君がいた物語
1歩、1歩、また1歩。僕は表情の違う石段を登り続ける。
南中から降り注ぐ太陽が容赦なく僕達に光を叩きつけてくる。
時に厳しく、時には暖かく―――
急でごつごつした石段を登るようになってから、どれぐらいの時間が過ぎ去ったのだろうか。
少し考えて、すぐに諦めた。
そう。それは既にわかりきった事だから。
あの時から過ぎ去った時がどれほど長く、穿たれた心の穴がどれほど大きく深いものだったのかが。
「芳隆さん?」
どうやら茫然として追い付かれたのか、すぐ近くで声が聞こえる。
目線を下げると、上目遣いの涼しげな瞳が僕を射抜いていた。
芯の強さが見え隠れした大きな瞳を、まだ僕は直視できないでいる。
「ん?なんでもないよ」
今回も視線を受け流しながら僕は改めて思った。あぁ、やっぱりこの目に惹かれたんだと。
風が流れ始め、彼女が切り揃えられた髪に手をやる。
この風の流れが止まないうちに、僕は彼女に物語を紡がないとならない。
どんな結末が待ち構えているかはわからない。幻滅されるリスクだってある。
でも、もう一人で傷を抱え込むのもやめよう。
これから伴侶になってくれる彼女の為に。今まで心の拠り所であってくれた彼女の為に。
「あのさ…」
視線を彼女に戻した。初めて僕達の視線が交錯する。
「話しておきたい事があるんだ」
初めての僕の行動に彼女は少し面食らった表情を作る。けれど、
「何?」
少し目を細めるのは彼女の興味を惹いている証拠で、どうやら第一関門は突破したようだ。
さすらう風が止まない事を心の中で祈り、僕は最初の一歩を踏み出した。
「今、向かってるのは女の人のお墓なんだ」
初めて会ったのは大学1回生で年が明けて間もない頃だった。
講義が再開されれば期末試験の概要が明らかになり、丁寧に取られたノートを貴重品として確保する競争が激化していく。
大学特有の慌しさに包まれる中、僕は争いに参加する事なく講義に顔を出さなかった。
『何だか面白くない』といった理由で前の彼女と別れて半月。
自らの欠点を自覚しているとはいえ、抉られるように欠点を言い放たれるのは流石に堪え、
一般教養の単位をかなり落としてしまうのは目に見えていた。
そんな抜け殻の僕を救い上げたのは、何の変哲もない一本の電話だった。
「ちょっと出て来いよ」
理由も聞く事も許されず友人に呼び出された僕は、神社へと伸びる石段を滑らないようにゆっくりと登っていた。
白くたなびく吐息が背後へと姿を消し、静かに舞い落ちる粉雪が肩に乗ってすぐに解ける。
登り切った境内の奥に上着のポケットに両手を突っ込んで縮こまっていた友人と、
クリーム色のダッフルコートを羽織った「彼女」の姿があった。
「後輩なんだけど、コイツ、お前の事好きらしいんだわ」
突如耳に入ってきた告白。急な友人の言葉をすぐには理解できなかった。
多分、変な顔を僕はしていたのだろう。
最初に感じたのは『戸惑い』。次に感じたのは『怒り』。殴りたくなる衝動を堪えて奥歯を噛み締めた。
こっちの気分も知らないくせにと、彼女に目を向ける。
大きな瞳に怯えの色を浮かべ、真っ赤になりながら僕を見ていた。
瞬間、不意に彼女が消えてしまう感覚に襲われた。
何故、そう感じたのかは分からない。
ただ、彼女が纏っていた精気が稀薄だった事は覚えている。
踏めばすぐに割れてしまいそうな薄氷のように何処かに危なさを含んだ『儚さ』だった。
そして、その時はどうしても、彼女の告白を無碍にする事ができなかった。
彼女はいないよりもいる方がカッコいいと思っていたから。
「傷が癒えるまでの埋め合わせ」だと、ささくれた自分に言い聞かせていた。
でも、今になって思えば、理由は簡単な事だった。
初めて会った時から、僕は「彼女」の瞳に狂ってしまっていたらしい。
はらり、はらり、はらり、
流れる時と添い遂げるように雪は地に降り立ち、静寂のカーテンに身を委ねてゆく。
そんな純白の世界の中で…幻想と現実が入り混じったような世界で…
僕は彼女と付き合う事になった。
ぱっと輝いた「彼女」の表情に僕の心がちりりと痛んだ。
「で、どんな娘だったの、その娘?」
そう尋ねてくる言葉に挑発の色が含まれている。
背中に突き刺さる視線の痛みに、早くもこの話を始めた事に後悔を憶えた。
風は流れを留めようとせず葉の擦れる音を大きくさせ、ありがたい事に僕の背中の後押しを続けてくれている。
目を合わせないようにゆっくりと石段を登り続け、じゃりっじゃりっと一定の足音が僕の影に続く。
振り返る度胸もない僕にとって、それだけが頼りだった。
「そりゃぁ…ねぇ…」
1日、1日と春の彩りが濃くなっていった。
桜の開花が遅いと言われていたが、大学の入学式が始まるのを待っていたかのように一気に花が開いた。
軽く深呼吸をしてみるも、肺を廻る冷気はすっかり身を潜めたようだった。
違う方向から華やかな歓声が飛び込んでくる。
今年も新しいスーツや着物に身を包み、新しい環境へと歩みを進める者がいた。
『期待』。未知という果実に魅せられて。
