8.八日目
「こんなに警戒してるなんて、思わなかったよお」
夜明けとともに再び歩き始めた僕たちは、日が高くなる頃にようやく、“魔女の舞踏場”と呼ばれる目的地がある丘陵地帯の端に辿り着いていた。
だが、さすがに悪魔王カルトの警戒は厳しく……。
「“地獄の猟犬”まで放しているとはね。小悪魔の姿まで見えたわよ」
「それだけ本気なんですよ。今回の蝕の儀式は」
岩陰に身を隠しながら、今後、どう進むかを検討する。
「……隠れて進みたいけど、正直難しい気がするわ」
「でもお、洞窟の手前までは隠れたほうがいいと思うんだあ」
ナイアラが簡単に書いた地図を広げる。“魔女の舞踏場”は、さすが、カルトの者以外が近づきにくい場所に作られている。洞窟の先の谷間がその場所なのだ。
「たしかに、そこまではいろいろと温存したいところですね」
ヘスカンもナイアラに賛成のようだ。
「ねえ、あれ。透明の指輪つけて、カイルが時々上から偵察するのどうかなあ?」
「……悪くないわね」
「それでえ、上から手薄っぽいほうの目処をつけて、あたしがちゃんと偵察して、で、洞窟まで行こう?」
「それが一番現実的か……飛んだままでもいいんだけど」
「それだと、皆、カイルが見えないから意味ないよお」
「ああ、そうか」
声を上げて合図をするわけにもいかないし、姿を表せばすぐに見つかるし、たしかに、いちいち飛んで降りてをやらなければならないのか。
「じゃあ、さっそくちょっと見てきてねえ」
ナイアラに渡された指輪を嵌めて、僕は空へと舞い上がった。何ごとも無ければ、こうして飛ぶことはとても気分が良くて素晴らしいことなんだが。
高みからぐるりと見回して、ルカは無事でいるだろうかと考える。イリヴァーラは何もされないはずだというが、悪魔がそばで甘言を囁き続けている可能性だってあるのだと考えると、じりじりとした焦燥に焼かれてしまいそうで……彼女が、その心まで無事でいてほしい。
神よ、どうか彼女にあなたの加護を。
祈りながらも、ひととおり見えている範囲をじっくりと観察し、また降りて指輪を返す。
「やはり開けた場所が一番警戒が少ないようだ。次点で、西寄りの森のきわが安全に進めると思う」
ヘスカンが、今度はもう少し詳細な地図を開く。
「西の森は少々遠回りになりますね。開けた丘陵はここからまっすぐ北に続いていますし、いっそ、突っ切って時間稼ぎをするのもありかもしれませんが……」
「……ちょっと待って」
イリヴァーラが手持ちの呪文の巻物を漁り、「ああ、ちゃんとあるわね」と呟いた。
「一応、全員が透明化できるだけの呪文は用意してあるの。だけど、透明化したらお互いが見えなくなるから逆に危険かもしれないし、戦いになればすぐに姿が現れてしまうから、呪文の無駄撃ちになるだけかもしれないわ」
「けれど、敵の少ない場所を通るんだから、戦いは回避できるんじゃないのか?」
僕の言葉にイリヴァーラは頷こうとしてふと考え込む。
「あの“地獄の猟犬”じゃなきゃ、なんとかなるけど……あいつらが来たらすぐ見つかるわよ。さすがに臭いや音までは隠せないから」
「風は北寄りだしい、結構なんとかならないかなあ?」
隠れるところのない丘陵地帯の真ん中で見つかってしまえば、あとはたどり着くまで連戦に次ぐ連戦となることは想像できた。
「……まあ、ここまで来たんだし、一か八か、やってみましょうか」
「ええと……あたしは指輪があるから魔法はいらないけどお……でも、皆消えて迷子になったら困るからあ、あたしだけ消えないで、隠れながら行くねえ」
「大丈夫なのか?」
「あたしたち猫人は、こういう場所で隠れるの得意なんだあ。ちゃんとカイルたちにだけ見えるようにするから、大丈夫だよお」
