101. 逃走
俺は今、誰もいない海辺の洞窟の中で暮らしている。
たった一人で。
グラントーマ城からはかなり離れた土地の海岸沿いにあるこの決して大きくない穴にたどり着いたのは、王位継承の儀から逃走して二日ほど経った頃だった。
普通に浜辺を見て回っていてもまず見つかるはずのない、陰にある入り口の小さい洞窟である。
俺は釣竿を作り、服の糸をほぐした釣り糸を使って魚を獲ると、魔法で炎を起こして焼いて食べている。
夜になると近隣の森に出て、木の実を集め、動物を狩って持ち帰る。どんな魔物に襲われても全く問題のない身体で助かった。
洞窟の中では、日中はひたすら静かに過ごし、もっぱら考え事をしている。
これで良かったのだろうか、いや、良かったと思うしかない。
答えのない問いかけを自分に繰り返していた。
自分でも意外なほど冷静な気持ちだったが、少なくとも「魔王に支配された勇者」という最悪の存在になることは避けられたのだから、喜んでおいた方がいいのだろう。
そう思いたい。
これから先、どうするべきか。
危険があるとすれば、俺を利用するという手段を失った魔王が、本性を現し再びこの世界を闇に堕とそうとする時だろう。
その時は……俺は、どうすれば良いのだろうか。
味方がいなくなった俺に、果たして何ができるだろう。
暗い洞窟の中で炎を見つめながら、俺は考えに身を委ねている。
* *
王位継承の儀の日、山から降りてきた俺を待っていたのは、案の定の面罵の声だった。
「おい! ありゃどういうことだ!」
「に、偽物なんですか!?」
「説明しろ! 何か言ったらどうなんだ!」
俺の姿が目に入るや、そんな声を投げつけてきたのはあれだけ俺を応援してくれていた城下町の人々だった。
いや、もちろん俺も彼らを責める気にはならない。
やはり、あの女神の声は、山麓にいた人々の元にも響いていたのだ。
一瞬にして俺が偽物だと見抜いた女神がどんな存在の何者なのか、未だに全くわからないが、彼らはなんの疑問もなく、彼女の言葉を信じている様子だった。
好都合といえば好都合かもしれない。
群衆に取り囲まれそうになった俺に真っ先に近づき、
「静まれ!」
と一喝したのはジゼルだった。
ジゼルは俺の耳元で、素早く囁いた。
「……グリンファルは勇者の守りとなるときに、その魂と繋がりを持つようだ。先ほどココが、そう言っていた。お前が転生して入れ替わったときに、イネルの魂は身体を去っている。それでこの山の精霊にも気づかれたのだろう」
「勇者殿!」
重苦しい声がジゼルの向こう側から飛んできた。グラントーマ王だった。
狼狽と怒り、不安がその目に浮かんでいた。
「その姿はどう見てもワシの知るイネル殿。だが、精霊は別人だとのたまう。どういうことか教えてくれ! 精霊が言ったことは……本当なのか」
ヒゲモジャの顔で目を血走らせてそう言われてしまうと、俺としてもいい加減な返答はできなかった。
俺は答えず、俯いていた。
そんな様子を見た王は、意味を察したのか次なる言葉を飲み込んだ。
激しく首を左右に振り、吐き捨てるように、
「残念だ!」
と言った。
王の周囲にいた、俺に儀式の全容を教えてくれた学者連中が困惑して王に尋ねる。
「しかし陛下、偽物だとするとあの方はいったい……」
「それを調べ確かめ、ワシに報告するのがそなたたちの仕事ではないか」
王は今までになく重い口調で言った。
「別人に入れ替わったか、身体を乗っ取ったか……聖山の精霊が告げるからには事実に間違いあるまい。必ずや真実を突き止めよ。そして……本物の勇者殿を見つけ出すのだ」
続けて、兵士たちに向けて、
「何をしておる! この偽の勇者を捕らえんか!」
と声を荒げた。
言われた兵士たちはじりじりと俺に近づいてくるが、彼らは俺の力をよく知っている。
迂闊に手を出せばえらいことになるとわかっているので、お前がいけよいやお前がいけよ、と肘でつつき合っているような状態だった。
俺は深く息をつくと、その隙を見てすかさず、
「モートゥス!」
と叫んだ。
瞬間、俺の身体は宙に浮かび上がり、周りが掴みかかる間も無く天高く飛び上ると、山の麓から姿を晦ました。
これは過去に一度行ったことのある街や建造物に移動できる呪文なので、誰にも俺がどこへ向かったか特定できないはずだ。
飛ぶ瞬間、人の群れの合間にいたココと目が確かに合った。
彼女は、ひどく傷つけられた目をしていた。
* *
俺はまた、深々とため息をついた。洞窟に来てから、定期的に嘆息している。
人生に疲れた老人のような気分だった。このまま老人になるまで、ここにいることにしようか。
せっかく転生してきたのに前の世界よりも悲惨な生涯を送る羽目になりそうだが、これで世界を平和に導けるなら悪い話ではないだろう。
すると、洞窟の入り口から能天気な声が聞こえた。
「おーい。元気してるかぁ」