5.五日目
翌日、朝起きるとなんだか頭が重くて、ぼうっとしているような気がした。寝過ぎてしまったのだろうか。
「どうしたのお?」
頭をぐるぐる回していたら、起き出したナイアラが不思議そうに尋ねる。
「なんだかすっきりしなくって。変な姿勢で寝ちゃったのかな? なんだか肩が凝ってる気もするし」
「ふうん? 肩揉んであげようかあ?」
猫の肩揉み! という誘惑に抗えなかった私は、少しだけお願いすることにした。
結論、ナイアラは肩揉みがうまい。
今日は、私とイリヴァーラのふたりで、ジャスパーという魔術師の住まいを訪ねることになっている。どうしても心配だというカイルは外で待つからと、やっぱり付いてくるのだそうだ。それでは、まるで、本当に犬みたいなんじゃないだろうか。
歩く間は、都についてから常にそうしているように手を繋いだままで、いつの間にか、この状態にも慣れてしまったなと思う。
「ここね」
教えて貰ったジャスパーの住まいは、商業区の西側の、主に住宅が並ぶ区画の北の外れにある塔だった。ここへ来るときに見た城壁より高い塔だ。たぶん、普通の建物の2、3階層分くらいは高いのではないだろうか。
「じゃあ、カイル。ここでおとなしく待っていてね」
カイルがなんだか離し難いような面持ちで手を離し、「気をつけて」と頭にぽんと手を乗せる。ただでさえカイルの背は私の頭ひとつ分以上高いのに、そんなことをされてはなんだか歳が逆転したかのように感じてしまう。
「行ってくるね」
それだけを言って、私はイリヴァーラの後に続いた。
まるで待たれていたかのように……いや、実際待っていたのだろう。門が開き、塔の扉が開き……自動ドアのように次々と入り口の扉が開いて、まるで誘い込まれるように私たちは塔の中へと入って行った。
塔の中でも、私たちはまるで案内されるかのように、ぽつぽつと順番に灯る明かりにしたがって進む。途中には、人間よりも大きい、変わった甲冑のような鉄の像がいくつか置かれていた。
「ゴーレムかしらね? それにしては、初めて見る形だけど」
イリヴァーラが小さく呟きながら、しげしげと見つめながら進む。
たぶん、外壁に沿って作られているんだろう階段を、ひたすら案内に従ってぐるぐると昇りきると、ようやく扉が見えた。
結構な高さを昇り切って、切れ切れになった息を深呼吸で整えてから、ノックをしようと拳を上げた途端……また扉が開いた。
「どうぞ、待ってたよ」
中からは柔らかい男性の声が響いてきた。
扉の中で待っていたのは、輝く金の髪に星をはめ込んだような銀の目の、ものすごくきれいな男性だった。男性に“きれい”はおかしいかもしれないが、きれいとしか形容しようがないのだ。神々しさではカイルに一歩譲るかも知れないけれど、顔面偏差値はいい勝負なんじゃないだろうか。
彼が立ち上がると、呆気に取られる私をよそにイリヴァーラが一歩進み、妖精らしい優雅なお辞儀をする。
「ジャスパー殿、今日はお会いいただくことができて、光栄です」
「私のほうこそ、善き黒妖精の魔術師イリヴァーラ・エダーグレンに会えるとは光栄だ」
ふたりとも、にっこりと微笑んで握手まで交わしているのに……なんだろう、言葉に表しにくいこの雰囲気は。
緊張のあまり手に汗をかきながらふたりを見回すと、彼はふっと笑って「お茶をいれるから、そこに座って」と長椅子を勧めてきた。
種族補正なのか見た目補正なのか、彼がカップを置くさまもなんだかとても優雅で綺麗に見えて、自分との差をつい考えてしまう。見た目がいいだけでとても得なんだなあなどとしみじみ思いつつ、出されたお茶にふうふうと息を吹きかけて一口ごくりと飲んだ。
「お茶、どう? 口に合ったかな?」
なぜかにこにこと微笑みながら、彼は私が茶を飲む様子をじっと見ている。
「え、ええと、おいしい、です」