身を隠しながらナイアラが進み、その後を魔法で透明になった3人が慎重に付いていく……という方法で、丘陵地帯を進んだ。このあたりで身を隠すものといえば、丈の高い草と背の低い茂みくらいのものだ。慣れたナイアラでなければたちまち見つかっていただろうが、巧みに草や茂みに身を隠しながら進むナイアラは、さすが猫人の本領発揮と言うべきか。時折、あたりを伺ったり、耳を澄ませたりしながら、どんどんと進んでいく。
犬の遠吠えが聞こえた時ばかりは地面に張り付き、じっと身を竦めて慎重に、距離を測るようにあたりの様子を伺った。僕らは、その間、ナイアラのようすに合わせて、じっと音を立てないように身を縮こまらせるだけで精一杯だったが。
そうやって慎重に進み、丘陵地帯も半ばをすぎたあたりだろうか。
「ナイアラ、危ない!」
太陽も半ば傾き、このまま順調に進めば夕刻には北側の森の際まで余裕を持って到達できるだろうと目処が立ったころ、僕らは空から襲撃を受けた。さすがのナイアラも、空にいるものに対しては、完全に姿を隠しきれなかったということか。
咄嗟に翼をはためかせて僕は飛び出し、ナイアラを庇うように襲撃者の前に立ち塞がる。ギリギリ構えられた盾で攻撃を受け止めると、相手は……。
「悪魔、か」
黒い翼を持つ女悪魔。ただし、その美しい見た目とは裏腹に戦いに長け、九層地獄界では優秀な戦士として名を馳せるという悪魔だ。一説には悪魔王の甘言に唆され、堕天した天使の成れの果てだとも言われている。
「ここまでよく頑張って辿り着いたわねえ。褒めてあげる……もう進ませないけどね!」
あははははと哄笑しながら、女悪魔は黒い炎をまとわりつかせた剣を振り回した。
──そして、さらには、獣の唸る声までが近づいてくる。
「“地獄の猟犬”まで……」
イリヴァーラは渋面で呪文の詠唱を開始した。ヘスカンも、腰に下げたメイスを抜いて構える。
「“猟犬”が6、というところですね。他に来ないとも限りません。手早く片付けましょう」
「そうは言っても、ちょっと多いしい」
そう言いながらナイアラはイリヴァーラたちのところまで下がり、いつの間にか構えていた弓を“猟犬”目掛けて射ていた。
「さすがに1発じゃ倒れてくれないしい」
続けて2射め、3射めを射ながらどうにか足留めを狙うが、“猟犬”の足はまったく止まらない。ナイアラの射かけた矢も、それほど大きな負傷にはなっていないようだ。“猟犬”たちが間近に迫るのを見て、ナイアラはとうとう弓を捨てて小剣に持ち替えた。ヘスカンも、手の届く距離に来た“猟犬”にメイスの一撃を叩き込み、“息吹”を浴びせかけている。
「余所見してると、すぐ死ぬわよ!」
“猟犬”に囲まれてしまった仲間のほうを見る僕に、女悪魔は、立て続けにいくつもの斬撃を浴びせ掛けた。
そこへイリヴァーラの最初の呪文がようやく完成し、鷲獅子が3頭現れる。もう一度ちらりとそちらを見て、僕はほっと息を吐いた。
「これで、なんとか凌げるでしょ。
──カイル、そっちに、アレ、やるわ」
「了解!」
「私がなぜ“善き魔術師”と呼ばれるかを、教えてあげる」
ぼそりと呟いたイリヴァーラは、ひと息つく間もなく僕に向かって警告を発すると、そう独りごちた。そして、上空の女悪魔を睨んで次の呪文の詠唱を開始する。
広い範囲を巻き込む魔法では、僕までを巻き込んでしまう。さらに言えば、悪魔は押し並べて魔法への耐性が高いから、生半可なものではたいした影響を与えられない。
「悪魔、悔い改めるなら今のうちだぞ」
僕が笑ってそういうと、女悪魔は歪んだ嘲笑をその美しい顔に浮かべた。
「お前こそ、悪魔王に忠誠を誓うと言うなら、命は助けてやらないでもない」
だが、イリヴァーラがいつもとは違う、少し変わった、祈りの言葉に似た呪文を唱え……それが完成したとたん、女悪魔の顔から笑みが消える。
「まさか」
