会長、トラックに轢かれても異世界には行けません
生徒会室にはキーボードを叩く音だけが響いていた。
開校当時から設置されているという、由緒正しきアンティーク・マホガニーのデスクの上、僕は広げたノートパソコンでせっせと書類作成に打ち込んでいる。
活動がそれなりに忙しいのは定数の五人に対して所属が二人しかいないからである。副会長である僕と、会長たる少女。
今日はいやに静かだな――と。心からの安堵を覚えつつ、パソコンから顔を上げて彼女の方を見やる。
艶やかな黒髪。透明感のある澄んだ肌。黒曜石のような瞳。
運動神経抜群、頭脳明晰。旧華族の血を引く名家の子女。
そんなやり尽くされたキャラ付けの生徒会長、八乙女雅は――
「ああ……異世界転生したい」
今日も今日とて、厭世的な絵空事を口にする。
彼女は深刻な異世界脳だった。
「ねえ、新明くん。あなた、異世界に行きたいと思ったことはない?」
異世界ジャンキーが僕に声をかけてくる。
会長は、小説家になろうやカクヨムから書籍化した作品は全て読んでいるのが自負だった。話を聴いている限り、未書籍化の作品ですら有名所の大概を把握しているだろう。
多少偏見はあるが、ああいう「異世界モノ」を楽しむ層として彼女のような「エリート層のお嬢様」は設定されてない筈である。にも関わらず、彼女は異世界モノを愛してやまなかった。世界は広い。
「いや、ないですね」
「私は毎日、異世界に行きたいと思ってるの」
「存じ上げております。しかし会長、控えめに言ってそれはヤベー奴だと思います」
「そうかしら? 健康な人間なら、誰でも異世界に行きたいと思うものじゃない?」
「寧ろ現実世界において不健康で不健全な人間こそ、異世界に行きたいと思ってるんじゃないですか。多くの人は現実世界で満たされてないから異世界に行きたがると思うんですけど、会長は全て持ってるんじゃないですか?」
「そんなことないわ。例えば、悪質な奴隷商人から奴隷を救ったことはないし……」
「そんな経験、あってたまるもんですか。……まあ、本当にしたいと思えばどこか遠い国に行けば同じようなことが出来るんじゃないですか……会長、立ち上がらないで下さい。今はこの書類作業を終わらせるのが先です」
「なんで私達が会報誌まで作っているのかしら? インデザインやイラストレーターくらい、ネット見ながら使えるでしょうに」
「教員の皆さんも忙しいですよ。色々仕事ありますから」
「でも……勇者も忙しいわよ」
「…………何の話ですか?」
おお神よ。悲しいことに彼女は現実と虚構の区別があやふやだ。僕の前以外ではそれなりにまともだという噂もあるので、もしかしたらわざとやっているのかもしれないが――定かではない。
「終わったわ……。新明くん、転生するわよ」
転生するわよ?
「会長、頭大丈夫ですか?」
「安心して。この間の模試も3科目偏差値は75、東大文科一類がA判定だったわ」
「それは安心しました。そのまま敷かれたレールの上を行きましょう。異世界に行かずとも幸せな人生が待ってます……会長、僕の手を掴んでどうしました? 恥ずかしいんですけど」
「転生するのよ」
「いかようにして?」
彼女は形の良い唇で、上品に微笑んだ。
「私に良い考えがあるわ」
引き摺られるがまま、校舎の外へ。 力を入れれば振り払えるのでは、と思ったこともある。だが無理だった。会長の膂力は僕を遥かに凌駕しており、一般的な男子高校生並みの力しかない僕ではどうすることもできないのだ。
連れて行かれた先には黒光りするトヨタ・センチュリー。分かり易い富裕層向けリムジンだが、僕ももう乗り慣れたものだった。
「というわけなの。セバスちゃん、宜しく」
「了解です、みやびさま」
セバスちゃんこと瀬羽翠がハンドルを握る。どう見ても小学校高学年くらいにしか見えない少女が車を運転していることに最初は違和感を覚えたが、確認したところどうやら本当に小学生らしい。
いつか聞いたら、その苗字と名前に運命的なものを感じたから執事として採用したとのこと。意味不明だ。色々法律をねじ曲げている。どうかしてるとしか言いようが無かった。翠ちゃんもどうして従っているんだろう。稼ぎがいいからだろうか。
「着きましたよ」
学校から車で飛ばすこと五分。大きな国道同士がクロスする交差点に僕と会長はいた。車通りが激しく事故が起こりやすい癖に、近くに公園の出入り口が面している難所である。遊ばせている親御さんたちは何かと目を離せない。
ブォン、と法定速度違反だろ、という速度でブチ飛ばしている単車が僕の脇を抜けていく。
「会長、どうして交差点に……なぜトラックを眺めてるんですかね?」
「轢かれる為よ?」
轢かれる為よ?