『畏怖』。未だ来ない時の奔流を恐れて。
ただ、無事に大学二年目を迎えた僕にとっては、その舞台の主役に上がる事はなく、
あれはもう1年も前だったのかと流れる時の速さに驚くだけだった。
だけど、状況が変われば、この季節も楽しいものだと痛感してしまうのは、
やはり、男としての本能がそう思わせてしまうのだろうか。
鬱屈とした気分を一瞬で変える魔法を「彼女」は持っていた。
「似合いますか?」
履き慣れていない真新しいパンプスに苦労しているのか、
覚束ない足取りでキャンパスの桜並木の中を歩み寄ってくる「彼女」。
おろしたての紺色のスーツ。淡く縁取られた水色のシャツ。
背中まで伸びた黒髪は、咲き誇る桜との調和を見事に保っていた。
僕を頼ろうとする不安気な表情に、また僕は狂ってしまったらしい。
「着せられてると思ったでしょう?」
僕の無言を滑稽だと感じたのか「彼女」は少しむくれた。
「大丈夫だって。入学したばかりじゃスーツは着こなせないって。
逆に貫禄のある人には、後輩にはなってほしくはないかな」
続けようとして、一端会話を切った。視界を暗くして記憶を辿る。
うん。確かにそうだった。
視界を元に戻すと「彼女」は首を傾げながら僕の行動を不思議そうに見つめてくる。
まともに顔を合わせられないのは、恐らく白状する事が恥ずかしくて目を合わせたくないという本音なのだろうから、今日はそれに抗わなくてもいいだろうと、視線を明後日の方向へと向けた。
「去年の僕の第一声も「馬子にも衣裳ってこういう事なんだろうな」って思ったからね」
願わくば聞き流してほしかった小さな呟きを、本音は聞き流してほしかった目論見は外れ、「彼女」はお腹を押さえて笑い始めた。
僕にしか見せない珍しい表情を、僕も嬉しく受け取りたかったが素直には受け取れずにいた。
光を湛える太陽、翳りのない空、揺れる桜吹雪。
「彼女」の笑顔、僕の拗ねた顔、周りの喧騒もここにあるというのに。
元気そうに振舞っている「彼女」の精気は薄いままだった。
その姿は、この世のものではない綺麗な幽霊のそれに近かったかもしれない。
自然とジーンズの後ろポケットに手をやっていた。
「彼女」を収めるスマートフォンが其処に眠っている。
今、この瞬間を刻み込むために、忘却の大河に流される事のないように。
「やめてください。」
はっきりとした拒絶の言葉が耳に飛び込んできた。
大きな声ではなくむしろ小さな声だったが、どうしてかその声が耳をついて離れなかった。
怒られた事に対する恐れもあったが、それだけではない印象的な声に
僕は慌ててスマートフォンから視線を外した。
「ど…」
尋ねようとした僕だけど彼女の拒む行動に二の句が告げられず、嫌な汗が体に流れた。
「別れの時がつらいから…」
下を向いた「彼女」はそう言った。
今から別れの時を考える事があるのだろうかと僕はふと思う。だけど確かにそうだった。
前の彼女と別れた直後、自分への悔しさから貰った靴も時計もたくさん飾られていた写真も全部燃やし、
無表情のまま、揺らめく朱を見つめ続けた記憶が僕の心を通り抜けていった。
物質的な物は全て排除したのに、精神という物は厄介でまだ時間が必要だったらしい。
「ごめんなさい。思い出させて」
僕の表情から読み取ってか「彼女」が心配そうな顔を浮かべた。
「大丈夫。あれも経験の一部だよ」
「彼女」を不安にさせまいと明るい表情で取り繕おうとしたが、上手に繕っている気がせず、
これぐらいは平気にしなければならないのに、まだまだ僕は弱い人間だと呆れてしまう。
「私なら大丈夫ですよ」
ゆっくりと微笑んで「彼女」は僕に歩み寄ってくる。
言葉を失っている僕にぶつかる寸前で、彼女は回り込んで僕の左腕にスッと腕を絡めてきた。
「私から好きになったんですから、貴方が嫌いにならない限り別れるなんてしたくないです」
私は貴方に惚れているんですからと付け足して彼女は真っ赤になった。
彼女の心臓の鼓動がじんわりと僕の身体に沁み込んで傷を塞いでいく。
どうして、精気が薄いと感じたのだろう?こんなに大きな鼓動があるじゃないか。
「彼女」は、今を力強く生きているというのに…
風が流れるのを止めた事に気が付いた。
僕の目の前には、今までの苦しみを一緒くたにして放り込んだ忘却の扉がある。
扉から滲み出る重々しさは扉を開こうとする僕を怯ませる。
いつか時間がこの扉を風化させ、忘却へと押し込んでいくのだろう。
それでいいのだろうか。いや、いいわけがない。
怖さに打ち克つために、拳をきつく固める。爪が掌を捕らえ、皮膚に深い痕を残そうとする。
わなわなと震えていた右手にぽん…ぽん…と2度撫でられた感覚が訪れて、ようやく開放された。
「………………」
少し前が初めてだったのが嘘かのように、僕達の目線が重なる。何も言わなくてもいいんだという沈黙が心地いい。
ゆっくりと頷く『彼女』の微笑みは怯えていた僕の背中を力強く押してくれる。
