35. 穏やかな時間
城の中庭には暖かな日差しが差し込んでいた。
長い話が一区切りつき、俺は辺りを見渡した。城の召使いや、まだわずかに残っている客人たちが、穏やかな時間を楽しんでいた。
世界は平和で、美しく、これから始まる希望に満ちている様に見えた。
すぐそばで、こんな絶望的な会談が行われているとも知らずに。
俺の傍らに立つ黒髪の少女は、その計画を語ってもなお、いたって落ち着いた物静かな様子でいた。
俺は言った。
「人間は誰も気づいていない、ということが重要なのか」
「だからそう言ったろう。真なる闇とはそれが闇であると気づかれない。絶望だと自覚できなくなってからが本物の絶望だ」
そう言いながら、マヤは中空を飛ぶ黄色い蝶を目で追っていた。まるでただの少女であるかの様に。
「お前も罪悪感を覚えず済んでいいだろう。何も民をお前の手で殺せと言っている訳ではない。
お前はあくまで、勇者らしく勇猛果敢に振舞っていればいいだけだ。皆から尊敬もされるし、愛される。めでたいことじゃないか」
確かに。ありがたい限りだ。
「我は我で、表立って魔王として攻め入られることもなく、魔界は支配し、我の思うままに世界を操ることができる。
世界そのものも、以前の様に魔族が勝つか人間が勝つかの存亡の危機に置かれることもない。
管理された適切な対立が続くだけだ。ある意味でこれ以上ない平和だ。
ただし。少しずつ少しずつ、長い時間をかけて気づかれない程度に人間たちの内に、魔界の勢力を広めていくがな。お前にも協力してもらいつつ。
でもそれは暴力や死の様な非日常としてではない。緩やかに、自然に、日常として、受け入れられる様に進めていく。
まるでこの日差しのごとく、魔界の力は当然の存在になっていく。
我が目指すのは、そんな世界だ」
なるほど。
俺は言いたいことが頭が破裂するくらい大量に思い浮かんではいたのだが、何も言わなかった。
言えなかった、のかもしれない。
今ここで魔王に正義感一本で反論したところで、鼻で笑われるどころか下手をすれば殺されるかもしれない。
マヤはくすりと笑った。
「先ほどは『絶望だと自覚できなくなってからが絶望だ』と言ったが……逆の話をしようか。
水を顔にかけられたり、鼻や口に流し込まれたら怒るだろうが、それは半端に水があるからだ。
周囲の全てが水になれば、それは海だ。誰も怒りはしない。
どうやって海で生きるかを考えるだろうよ。
これからは皆、幸福に生きるさ。魔王を倒した勇者様に守られて生きていくのだから。心配しなくても、幸福と絶望は両立する」
今すぐ、この魔王を俺はなんとかするべきなのだろうか?
なんとかってなんだろう。わからない。
けれど、俺の中の意外なほど存在していた正義感というやつは、今すぐにこいつを抹殺しなければならないと叫んでいた。
人間を虐殺しまくる恐怖の大魔王なんかより、今こいつがやろうとしていること、俺が片棒を担ごうとしていることの方が、よっぽど恐ろしい。
魔王は、「悪」を敵対するものでなく、内在する当然の存在にしようと企んでいるのだから。
しかし、今の俺はあまりにも非力で、何もわからず、何もできず。
ただ黙して、魔王の言葉を聞くことしかできなかった。
城では、穏やかな時間がただ、流れていた。