それだけを口に出し、突然、自分を襲った光の奔流に悲鳴をあげた。僕のような天上の血を引くものには何の影響も与えず、けれど穢れた下方世界の生き物には致命的な、天より降り注ぐ聖なる光の奔流だ。イリヴァーラは善なるもののみが使える、この特別な魔法を習得している。それが、彼女の“善き魔術師”という称号の理由なのだ。
女悪魔は声にならない叫びをあげ続け、苦痛に身悶えた。その身体は光に焼かれ、ぶすぶすと煙を上げる。
僕は、祈りの言葉とともに、輝きを帯び斬れ味を増した剣の斬撃を、女悪魔目掛けてひと息に振り下ろした。
衝撃で地面へと叩き落された奴は、息も絶え絶えによろめき立ち上がった。まだ完全に絶命はしていなかったようだ。魔法を使おうとでもいうのか、何か言葉を発しようと片手を上げた奴へと、急降下の勢いを乗せた追撃を喰らわせる。女悪魔は倒れ伏し、ようやく動かなくなった。
“猟犬”はと振り返れば、鷲獅子とナイアラでようやく2頭を減らせたところのようだ。
「カイル早く手伝ってよお」
ナイアラの声に苦笑しながら、僕はすぐに“猟犬”へと斬りかかった。
ナイアラは本来、正面から斬り合うよりも背後からの奇襲を得意としている。誰かが正面にに立って敵を抑えてくれなければ、本来の半分も力が出せないのだ。
イリヴァーラもくすりと笑って、また呪文の詠唱を始めた。
残りの“猟犬”を片付けた後、すぐに僕らは先を急いだ。もう透明化の魔法はないし、派手に戦ってしまったのだ、すぐに新手が来ることは間違いないだろう。それまでに距離を稼ぎ、少しでも目的地へと進まなければならない。
それからも何度か散発的に襲ってきた“猟犬”を返り討ちにしながら、ようやく僕らは北の森の入り口に到達した。
「完全な日暮れまでは、もう少し時間があるわ」
少しだけ森に入り込んだあたりで、イリヴァーラが空の色を確かめる。
「もうちょっと進んでえ、そこで休憩かなあ」
「……野営するのか?」
顔を顰めながら考えるナイアラに怪訝そうに尋ねると、イリヴァーラは当然だと頷いた。
「けど、まだ目的地は……」
「だから、ちゃんと休むの。いい? 蝕まではまだ時間があるわ。あの戦いで私も大技だしちゃったし、ヘスカンだって癒しの神術をだいぶ消耗してるの。休まなきゃ、たどり着く以前に私たちがやられるわよ」
畳み掛けるように続けるイリヴァーラに同意して、ヘスカンが僕の肩を叩く。
「焦る気持ちはわかりますが、ここは慎重に確実に進むところですよ」
「……わかった」
イリヴァーラの言うこともヘスカンの言うことももっともだ。わかってはいるが、それでも早く早くという気持ちはおさまらず、どうにか無理やりに押さえつける。
「それで、野営はどこで? 火は焚けないだろうけど」
「“異次元の小部屋”を使うわ。夜中にまで襲撃されたら、とてももたないもの」
「なら、見張りはいらないねえ」
“異次元の小部屋”は、文字通り、次元の狭間に小さな小部屋を作る呪文だ。入り口を閉じてしまえば外側からはまず見つけることができないし、イリヴァーラなら休息を取るのに十分なだけの時間、小部屋を維持できる。中から外のようすもわからなくなってしまうのが難点だが、出入りの時だけ注意すればあまり問題はない。
「なら、暗くなるまで先を急ごう」
「はあい。じゃあ、いつもの通り、ちゃんとついてきてねえ」
丘陵地帯を行くときのように、ナイアラの透明の指輪を借り、時折僕がまた木の上まで飛んで方角と周囲のようすを探りながら進んだ。
太陽はますます傾いていくのに、目指す洞窟のあるひときわ小高くなった、丘というよりも山と呼んだほうが良さそうなその場所はまだまだ遥か遠くに思え、僕は唇を噛む。
「方角は大丈夫だ」