ぽっかりと浮かんでいる雲を見据え、強張った頬を掌で2度叩く。「大丈夫」の意志を固めて『彼女』に頷きを返した。
石段の頂上までもう少し。僕は扉のノブに手をかけて一気に扉を押し開けた。
夕立の上がった夜は異様に蒸し暑かった。それしか憶えていない。
唐突に「彼女」から大規模な花火大会があるから外に出ないかと誘われた。
独り身ならば、勇んで外には出ずに空調の効いた所にいただろう。
「彼女」がいるからこそ感じ取れる楽しみに僕は胸を躍らせていた。
しかしそれは幾刻の後、悲しみへと変わる。
未来を知っているのなら、行かなかったかもしれない。
いや違う。僕はその日「彼女」の告白を聞く「必然」の中にいたのだろう。
「ほら、こっちです。こっち」
「彼女」に手を引かれ、僕は通った事のない長い登り坂を上っていった。
息が切れそうになるのを堪えながら登り切った先は、誰もいない高台で観客の喧騒も遠く耳障りにはならなかった。
「へぇ…確かに穴場だね」
友達に教えてもらったんです、と「彼女」は嬉しそうに微笑んでいた。今になって振り返れば、妙だと思わなければならなかった。少し引っ込み思案な「彼女」が珍しく積極的に僕を誘って先導する様子は、自身の精気の薄さを払拭させるための演技で、僕は単純に元気になったんだと見事に騙されていた。
「もう…2年半になりますね…」
何処を見つめるわけでもなく夜空を見上げながら「彼女」は呟いた。
「そうだねぇ…」
安穏としている僕は駅前でもらった紙製の団扇を仰いで涼を求めていた。
「色々ありましたね…」
「これからも、もっと色々な事があるよ」
「…ですね」
先程の呟きよりももっと小さい声だったが、遠巻きの雑踏に掻き消すほどの力はなく「彼女」の声は僕の耳に届く。
「3年目の浮気って歌があったんだから、気を付けなくちゃいけないね」
沈黙を恐れた僕が咄嗟に言ったのは、昔の歌謡曲のタイトルだった。
「心当たりがあるんですか?」
じいっと言葉の真意を覗き込むような少し強い視線を僕に向けてきた。我ながら失言だったと今も思う。
「残念ながら…ございません」
肩を竦めながら白状すると、もうっと言わんばかりに少し怒った微笑みを見せた「彼女」は僕に背を向ける。
冗談を謝ろうとして背中に声を投げかけようとしたが、それは寸前の所で止められた。
僕に向けていた背中が小刻みに震えている。まさかの意趣返しが来るのかと動揺で固唾を飲んだ。
こういった時の重い沈黙にも耐えられる人は本当に実在するのかと感じるほどの静けさがそこにはあった。
だからこそ「彼女」の次の告白には、普段通りの穏やかな語り口でも強いインパクトを残して僕を硬直させた。
「彼女」はゆっくり僕に向き直る。ぐちゃぐちゃに入り混じった感情を堪えようとした面持ちは今も忘れない。
そして僕に曲解を与えないように言葉を投げた。
ゴメンナサイ―――ワタシハ――――モウナガクアリマセン―――――
大きな歓声と共に、火薬の破裂音が「彼女」の言葉をかき消した。
「…えっ?」
絶句という言葉をあれほど見事に表現できた場はなかっただろう。様々な色を帯びた光が夜空を色とりどりに焼き、重低音が僕の腹の中に響き渡った。頭脳が「彼女」の言葉を変換しようと稼動する。解答を幾度も拒絶しても、該当する言葉は一つしか浮かばなかった。
「ごめんなさい。私は、もう長くありません」
僕はその時、どんな顔をしていたのだろう…自分でも理解できないほどの表情をしていたのだと思う。
「彼女」の潤んでいた瞳から『後悔』が伝って落ち、小さく震えていた肩は僕の目からも大きくなり、
堪え切れなくなったのか「彼女」の小さくしゃくりあげる声が重低音の合間から耳に入ってきた。
何時かは言わなければならなかった事実を目の前にして「彼女」も相当苛まれていたのだろう。
だが、倒れ始めたドミノは次々と倒れてゆく。誰かが止めようとしない限り。
「彼女」はどうにかして自らの身体に制止をかけて言葉の投石を続けた。
「気付いたのは、私がまだ物心の付いた頃でした」
火薬の匂いが風に乗せられ僕達を包み込んでゆく。
「ちょっと先の未来を夢の中で覗く事が出来たんです。その夢の内容が何日後の出来事と全く同じで、
最初は、何だか魔法使いみたいで嬉しかったんです。」
その時を思い起こしたのだろうか「彼女」に微笑が浮かぶ。
「だから、夜にベッドの中に入る時は「今日はどんな冒険を私に見せてくれるのかな」って楽しみにしてました。
でも、それが望みのない世界に誘われる事を知らなかったんです」
ゆっくりと瞳を閉じて小さな両手を胸の前で組む。意図的に僕を視界から消したのだろう。
視界に僕がいると決心が揺らいでしまうから。
「今日もはっきりした夢を見ました。高い天井を見つめて手を握ってくれる男の人の姿です。
そして、その人が頷くのを満足そうに見つめてました。私がそれから先に見た夢はありません。
同じ映像ばかりが繰り返されて目が覚めます」
「彼女」が口をつぐんだ。いくら鈍感だといってもそれから先は僕でも分かった。
先に見える夢がない。それは自らの命の終わりを告げている。