もう一口飲んでそう答えると、彼はますます笑みを深めていた。お茶を飲んだだけなのに、なぜそんなにじっと見ているのだろうか。
「それは良かった。ちなみに、今日出したお茶はね……」
彼がそう述べるのと同時に、なんだか動悸が激しくなる。おまけにどうしてなのか顔も熱くなってきて、いったい何が起きているのかと混乱する。
慌てて彼を見れば、途端にさらに顔が熱くなって……真っ赤になっていることが自分にもわかるくらいで、ますますこれは何なのかと混乱する一方だ。
「え、なに? どうして?」
「私が特別に調合したもので、惚れ薬にも使われる薬草が入っている」
「えっ、ええええ?」
「躊躇なく飲んでくれて嬉しいよ」
「ほっ、惚れ薬!?」
くすくす笑うジャスパーと、まさかこれは彼に惚れてしまったせいなのかと慌てる私に、イリヴァーラが溜息を吐いた。
「ジャスパー殿、この子をからかうの、やめてあげてください」
涙目でイリヴァーラのほうを見ると、「大丈夫よ」と背をとんとんと叩かれた。
「ちょっとだけ動悸を起こさせる薬草と、体温を上げる薬草が入ってるだけ。身体に影響はないわ。すぐに治まるから、落ち着きなさい」
「……ほんとに?」
「ええ」
「彼女の言うとおりだよ。アートゥからすごく可愛い子が行くよと聞いててね、楽しみにしてたんだ」
……はは、と笑う彼が、イリヴァーラの話していたとおり、確かに“変人と言われる魔術師からすらも変人と言われる魔術師”なのだと、とても納得できた気がする。
「それで、私たちの聞きたいことには答えてもらえるのかしら」
「いいよ。お茶を飲んでくれたこの子に免じて何でも答えよう。私にわかることであれば、だがね」
ほう、と息を吐いて、イリヴァーラは「では、蝕の夜に、悪魔王はこの子を使って何の儀式をやろうとしているのかしら」と尋ねた。
「蝕……というと、5日後の、ふたつの月が欠ける日のことだね」
イリヴァーラは私をちらりと見て頷く。イリヴァーラはいつが蝕なのか、もう知ってたのか。
……しかも5日後。思ったよりもその日がずっと近かったことに身体が強張ると、イリヴァーラに背中をとんとひとつ叩かれた。
「実は、さる筋から、こういうものを手に入れてあるんだ」
そう言いながらジャスパーが取り出したのは、何やら気味の悪い装飾が施された装丁の、古ぼけた書物だった。いったい何だろうと首を傾げる私の横で、イリヴァーラが瞠目し、口をぱくぱくとする。
「それ……まさか……本当に、実在、するなんて……」
「イリヴァーラ、知ってるの?」
イリヴァーラは大きく何度も深呼吸をしてから、「ええ」と頷いた。
「……さすがに写本だとは思うけど、“穢れし夜の儀典”と呼ばれる、邪悪な神々のための儀式や典範を記した本よ。一説には、ある狂った魔術師が悪なる神々から直接聞き出して記した魔書だとも言われているの」
震える声で話すイリヴァーラに対して、ジャスパーはぱちぱちと手を叩きそうな笑顔で頷いた。
「大当たり。さすがだね。もっとも、これはそのさらに一部分を抜粋し写したものだから不完全だけど、それでもこれ自体が力を持っている。ああ、だからうかつに触っちゃだめだよ」
「頼まれたって触りたくないわ。あなたはそんなものを持っていて平気なの?」
「一応対策はしてるよ。それで、この本に抜粋されていたのは何かというと……悪魔王自身を召喚する儀式の方法なんだ」
悪戯っぽくにやりと笑って本を掲げるジャスパーの言葉に、イリヴァーラがひゅっと音を立てて息を呑む。
「それを、蝕の夜に、この子を使ってやろうっていうの?」
「その線が濃厚……なんだけど、今ひとつ腑に落ちなくてね」
「腑に落ちない?」
怪訝そうに繰り返すイリヴァーラに、ジャスパーは不意に真剣な顔を作った。
「悪魔王にしては、わかりやす過ぎると思うんだ」
