い、瞬間移動──振りかぶった拳をリードの顔面へ。イデアが地面を蹴ってからここまで1秒足らず。
でたらめな速度──だけれども。
「ピカロ君の剣の方が、ずっと速い!」
瞬きせず、その眼球でしっかりと迫る拳を見つめ、上体を斜めに反らして避けつつ、流れるようなカウンター。
イデアを襲った必殺必中の一振りの気配は、濃厚な敗北の予感を焚き付けた。
無論、今のイデアに刃など通らない──この一撃は剣による打撃攻撃に成り下がるだろう。
しかし直感でわかるのだ、“これ”はやばい。
──突如、意識の空白を縫って現れた窮地に、身体が勝手に反応してしまう。
イデアは無意識に、魔法を放った──その殺傷性の高さゆえに試合では使用禁止を言い渡されていた魔法を。
漆黒の光線が、折り重なり、破壊の柱となってリードへ向かう。
断言しよう──至近距離でのこの魔法は、回避不能であり、かつ、必ずリードの命を奪う。
対するリードは、ほんの刹那、寒気のような違和感を感じていた。それが死の告示だとは気づかない。
頭のイカれた殺戮ビームが、リードの心臓を貫いて──
「──刻司」
刻を司る古代魔法が、世界から色彩を奪った。
白黒の“止まった”世界を、ゆっくりと歩く男。
ステージに降り立った男は、死の針を突きつけられた少年を抱え上げ、離れた場所へ。
「この魔法光線……初見では対応できなかったが、さすがに2度も見逃す私ではない」
風の吹かない空間を移動したので、乱れてはいないが、一応白髪を整えつつ、髭をいじり、呟いた。
──スノウ・アネイビス。
現代魔術師の頂点の後ろ姿を見て、この空間で唯一動けるシェルムは、スノウ学園長に気づかれない程度の小声を口の中で噛み潰す。
「……想定外の怪物が人類に紛れ込んでやがった──あの人、僕の次に強いんじゃないか?」