押し黙ったままの僕達。立て続けに轟く爆発音が周りを騒がせ光が幾度となく空を焦がしても、それを取り払う勢いは持ち合わせていなかった。
次の言葉が出てこない。
告がれる筈の二の句が僕の中を瞬時に駆け抜けていく有様は、僕達の視界に映り込む花火に似ていた。
少しの沈黙の後再び破裂音がこだまし、火薬の匂いが漂ってきた。
沈黙は意外な言葉で破られた。僕にとっては本能が言わせた言葉で、その後少し自分に嫌気がさした。
「あのさ…僕に告白したのって自棄になったから?」
自分の『本能』をこれほど憎いと思った事はなかったが、「彼女」は表情に微笑を貼り付けた。
「開き直ったと言えば聞こえはいいでしょうけど、そうじゃないと言ってしまえば嘘です。
あの雪がちらついていた日、あのお気に入りのコートを着て、
先輩が私の隣にいて、石段を上ってくる芳隆さんが視界に入ってきた時、
夢に見た光景に重なったのと同じ光景が私の中に広がりました。
そして、最後の夢に出てきた男の人が芳隆さんだと知った時、あぁ、この人だったんだって…」
一息、そして。
「私は、もう長くない事を知っています。
だから、芳隆さんが私の告白を受け入れてくれた時に決めたんです。
貴方と最期の時まで添い遂げられるようになりたい。これが私が持っている小さな夢です」
無理をして作った微笑みの仮面に一筋のヒビが走った。途端にそれは幾重にも走り、時を待たずして壊れる。悲しみと悔しさで涙を流す「彼女」の素顔が現れ、胸の前に組んであった両手は雫を拭き取るハンカチとなった。
誰しも当然のようにあり、誰しもが叶えられている願いが「彼女」には叶わない。
それでも一途に、一分でも、一秒でもただ長く生きていたいと願った「彼女」を人は我儘と言ってしまうのだろうか…
そして僕は思う。偉そうだとは思った事だけど、
「彼女」を苦しみから解き放つ事ができるのは僕しかいないと。
「彼女」は顔を上げようとしない。泣き顔を見せたくないのだろうと思った。
「だったら、僕から一つお願いがあるんだ」
一歩、僕は「彼女」歩み寄る。そして、もう一歩。
「その夢を、僕にも見せてくれないかな?」
「彼女」と付き合うようになってから、僕が告白をしたのは初めての事だった。
冬のあの日、僕は「彼女」の告白に頷いただけで自らの心で、自らの口で想いを告げた事は照れもあってなかった。
びくっと大きく身体が動き、「彼女」が視線を僕の顔へと向くのを受け止める。
「小さな夢と君が言うのなら、僕は傍で大きくしたい。
数少ない夢だってその一つ一つを一緒に叶えていきたい。次の夢だってまた見られるさ」
僕なりの精一杯の虚勢だった。「彼女」の視線が痛く僕は脇役の花火へと目を向ける。
誰もがみんな今を笑って生きている。今だけ楽しければいいのかもしれない。
僕には理解ができなかったけれど、この時ばかりは愛しい人にただ笑っていてほしかった。
「だから、明るい未来の話をしよう。
嬉しい時は二人で倍にしよう。辛い時は僕も君の苦しみを背負うから。
頼りないかもしれないけれど、つまらない野郎かもしれないけれど、
僕は君に寄りかかってもらえるような木になりたい」
更に一歩、そしてもう一歩。「彼女」の距離は手を伸ばせば肩に触れる所まで来た。
「彼女」はその場所から動こうとはせず、それは僕にとって好都合だった。
「約束の代わりにならないかもしれないけれど…」
両手を「彼女」の肩に置きそっと唇を重ね合わせた。記念日毎に必ず交わしてきたキスの中で、
最も心に残る激しくも悲しいものになった。大きな花火に歓声が沸きあがって暫くして消えた。
どちらとなく離れた後「彼女」が僕の胸に頭を置く。
「大事にしてくださいね」
小さな「彼女」の呟きが僕の耳に届いた。
僕はというと公衆の面前で「彼女」にキスをしてしまったという事実が胸の鼓動を速め、鎮めるのに躍起になっていた。
漫ろな気持ちで僕が口にした言葉は、今も記憶に残っている。
「ま、前向きに…善処します…」
乾いた涙の跡をつけた顔のまま「彼女」は気を悪くしたのか、額で僕を小突きつづける。
心地いい痛みの中で、これが幸せという事なんだと僕は思った。
その時から、僕は「彼女」と一緒に過ごす時間が益々多くなった。
忘れたくとも忘れられない「彼女」の告白と、僕の僕なりの覚悟を守り続けるために、
「彼女」が迷惑がらない限りは「彼女」の傍にいたかったし、「彼女」も同じ気持ちだったと思いたい。
その時か何時かはわからないとはいえ、僕達は現実を生きる事に力を注がないといかず、僕達は不安をかき消すように自らの理想に向かって走り出した。
僕は、運良く採用された出版社でノウハウを学び、独立して出版社を開こうと心に決め、
「彼女」は様々な語学を学び、翻訳家になりたいと僕に打ち明けてくれた。
僕達の夢は、いつか「彼女」の翻訳した本を僕が出版する事になった。
二人だからこそ創り出せた微かな夢は、少しずつ少しずつ大きく膨らみつつあった。
