100. 女神の言葉
《初めまして、勇者》
と、その耳の奥深くまで乗り込んでくるような深い、女性の声は言った。
脳の中で響いているような感覚があった。優しい声、というのとも違う。絶対的に逆らうことのできない母親のような声、という印象だった。わかりにくいけれど。
たった一人、山の頂上にいる俺は頼るあてもなく、ただ「はい」と答えた。
見回すまでもなく、山頂に女性なんていないし、そもそも人間の声とはとても思えなかった。
しばらく沈黙が続いたので、
「ええと、神様ですか」
と俺はアホみたいなことを尋ねた。でも他に表現しようがない。
あいにく俺の質問が頭悪すぎたのか、神様的存在からの返答はなかった。
《そなたの名は》
「……イネル、です」
《嘘偽りなく、か》
「……はい」
俺は、若干の緊張の中でそう答えた。今、何を試されているのかわからなかった。
声の主は、続けて尋ねた。
《そなたに、王家を継ぐ資格はあるか》
「……わかりません」
俺に訊かれても、というのが正直なところだ。というか、この声の主が決めるものではないのだろうか。
《そなたでないなら、誰なら王に相応しいか》
だんだん、心理テストにでも答えているような心地になってきた。
誰が相応しいかと問われれば、俺は本物のイネルだろう、と思う。言えないけれど。
とにかく、答えられることは全て正直に答えることに決めた。
「相応しいのは……俺以外に大勢いるんじゃないでしょうか」
ジゼルだっていい。フィオナ姫でもいい。
人に慕われ、その資格を持つ者は他にもいるだろう。俺ではない。
《何ゆえ、そなたは王に相応しくないと思うか》
「……」
答えようがなかった。
《そなたは王になりたいか》
「……なりたく……ありません」
この後に及んでみっともないことこの上ない。まるで反抗期の子供みたいな答えだ。
《良かろう。だが、決めるのは私だ》
声は急に、そんな自我を持った言葉を吐いた。
そして次の瞬間、巨大な女神様の姿が、山頂に揺らぎながら現れた。まるで彫像のように表情が感じられない、生気のない相貌をしていた。俺は思わず、たじろいだ。
《そなたの望みは理解した。そなたには、望みがない。そなたはただ、今そうして生きることに精一杯で、この世界に負い目を覚えている。そなたは己が何者でもないと感じている。そなたは己が偽りだと思っている。そなたは何も望むべきではないと考えている。
小さき者どもよ。聞くが良い》
女神がそう言った途端、その深い声はさらに大きく、この世界全体に広がるような力を備えた。山の麓に集まる王国民たちにも、十分に届いたことだろう。
《己に不足を覚え、己の未熟に絶望する者は、王にふさわしい。己を強者とも、正義とも思わぬ者は、王にふさわしい。己の望みのなき者は、真に王にふさわしい。私はこの者に、王の資格を与える。
しかし、この者の供えしグリンファルに、この者の魂の欠片は込められておらぬ》
え……?
山の四方に響き渡る声は、宣告した。
《グリンファルには本来、勇者の守護として魂の欠片が込められる。だが、このグリンファルには、山頂に参ったこの勇者の魂は無い。
この者は、グリンファルを作った勇者とは別人である。どこから来た何者であるかはわからぬ。だが、本来の勇者ではない》
その上で王とみなすか否かは、民草に委ねよう。
そう、女神の声は宣言し、そして女神の姿は掠れ消えていった。
なんてことだ。
証明する方法が見つからないと思っていたが、ここにあったのだ。勇者の体の中に入っている魂が別人のものだと明言された。
証明者はこの上なく信用のおける存在。
神。
俺はくるりと踵を返すと、山道を下り始めた。
麓の人々がどうなっているかを想像しながら。