83. 誰にも言わずに
テントの外に出てみると、体がひと震えするほど気温が下がっていた。
集落からは灯りが消え、酒を飲んで道端で寝入っている老人以外は人気がない。
テントから出て行く真新しい足跡が、まだ残っていた。
集落の外、砂漠まで続いている。俺はその跡を追って歩いた。
空には綺麗な満月が出て、星が眩しいほどに瞬いていた。
やがて、砂の山の頂点に人影が見えた。
月が背後にあるせいで逆光になって顔は見えなかったが、そのシルエットでトリスタだとすぐにわかった。
すらりとしなやかで、敏捷な動物のような肢体。
そして……彼女の目の前には、大きな翼を広げた悪魔がいた。
俺は身を固くする。
悪魔、と思ったのは第一印象でだが、しかし体のあちこちが尖って角状になり、背にはコウモリのような大きな翼を持ち、腕も脚も細くしかし木の枝のように固く節くれ立っている。
おそらくは、魔族の者なのだろう。
何をしているのか。トリスタを襲おうとしているのか。
しかし彼女も、イネルと共に戦ってきた人間、並大抵の魔族なら一人でも打ち倒せるだろうと思うが。
それ以前に、トリスタはなぜこんな時間に一人でこんな場所に出てきた挙句、魔族と対峙しているのか。
幸いにして、二人は互いを見つめていて、一向に俺に気づいていない様子だった。
遠くの砂山の上に立つそんな二つの影を見ていると、まるで奇妙な、シュールレアリズムの絵画を見ているような気持ちになった。
悪魔が、何かを話している。
しきりに口を動かしていて、トリスタはそれに聞き入っているように見える。
いつまで経ってもトリスタに攻撃する気配もない。
何を言っているのかは遠すぎてわからないが、聞いているトリスタは嬉しそうに笑みを浮かべていた。
一体、どういう関係なのだろうか。まるで恋人同士か、それとも、
「親子だよ」
唐突に隣から声がした。
驚いて見るとそこにはマヤがいた。
俺が動じてしどろもどろになっていると、マヤはしーっと口元に人差し指を当てた。
珍しく見た目通りの少女のような仕草だった。
「静かにしろ。あいつらに気づかれる」
「お……親子? どういう意味だ?」
「そのままだ。あの魔族はトリスタの父親だ」
「え?」
俺は間の抜けた声をあげた。
そしてもう一度、砂山の方を向いた。
山の頂上では、変わらず二人が向かい合って、親しげに何事かを話し合っていた。
確かに、言われてみれば久しぶりに会った親子のような距離だとは思う。しかし、
「どうしてわかる?」
「どうして? 我を誰だと思っている。人間から見れば魔族の区別などつかんだろうが、我から見ればあの親子は十分似ている」
「はぁ……そういうもんか」
「トリスタが人間と魔族の混血だということは前から気づいていたしな。あの娘が夜、全く眠らないことには気づいていたか? 夜中、グラントーマの城をうろうろ退屈そうに歩き回っているぞ」
全然。というかそんなの気付きようがない。こっちは眠っているのだから。
マヤはため息をつくと、俺の服の裾を引いた。
「さあ。気取られる前にテントに戻れ」
「あ、ああ……」
「あの娘、今までお前にすら明かしていなかったということは、誰にも知られたくないのだろう。ああいった性格の者は、秘密を知られると去っていきかねない。そっとしておいてやれ」
「……随分、優しいんだな」
「魔族にはな。人間に興味はない。半分魔族と知れば、半分程度興味を持つ。それだけだ」
マヤはそう言って、先に歩き出してしまった。
俺も、後に続くことにした。
どういう事情なのかはわからない。
本人に訊くわけにもいかないから、これからもわからないだろう。
トリスタがこの集落を去った原因も、もしかしたらこの辺りにあるのかも知れない。
今日は本当に久しぶりの親子水入らずの時間なのかも知れない。
想像することしかできない。
ただ、父親と向かい合っているトリスタの仕草は、今まで見たことがないものだった。
俺や他の人々に対しては、あくまで「トリスタさん」という言ってみれば役柄を演じているだけなのかも知れない。
彼女は俺の知る中で誰よりも、隙のない人間だ。
けれど、父親と対面する姿は……無邪気で愛らしく、まさに少女のようだった。
シルエットでもわかるくらい、彼女ははしゃいでいた。
人間と魔族の間に生まれた彼女が、おそらくそれが理由で生まれた地を去り、そして出会った勇者と共に、魔族と戦い、勝利した。
誰にも真実を伝えないままで。
果たしてどんな気持ちだったのだろう。
これもまた、推察することしかできない。
ジゼルにしろ、ココにしろ、トリスタにしろ、最初に出会った時はいかにも典型的な「女剣士」「女賢者」「女盗賊」キャラだなあ、なんて思ったものだが、当たり前だが実際はそんな薄っぺらいものではない。
生きている人間で、皆、山のように様々な複雑な思いを抱え込み、でもそれを表に出さず、懸命に強く生きている。
……では、俺は?
ふと、そんな考えが頭をよぎった。