夏の名残が尾を引いている10月の半ば。
「彼女」が学会の代表として翌日遠出するという話を聞き、「彼女」に会っていた。
大役を任せられて気分が高まっているのか、珍しく「彼女」が一方的に喋り僕が聞き役に徹している。
「この発表が終われば時間が空きますから、また一緒にいられますね。」
「彼女」がふわふわと微笑み、一緒にいる時だけに見せる「彼女」の笑顔の虜になった。
初めて会った時とは別人じゃないだろうかと感じてしまうほど「彼女」は元気になっていた。
「最近、本当に元気だよね」
率直な呟きに、あっ、と間抜けな声を落としてしまったが、口に出した言葉はもう戻らない。
案の定「彼女」は少しむくれた顔をする。
「もうっ。それじゃぁ、元気じゃないほうがいいんですか?」
「違う違う」
頭を掻きながら僕はどもる。僕の困った顔を見るのが好きな「彼女」は、また先程の笑顔に戻る。
「でも、本当に調子いいんですよ、私。
苦労して書き上げた論文が採用される事になりましたし。
何だか…上手く行き過ぎてちょっと怖いですね」
「いい事は、長くは続かない?」
「ですね。『人間万事、塞翁が馬』ともいいますしね」
「え?何それ?」
「中国の故事ですよ」
会話が滞る事はなく、時の流れに身を委ねたまま僕達の時間は流れてゆく。
「明日は?早いの?」
駅のプラットホームで僕達は次の電車を待っていた。「彼女」の家はここから快速列車で3つ目の駅の近くにあり、
僕は各駅列車で2駅のアパートに住んでいるので、この駅が「彼女」と別れる駅だった。
「えぇ…多分明日は始発に近い電車に乗らないといけないから、4時起きになるかな」
早起きはあまり得意じゃないんですけどね、と「彼女」は舌を出す。
「モーニングコールは、難しいかもしれないなぁ」
僕も苦笑いを浮かべる。お互い朝には滅法弱かった。深夜中原稿を書き上げる事もあるのだから弱くても当然だろう。
僕も編集作業に追われ、朝日を拝んで仕事を終わらせる事も多かった。
「んっと…いい方法がある」
「本当ですか?」
「彼女」がぱっと表情を明るくする。
「僕が寝なかったら…」
「寝てくださいね」
即座に却下されては返す言葉がない。
「確か、その日のうちに帰ってくるんだっけ?」
「出来るかぎりそうしたいと思いますけど、時間的に無理だったらメールを送りますね」
「あぁ。わかったよ」
「はい。よろしい」
そう言って、「彼女」は爪先立ちになって僕の頭を撫でる。
結構遅い時間でも主要駅のプラットホームには、疎らだが列車を待つ人がいる。
たが人がいてもいなくても、僕達の時間は場所を選ばなかった。
そして、僕達を別つ列車がプラットホームに滑り込んで来る。
頭に乗せられた手の感覚がそっと離れてゆく。どうやら快速列車のようだ。
「じゃぁ、また明後日でいいのかな?」
「メールしますから、明日でいいんじゃないですか?」
「それもそっか」
納得した僕の顔を「彼女」は見届けると、軽快に車内へと乗り込んだ。フレアスカートの裾がふわりと揺れる。
そして、再び翻して僕の方へと向き直った。言葉はないけれど、言葉にしなくても分かる言葉が僕達にはあった。
別れの扉が音を立てて閉められ、僕は敬礼のような動きで「彼女」に手を挙げ、
「彼女」も控え目ながら僕に手を振り、列車は次の駅に向けて走り出していった。
翌日は、それを更に強調するかのようなスキッとした青空が積乱雲を呼び込んだのか
ゴロッと鳴った直後からの激しい夕立が校内の屋根を激しく叩いていた。
用心を怠った学生はおろか、折り畳み傘を準備していた学生でさえ、ジーンズやパンツを濡らしながらも参考文献を雨から護ろうと躍起になっていた。
夕立だから少し待てば止むだろう。夕食の時間を遅らせればいいだけで、長引くようなら仲間と連れ立って麻雀を打ってようと暇をしている相手を求めて雑談に興じていた。それが「彼女」がいなかった頃の僕の差し障りのない日常だった。
『学会終わりました。今から戻ります。』
送られてきたメールには事務的な言葉が書かれていた。
あんまり絵文字は得意じゃないんです、と「彼女」は苦笑いしていたのを思い出す。事務的であっても、僕は「彼女」とどう明日を過ごそうかと頭を巡らせ、激しさを増してゆく雨や、腹に響いてくる雷鳴すら気にならなかった。
「彼女」にメールを返信してから、数時間経っても返事は返ってこなかった。遅くなっても返さないという事は珍しい。
しかし、あの妙な元気は疲れからくるもので、今は緊張から解き放たれて休んでいるのだろうと楽観的に思い込む事にした。
止むと踏んでいた雨脚は弱まるばかりか更に激しさを増し、ゲリラ豪雨へと化けてゆく。
雲の厚さに楽観の光は届かず、自ずとスマートフォンを強く握りしめるが、未だに来客を告げる事はない。
音楽代わりに無造作に点けられていたテレビから異様な音が聴こえた。
テレビのモニターに目を向けると、それは緊急のニュースを伝える時に流れる音だった。
『大雨の影響で崩落が発生 死者が多数発生』
「…えっ?」
どくっ!
