82. 記憶の揺らぎ
「えーっと……ちょっと待ってください」
俺は小学校の頃の記憶を一生懸命に探る。
教師の顔。性格。声。
しかし、どれだけ考えても何も出てこない。
一年生から六年生まで六人はいたはず。いくら歳をとったとはいえ、一人も思い出せないのは流石におかしい。
だが、どれだけ頑張っても何も出てこなかった。
なんでだ?
「んー。まあど忘れすることもあるでしょ」
アマクサはそんなに気にしていない様子だったが、むしろ俺の方が気持ち悪かった。
確かにど忘れはある。一人二人名前が出てこない、顔が浮かばないぐらいのことは普通にあるだろう。
しかし、誰一人思い出せないのはいくら愚鈍な俺でもおかしい。
もしかすると……前の世界の記憶が、消え始めているのだろうか。
だとしてもなぜ?
急に、俺は自分の足元が揺らぎ出すような感覚に包まれた。
「そんな気にすること? 私なんか昨夜食べたものも覚えてないですよ。興味ないものどんどん忘れてっちゃうから。学校の先生の名前なんて真っ先に忘れる対象だなぁ」
ケラケラ笑いながら、彼女は立ち上がった。
「お仲間が戻ってきましたよ」
見ると、確かにトリスタがマヤと共に、馬ラクダを二頭引いてこちらに近づいてきていた。行きに乗ったやつより随分年取ったヨボヨボの個体のようだが、ないよりはましだろう。
アマクサは、にっこり笑って言った。
「しばらくぶりで前の世界の人と話せて楽しかったですよ。もしまた会うことがあれば、話しましょう」
「あー、はい。よかったら連絡先……」
サラリーマン時代の癖で口をついてそんな言葉が出るが、俺はすぐに苦笑する。
連絡先なんて持ってない。スマホもメールアカウントもないのだ。
久々に前の世界のことを思い出していたから、ついうっかり言ってしまったのだろう。
「そう。連絡先なんてない。会えれば幸運。会えなければそれまで。シンプルで楽なもんです。でも人付き合いなんて、そんなもんで十分じゃないですかね」
それじゃ、と言って、アマクサは夕暮れに入り始めた集落の奥へと歩み去った。
ためらいも何もない、あっさりとしたものだった。
なんだか、謎めいた女性だった。
年齢もよくわからない。転移者ということは前の世界からあんな外見と性格だったということだが、だとすると前の世界でも割りと浮いていたのではあるまいか。
俺の心配する筋合いのことではないけれども。
「イネル。やっとラコルタ見つけたけどさ、ちょっともう夕方だし、今から砂漠出ると危ないから、今日はここで一泊して、明日の朝早くに出た方が良さそうだねぇ」
戻ってきたトリスタは、いつもの調子でそう言った。
この褐色のお嬢さんだけは、何があっても変わらない。
ある意味、ジゼルよりもよっぽど落ち着いているとすら言える。
こちらも考えてみれば、謎めいた女性なのかもしれない。
一見してそうは見えないだけで。
「じゃあ、今から泊めてくれる家探しに行くか」
身もふたもないだけなのか謎めいているのかわからないセクシーなお姉さんは、飄々とした顔でそう言った。
* *
十五分も経たないうちに、泊めてくれる家、というかテントが見つかった。
見つかった、というより、最初に頼んだ家が一瞬の迷いもなくOKしてくれたのだけれども。
そのテントには、八歳くらいの少年一人に老婆が一人、一緒に暮らしていた。
祖母と孫、なのかと思ったが、聞いてみると違うらしい。
何か事情があるのかと思ったが、なんでも単純に、細かいことを気にせず血縁関係のない老婆が少年を世話して一緒に暮らしているだけ、らしい。
なんだか、この部族の話を聞いていると、いちいち理由とか意味がないと行動できない自分たちが、ただ不自由なように思えてくる。
老婆も少年もすこぶる親切で、俺たちが誰でどんな事情でここに来ているのかすら聞かず、泊めて食事まで出してくれた。
申し訳ないので、少年と遊んでやったり、老婆の家事を手伝ったりしているうちに、あっという間に日は沈んで夜になった。
砂漠のど真ん中の夜は寒い。
持ってきた厚着にせいぜい包まって、テントの中でゆっくり寝かせてもらう。
マヤはもうこの旅に飽きたのか、俺に断りもなくさっさと眠りに入っていた。
俺もできるだけ身を縮めて、老婆や少年の邪魔にならないようテントの隅で目を瞑る。
数時間が経ったと思う。
夜中、俺は小の方が催してきて目が覚めた。
勇者といえど、膀胱は一般の人間と大差ない。
そういえば、前の世界で主人公にフィールド上で立ちションさせられるゲームがあったな、なんてことを思い出しながら、俺は周りを起こさないよう気をつけつつ、身体を起こした。
そして、その時気付いた。
トリスタの姿が見当たらない。