下に降りた僕の背をヘスカンが宥めるように叩き、「では、もう少し進みましょう」と穏やかに声を掛ける。ひとりなら、無謀だろうが何だろうが構わずに闇雲に飛んで行ってしまったかもしれない僕を、仲間たちがどうにか抑えているという状態だ。
僕も、気を落ち着かせるように大きく深呼吸をした。
「今日、距離を稼げれば、遅くても明日午後には洞窟に入れるはずよ」
イリヴァーラの言葉に僕は頷く。そこまで行けば、もう少しなのだ。もう少しでルカを助け出せる。
* * *
「彼がこちらへ向かっているようですよ」
ぼうっと霞む意識に、その言葉だけが響く。
「……カイルが?」
「そう。本当に、彼は彼の神に忠実だ」
ぼんやりと、ああ、カイルは聖騎士だから、聖騎士になるために生まれたんだから、当然だ……とだけ考える。カイルの神様が、カイルに守れって命じたから、私を助けにカイルが来る。なんてシンプルでわかりやすい理屈だろうか。
「どこまでも神に忠実ではありますが……彼を連れて、私のもとへ降ればよいのですよ。そうすれば、あなたの望みは叶う」
あなたのところに降る? と覚束ない声で、私は繰り返す。
「そう、私のもとへ。悪魔王のもとへ。そうすれば、彼はあなたひとりのものとなりますよ。神に命じられたからではなく、ただあなたに寄り添う、愛しい彼が手に入るのです……彼を手に入れたいとは思わないですか?」
「私のもの……私、ひとりの……」
──でも、それはだめだ。カイルの心はカイルのものだから。神様を信仰する気持ちだってカイルのものなのに、無理やり変えてしまったら、それはカイルではなくなっちゃう。
それに、私は太陽の光を浴びて白く輝く彼こそが、とてもきれいだと思うのだ。
「そうですか? けれど、その彼が地に堕ちて黒い炎に焼かれるさまも、それはそれは美しいものだと思いませんか? ほら、想像してごらんなさい。彼が“九層地獄界”の炎に焼かれ、美しい堕天と変わるさまを」
……漆黒の、闇に染まったカイルの姿が脳裏に浮かび上がる。背の翼は墨で染め上げたように、闇よりもなお黒く、肌は地獄の業火のように鮮やかな赤い色を帯び……身に纏う金の輝きもどこか禍々しいものに変わったカイルの姿。それは、確かに美しくて。
「……でも、私は」
白い、天上の輝きを纏うカイルが、いちばん、好きなの。初めて見た彼は本当にきれいで、こんなひとが存在することに、ただただ驚くばかりだった。
ぽろぽろと涙を零しながら「嫌」と繰り返す私に、そのひとは苛立たしさを滲ませた声で「さすが“乙女”というべきか」と吐き捨てるように呟く。
「いっそ、今ここで穢してしまったほうが確実なのではないか」
彼は苛立ちを抑えるように、ばさりと皮の翼をひとつはためかせた。
儀式の制約さえなければ、こんな人間の娘ひとり、さっさと穢し、堕として終わらせてしまうのに、と。
そうして、ひとつ面白いことを思いついた、と彼は突然笑顔を浮かべる。
「“乙女”、ひとつ、試してみましょうか」
「試す……?」
「ここに、魔神の宿る石があります。長らく悪魔王と下方世界の覇権をかけて争い、敗れたものの一体がこの石に宿っている……というわけです」
「魔神……?」
「これはとても強い悪なる力を持っています。あなたがこれを身につけ、この石の内なるものに引きずられ、自身の善を保てなくなった瞬間に、あなたは堕ちるというわけですよ」
くつくつと、そいつは心から楽しげに、「どれだけ耐えられるのでしょうね」と笑った。
「あなたが堕ちれば彼もともに堕ちるでしょう。我々にとっては、それもまた望ましい結果のひとつです」
ぼんやりと目を開く私の額に押し付けられたその石は、ぞっとするほどに冷たかった。皮膚に張り付いたその石からは、何かおぞましいものが私の内へと入り込む感覚がして……。
「あなたを迎えにここへ辿り着いた時の彼の顔が、とても楽しみです」
その悪魔はもう一度背の翼を揺らし、くつくつと笑った。