鼓動が一度大きく波打ち、思わず手元からスマートフォンが滑り落ちたが、落ちた音は胸の鼓動であっさりとかき消されていく。
どくん――――どくん――どくん―どくん―
心拍数が時を追うごとに速くなっていくのが自分でもわかる。荒ぶる心臓を冷静になるようにと僕は小言で何度も言い聞かせる。
頭は冷静だ。だけど心は鎮まらない。
取り落としたスマートフォンを慌てて拾い上げ、傷の確認もそっちのけで操作する。
画面には「彼女」の電話番号が映し出されていた。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出す。胸を左手で軽く二度叩いて、通話のボタンに指を伸ばした。
プルルルルルル…………プルルルルルル…………
プルルルルルル…………プルルルルルル…………
無機質な呼び出し音が僕を焦らす。非常識だと怒られてもいい。ただ「彼女」の声を聴きたかっただけなのに。
だが、僕の願いは聞き届けられる事はなかった。寒くもないのに歯が小刻みに動き出す。
緊張した面持ちで、僕は懸命にニュースにテレビを合わせる。
スマートフォンは何度も「彼女」のダイヤルをコールし続けるが、何度かけなおしても返答はない。
速報から少し時間が経過し、ようやくニュースの時間帯になった。
文字だけの真実は、若干信憑性が薄く感じる事がある。だけど、僕の目に飛び込んできた映像は、
現実にその場所で起こっている事を明確にかつ鮮明に映し出したものだった。
一瞬、僕はそれを映画のCGじゃないのだろうかと感じた。
映画で表現されるような光景だなと感じていた。
大雨を吸ってぬかるんだ斜面からの地滑りによって巨大な岩が道路の上に転がっていた。
その岩の下には、原型をとどめていないバスが潰れていた。
まさか………まさか………!
膝が激しく笑い出す。激しい運動などしていないのに呼吸が荒くなる。
スマートフォンに目を向けると『呼出中』から『通話時間』へと表示が変わった。
「もしもしっ!」
荒げる声をそのままに僕は耳につける。返ってくるであろう「彼女」の声に望みを寄せて。
一縷の望みはいとも簡単に断ち切られてしまった。
「貴方は、この電話の方のお知り合いですか?」
「彼女」の電話番号から聴こえてきたのは、ややトーンの低い男性の声だった。
それが僕を強制的に現実へと追いやっていった。
「被害者の方の持ち物から呼び出し音が鳴っておりましたので…」
その言葉が聞こえた時、唐突に僕は電話を切った。次の言葉は聞きたくなかった。
時を待たずして携帯電話が震える。かけ直してきたのだろう。無視するわけにもいかずに通話のボタンを押す。
「あぁ、よかった。こちらが切ってしまったものかと…」
先程の男性の声だった。もう一度切ってしまうのは流石にバツが悪い。
「お気の毒ですが…」
その後の記憶はぷっつり途切れており、今も覚えていない。
19時の時報で記憶が呼び戻された。死亡者の名前が淡々とニュースキャスターによって読み上げられてゆく。
3枚目の4番目の所にカタカナで表記された名前、それが「彼女」の名前だった。
事故で負傷した人々は一箇所の病院で受け入れるらしく、僕が病院へと駆けつけた時、院内は異様な雰囲気に包まれていた。ロビーで止血の手当てをしている女性の看護士。苦しそうに呻きながら担架で運ばれてゆく人。戦争の経験がない僕にとって、野戦病院のイメージに近かったかもしれない。
「彼女」の名前を告げると、看護士は悲しそうな面持ちを浮かべた。
連れられて僕が着いた先は隣接していた公民館だった。すすり泣く遺族の姿が僕の目に重々しく映る。
「崩落事件 遺体安置所」と殴り書かれた看板が入口に立てられていた。
誰かのむせび泣く声が第一声だった。知人の変わり果てた姿に絶句してへたり込む人もいる。
小さくなってひたすらに手を合わせる老人も見られた。
静々と歩みを進めてゆくと、端から2つ目のシートの所に「彼女」と面影を同じくした女性が僕に気付いたのか、やつれた表情を向けてくる。
僕は「彼女」の母親に一礼をして、身をかがめ、身体を覆っているシートをそっと持ち上げた。
「彼女」の綺麗な寝顔があった。
でも、僕を狂わせた瞳は2度と開く事はない。