「あの……わかりやすいと、何か問題があるんですか?」
おずおずと尋ねる私に、ジャスパーはまた微笑む。
「悪魔王っていうのはね、もともとは“九層地獄界”のある階層を支配する、ただちょっと力の強い大悪魔のひとりでしかなかったんだ。それが、大災害のどさくさに他の大悪魔を押し退け、善悪問わず数いる神々を謀って神の1柱となりおおせたんだと言われている。一説には、大災害の原因になった事件すら、悪魔王の唆しによるものだって説があるくらいだ。
その神が、“自らを召喚させる方法”なんてつまらないものを教えて記させると思うかい?」
「でも、悪魔王がここに現れたら、すごい災いになるんじゃ?」
「あともうひとつ。どうも皆忘れてるんじゃないかと思うけど、悪魔王はもう悪魔じゃない。神だよ? 神は召喚するものじゃないだろう?」
「あ」
おもしろそうにそう語るジャスパーに、確かに、神の召喚なんて聞いたことがないと思う。
「……じゃあ、何をやろうとしてるというの?」
「さすがに私でも、この本を本気で解読するのは危険すぎて、よくわからないんだ」
肩を竦めるジャスパーに、イリヴァーラは、はあ、と大きく息を吐いた。
「まあ、今できる確実なことは、蝕が終わるまで逃げ切ることかな。次点は贄の資格を失くすことか……」
今度は私がひゅっと音を鳴らして息を吸い込んだ。
……教会でもカルトでも、“乙女”と言う称号なのは意味があるんじゃないかと頭の片隅でひっそりと考えていた。“乙女”という呼び方には、ちゃんと理由があるんだと。つまり、なんというか、私が“純潔”であることが求められてるんじゃないかって。もう25なのに、私がここにいるのは、もしかしてそれが原因なんじゃないだろうかと。
口をぱくぱくさせて、それからごくりと喉を鳴らす私を、イリヴァーラとジャスパーがいったいどうしたのかと見る。
「し、資格って、その、そ……もしかして、その、“乙女”って、ところ、とか、ですか」
「──ちょ、ルカ、何を言い出すのこの子は!」
「もしかして、君、純潔なんだ?」
さあっと青くなっておたおた始めるイリヴァーラと、ぶふっと吹き出すジャスパーに、私は身を縮こまらせる。
「だ、だって、“乙女”って、“乙女”って、カルトでも教会でも、皆、そう言うし、それに、そういう意味、でしょう?」
「いやまあ、確かに資格の要件のひとつにはなり得ることだけどね」
お腹を抱えてひいひい笑いながら言うジャスパーに、真っ赤になって、なんだか泣きたくなってしまう。
「どっ、どうせっ、い、いい歳して、とか、思ってる、でしょ」
「なんで? 君未婚でしょ? なら別にいいんじゃない? それとも私がもらってあげようか?」
「もう、ルカは何を気にしてるのよ、ってっ! ジャスパーさりげなく変なこと言うのやめて!」
下を向いて思わず涙ぐむ私を覗き込むジャスパーを、イリヴァーラは突き飛ばすように押し退けて、私を抱え込む。
「もう、そんなの全然気にするところじゃないわよ、この子は!」
「とは言ってもね、正直なところ、何が資格なのかはわからないんだよ。神が君の何を気に入って目をつけたのか、そこはおそらく神自身にしかわからない。君が持ってる何かが神の目に止まったことは間違いないんだけどね」
「それじゃ……」
眉尻を下げる私に、ジャスパーは肩を竦める。
「“乙女”を辞めても辞めなくても、あまり結果は変わらないだろうね。君自身がどうしても気になってしかたないなら、君の聖騎士にでも貰ってもらったら? それなら後悔も少ないんじゃない? いやむしろいい結果になるかもしれない」
「え、だって、そんなの」
「だから! そうやってこの子をけしかけるのはやめて!」