「なんで当たり前のこと聞くんだ的なオーラ出してるんです? 頭おかしいですよ会長……そして何ですか、死にやすそうなトラックを選別してるんですか」
「いいえ。冷静に考えたら……ただ死ぬパターンって、少ないじゃない? やっぱり、誰かを助けた結果として死ぬから女神様がチャンスをくれることが多いと思わない?」
「そんな気はしますけど会長ほど作品沢山読んでないので正直分からないです」
「だから……もし誰かが飛び込むようなことがあったら、それを救うのよ……そして行くわ、異世界へ」
会長は決意で満たされた。
「やめましょうよ会長。僕はともかく、会長は現実世界で普通に生きてるだけでそれなりに言い寄る男もいるしチートみたいなスキルも持ってるじゃないですか。異世界なんか行く意味ないですよ」
「あるのよ……私はもう、この腐った現世に飽き飽きしたわ」
「行った先は腐った異世界かも知れないですよ」
「そんな異世界を……私が変えるの!」
どうやらかなり強い意志をお持ちのようだ。その気持ちがどうして現世に向かわないのか、それが分からない。当初は羨みもしたが、今は違う。天才の金持ちじゃなくて良かったと、僕は心底そう思う。
「貴方には腐った現実世界を変える力がありますから……ちょっと、何で飛びだそうとしてるんですか! 考え直して下さい!」
「いつまで経っても誰も轢かれそうにならないじゃないの……!」
「そんな2、3分に一度誰かが轢かれかけるような交差点は日本にはありませんから! そういう危ない交差点があったとして、それを変えていくのが貴方の役目です!」
「旧華族の宗家の小金持ちの娘に変えられるものなんてないわ……!」
「貴方がこれだけ好き勝手やってるのに生徒会長の座に君臨し続けている時点で十二分に時の権力者じゃないですか……! 小学生に車まで運転させて……!」
必死の説得にも耳を傾ける気配はない。今日は発作が酷いようだ。
「離して新明くん……剣と魔法が私を待ってるわ……!」
「待ってないですから……! この先には棺と献花しかないですから……!」
凄い力でバタバタと藻掻く会長を、僕は必死で押しとどめる。女子とは思えない力だが、流石に彼女を見殺しにはできない。火事場の馬鹿力という奴だ。
「お触り禁止よ……!」
「不可抗力です! あと今から死のうとしてるのに気にすることじゃないでしょう……!」
「死なないわ、ちょっと異世界に遊びに行くだけ……!」
「死んで生まれ変わるから〝転生〟なんですよ!」
刹那、目の前の公園からボールが飛び出した。それを追いかける人影は――四、五歳の、女の子。
右方にはスピード無視のライトバン――。
僕が体を動かすより早く、会長が弾丸のようなスピードで道路へと飛び出した。子供を軽々と抱え上げると、迷わず真上へと放り投げる。ついでにボールも蹴り上げた。
迫る車。ブレーキは到底間に合わない。彼女はふわりと、重力を無視したムーンサルトで宙へと飛び上がった。けたたましいブレーキ音を鳴らしながら、ライトバンが会長の下を抜けていき――弧を描いて着地した彼女は、落ちてきた子供を綺麗にキャッチする。
「飛び出すと、危ないわよ」
子供を地面に降ろした会長は、ノールックでキャッチしたボールを子供の手に返しつつ笑いかける。
「……は?」
心からの声が漏れる。飛び出した瞬間こそ本気で心配したが、目の前で繰り広げられていた曲芸は何だ? 中国雑伎団にもできないウルトラCのアクロバットを前に、僕はただ呆然とするしかなかった。
「危ないところだったわ」
あやかちゃん(助けた子供)の母親の感謝の言葉もそこそこに流し、会長は速度無視のライトバンを警察に突き出していた。
「あの子は若すぎるわ。異世界転生しても、こちらでの経験が生かせないから不利だわ……スキルを選ぶときも、女神様相手に丸め込まれてしまうかもしれないし」
「そんなことを心配してたんです……?」
危険な女である。心配の方向性が斜め上だ。
「仮に飛び込んだのがうだつの上がらないオッサンだったらどうしたんですか」
「伴侶やお子さんがいるなら責任の放棄になるわ。だから確認の為にとりあえず一度目は助けるわね。天涯孤独の身なら――グッドラック、異世界でやり直すチャンスよ」
滅茶苦茶な思考回路だが、根底には真人間の心も持っているらしかった。異世界への憧憬さえなければ完璧超人なのだが――神様というのは残酷なものだ。
「でもダメね、新明くん。死の恐怖はあるもので、やっぱり体が勝手に躱してしまう」
「まあまともな人間ならそうでしょうね」
彼女は目を伏せて、小さく溜息をついた。彼女にしては、殊勝で可愛らしい素振りだ――ちらちらとトラックの方を伺いさえしなければ、もっと良いだろう。
「新明くん。私気がついたわ。異世界転生に拘る必要はないんだって」
「会長……やっと分かってくれたんですね」
「異世界転移を目指すわ」
「何にも分かっちゃねえ……」