岩盤が突き刺さった瞬間、「彼女」は同じバスに乗っていた小さな男の子を突き飛ばしたんですと「彼女」の母親が小さく言った。その男の子は膝を擦りむいただけで済んだそうです、と付け加えて。
「彼女」らしいですね。と僕が呟く。
それで「彼女」は岩盤の下敷きになって背骨を折って………
母親の独白が止まった。堪えられなくなったのだろう。スマートフォンを操作し、受信メールに目をやる。
『学会終わりました。今から戻ります。』
この味気ないメールが「彼女」の最期の言葉となった。割れてしまわんばかりに強く握りしめる。
暫くして、背後の啜り泣きが聞こえなくなった。
「芳隆さんとおっしゃる方ですか?」
はい。と短く答え振り向くと、「彼女」の母親が小さな封筒を携えていた。
「娘から、手紙を預かっているんです」
粛々と封筒を受け取る。受け取った封筒が小さく震えていた。
丸っこい文字で『芳隆さんへ』と綴られていた。
鋏なんて器用な物を僕が持っているわけもなく、かといってもう綴られない「彼女」の手紙を乱暴に扱うのも憚られる。
破ってしまわないようにそっと封を開けた。
「彼女」の言葉を目で追っていても、何も頭には入ってこない。
冷静を装っていても気が動転していたのだろう。
手紙の中で視線を泳がせていた僕に飛び込んできたのは、「彼女」の手紙の中で、最後に書かれた言葉だった。
『明日の貴方が、どうか笑っていられますように…』
その下に書かれていた日付は僕達が花火を観に行った翌日と「彼女」の名前が書かれていた。
胸の奥からせり上がってくる苦しみに堪え切れなくなって頽れた。
「彼女」の手と僕の手が重なり、その冷たい手を握る。
最後の夢が僕の脳裏を過る。泣き笑いになってしまうのは仕方ない。でも僕は思った。
「彼女」が好きだった笑顔で、僕は「彼女」に別れを告げよう。
高い天井を仰ぎ見る。
一筋の涙が僕の頬を伝って落ちる。
「彼女」の微笑みが微かに見えた気がした。
意思を汲み取るかのように僕が大きく頷く。
「彼女」の夢の最期の光景がここに現実となった。
登り続けていた石段はすっかり姿を潜め、頂上は僕達を涼しげな風で出迎えてくれた。
身体の隅々まで頂上の空気を満喫する。
「彼女」が亡くなってもう4年と半年。僕が7年前初めて「彼女」と出会った社の隣には、
墓地が広がり寂しげな雰囲気を醸しだしていた。
一歩、一歩、また一歩。
操り人形のように僕はそこへと歩みを進め、一基の墓碑の前で足を止める。
「彼女」の名前が流麗な筆記体で彫られていた。それを確認して僕は静かに「彼女」へ黙祷を捧げる。
隣で砂利を踏みしめる音がした。
隣に並んでくれた『彼女』に僕は心の中で感謝を述べた。隣で小さく息を呑む音が聞こえた。
きっとそうなるだろう。僕は思っていた。
僕が『彼女』に初めて出会った時、気付かされた事実に言葉を失った。
あの時の僕の唖然としていた理由がようやくわかったのだろう。
石碑に書かれていた「彼女」の名前は絵里。
今、僕の隣にいる『彼女』の名前も恵梨だった。
「これが僕が、君を連れてきた一つの理由なんだ」
黙祷を終えて僕が恵梨へと向き直ると、彼女の視線はまだ墓碑に向いていた。
ぐ、と何かを言い出そうとして、1度言葉を切った。
「偶然ってあるものなのね」
変な感想だったかなと恵梨は毒づき、君らしくていいんじゃないかなと僕は言った。
「そして、もう一つ…」
やや雰囲気が和やかになった時を見計らって、懐に手を伸ばす。ジャケットの胸ポケットに入れてあった封筒に指が触れた。
「約束を果たす時が来たみたいなんだ」
そう言って、僕は封筒を取り出す。それは4年半前に「絵里」が遺した手紙だった。絵里の遺体の前で渡された時に初めて封を開け、持ち帰った自宅で読み返す為にもう一度。僕が手紙を開けるのは、これでようやく3度目だった。読もうとしたが丸っこい文字で綴られた文面を見つめていると、声にするのが気恥ずかしくなりそのまま手紙を恵梨に手渡す。僕の意を汲んでくれたのか恵梨は手紙を手にした。
さわさわと風の囁く声がこの束の間を支配する。
そう。と恵梨は短く答えて、手紙を返してきた。うん。と頷いて返ってきた手紙を再び封筒へとしまい込む。恵梨の表情にも翳りが映っていた。絵里が僕に託した約束はただ1つ。