イリヴァーラがまたぎゅうと私を抱き寄せて、ジャスパーから隠そうとする。彼は「はいはい」と笑いながら、「ま、私はもう少しこの本を読み解いてみることにするよ。危険のない範囲でだけどね。“乙女”の身体を張った頑張りに免じて、何かわかったら必ず知らせよう」と約束してくれた。
ジャスパーのところを辞して、塔の階段を下りながら、イリヴァーラが深く息を吐く。
「もう、何を言い出すかと思えば、なんてことを考えてるのよ、あなたは」
「……だって」
呆れた声で言われて首を竦めてしまうと、イリヴァーラはこちらを見てもう一度溜息を吐いた。
「変なこと気にするの、やめてちょうだい。そもそも、純潔だけが理由なら、わざわざ他の次元からあなたを呼ぶ必要はないわ。ルカじゃなきゃいけない理由があって、あなたが今ここにいるのよ」
「そうなの?」
「そうよ。だって、他次元から誰かを呼ぶって、結構面倒なのよ。それも他の現物質界からだなんて、どれだけの労力が掛かってるか考えるだけでぞっとするわ」
だから、もうくれぐれも変なことは考えるなと、もう一度念を押されてこくりと頷いたところで塔の入り口を出た。外の光がとても眩しい。
ここへ入った時と変わらず、門の前に立ち続けているカイルが見えて、ようやく肩の力が抜けた。日の光を受けて髪がきらきらと輝いている。
ジャスパーもきれいだったけれど、カイルのほうが何倍もきれいだなと思う。
「おかえり。何もなかったかい?」
そう言って手を差し出されて、ジャスパーとのやり取りをつい思い出してしまう。手を取ろうとしてぴきんと固まってしまった私を凝視してから、カイルはイリヴァーラに視線を移す。
「……イリヴァーラ、何があったんだ」
「ああ……なんと言えばいいのかしら。たぶん、いちばん的を射ている言い方は、“ルカが盛大に自爆した”ってところかしらね」
「自爆?」
「そう。あんまり深く追求しちゃだめよ」
「あ、ああ……」
「ほら、ルカはカイルのとこに行って」
背中をどんと押されてよろけるように前に進み出ると、カイルは慌てて私を抱きとめるが、どうも腑に落ちないのか、眉根を寄せて首を捻っていた。
「それじゃ、私はこのまま図書館へ行くことにするから。カイル、あとは任せたわ」
「わかった」
今度こそ、カイルはまたしっかりと私の手を握り、「昼を食べてから戻ろうか」と歩き始めた。こくりと頷いてちょこちょことついてくるだけの私に、カイルはもう一度首を傾げて、「何かあった?」と聞いてくる。
「な、何も、ないから。大丈夫」
「本当に?」
こくこくとひたすら頷く私に、無理やり納得することにしたようだ。「ならいいけど……何かあったなら、僕にすぐ知らせてくれ」とひとつ息を吐いた。
商業区画に出ている屋台であれこれと見繕いながら、私が「蝕って、5日後なんだってね」と小さく呟くと、カイルは驚いたように目を瞠った。それから、「そうなんだよ」と、握る手にぐっと力を込める。
「皆、今は必要な情報を集めているんだ。あと1日か2日もすればいろいろわかって、根本的に解決できるよう、動けるようになるから。それまでの辛抱だ」
「うん、皆が頑張ってくれてるの、わかってる」
「君も頑張ってるよ」
そんなことはないと頭を振る私の背を、とんとんと宥めるように叩かれて私はさらに俯いてしまう。
私にできることと言えば、アートゥやジャスパーのような情報提供者に請われたからと、付いていくくらいなのだ。その場ですら、話をするのは私ではなくカイルやイリヴァーラで。自分のことなのに、自分では何もできない。しかも、皆、私が“神託の乙女”だからという理由だけで、助けてくれている。
「ルカ」
不意にカイルが屈み込み、私の顔を覗き込んだ。つい目を逸らす私の頬に口付けて、「不安にならないで。大丈夫、ちゃんと護るから」と囁く。
私はこくりと頷いて、だけどなぜだか泣きたくなった。
 