『貴方が一緒になりたい誰かと出会った時に、その人を私の所に連れてきて欲しいんです』
粛々と自らの死を受け入れた文章は、前日、喜びの余韻を噛みしめた者の文章だったとは誰も思わないだろう。
数秒前の風の囁く声が静かに止み、舞台には静けさが舞い戻る。次の恵梨の言葉を怖がったのか、気付かずに握り締めていた拳にじっとりと汗が滲んでいた。
鼻の頭を指で掻きながら恵梨が小さく呟いた。
「惚気話をごちそうさま。普通だったら途中で帰ってるわよ」と。
確かに昔の彼女の話なんて聞いても面白くないだろう。此処にも連れて来られる理由も僕の我儘なのだから、嫌味の1つも言われるのは覚悟していた。
「何もかも話せばよかったと思ってた?」
腰に手を当てる仕草にはあまりいいイメージを抱けないが、これも当然な反応で言葉は出せなかった。
必要以上に喋る事は人を軽くする。これは僕のポリシーでもあった。これが僕に落ち着きを印象付けさせ、僕から積極性を奪っていった。
厳しい言葉を全身で味わうように瞼を下ろす。身体が潤いを求め嫌な汗が全身から吹き出ている。視覚が塞がれて頼れるものの大半は耳に集約されるのかわずかな囁きも耳に届く。砂利を踏みしめる音が数度。聞き分けられた人の声に違和感があった。
「そんな………な所も………なんだけどね」
時を待たずして、僕の両肩に両手で掴まれた感覚があり、
どんっ
背中からの大きな衝撃に思わず面食らった。
どんっ…どんっ…どんっ…
立て続けに同じ衝撃が、2度、3度と繰り返される。倒れるというわけではないがその1度が重い。
数えて10度目の衝突でそれは止まり、恵梨が僕の背中に額を預ける形になった。
「あれ?本当?」
「あれって?」
「絵里さんの手紙の約束」
「あぁ、だからここに連れてきた」
「ん。わかった」
短い言葉のやり取りの後で、恵梨が大きく息を吸い込んでゆっくりと息を吐く音が聞こえる。
「こんな事、柄じゃないから言いたくないの。だから1回しか言わない」
急に吹いてきた強い風が木の枝を大きく揺すり、恵梨の声が途切れて耳に入ってくる。聞き漏らすまいと耳をそばだてるが生憎全てを受け取る事は叶わなかった。
「え?聞こえなかった…」
呆然とした僕の背中に11回目の衝突が突き抜けた。
「同じ事を2度も言わせないでよ」
細い声が益々細くなっている。振り返るまでもない。真っ赤になっているだろう。
「絵里さんの夢、私が叶えてあげる。私は貴方と幸せになりたいのっ!」
風が治まった時、恵梨の声が風に乗った。僕の中に絵里と一緒にいた頃と懐かしく温かな感触が満ちてきた。
「でも、妬けちゃったからこれだけは言わせて」
掴まれていた感覚が両肩から離れた。目を開けた僕の視界の右側から恵梨の背中が移り込み、僕の一歩前に進み出る。
「聞いててね、絵里さん!」
恵梨の叫びが辺りに響き、絵里の名前を聞いて僕は驚く。
「私は、貴女の分も幸せになってみせる!」
先程の驚きを軽く超えていったそれが僕を襲い、僕は目を丸くした。
「だから、私達がそっちに行くまで待っててね。その時にいっぱい話をしましょ」
一息。そして、
「この人に逢わせてくれてありがとう」
ゆっくりと墓碑に向かって手を合わせ、無言の会話を楽しむかのように恵梨はそこを暫く動かなかった。よしと小さく呟いて恵梨は僕の方へと振り返った。
「…何だか悔しくなっちゃって、ケンカ売っちゃった」
軽く頭を掻いて恵梨は微笑みかけてきた。多分、言うつもりはなかっただろう。
「とんでもない約束しちゃったね」
僕も苦笑いしかできなかった。
「もう言っちゃったから、守らなきゃ…ね」
そう言って恵梨も穏やかに笑う。小さく肩をすくめ、僕は恵梨に手を差し出しそれに応じた恵梨も真面目な表情を作って、差し出した手に自らの手を重ねる。
「これからも…よろしくね」
率直な言葉に感謝を込めた。
「この手、離さないでね」
『彼女』の強烈な一言が僕を真っ赤にさせる。
「1度でいいから言ってみたかったのね~、こんな台詞」
そう言って胸に飛び込んできた恵梨の悪戯っぽい顔を僕は忘れる事はないだろう。再び緩やかな風が流れはじめる。それは絵里から僕達への祝福の風だったのかもしれない。
「彼女」にありがとうと小さく言い残して、僕はこれから『彼女』と歩き始める。