2.二日目
翌日は早くから町を出た。
起きてすぐにイリヴァーラが魔法をかけて、「これで夜になるくらいまでは持つから」と言うのに頷く。同じようにカイルにも魔法をかけて、試しにふたつみっつ話をすると、ちゃんと通じているようで安心した。
この世界の旅は、やはり徒歩が基本らしい。100年以上前に“大災害”と呼ばれるものが起きたおかげで、以前は整っていた街道がずいぶん荒れてしまい、馬車では通れない場所がいくつもできてしまったのだという。
大都市の復興を進めるのがやっとという現状では、こんな田舎までは手が回らないのは言わずもがな、だそうだ。この地に住む人たち自身の手で、どうにかここまで来れたのだとか。
“大災害”が起きた当時、イリヴァーラはかろうじて物心がついたかどうかくらいの子供だったけれど、吹き荒れる魔法にかなり恐ろしい思いをしたのだという。
「あれで、世界はだいぶ変わっちゃったみたいなのよね」
“大災害”は魔法的な災害だった。荒れ狂う魔法が自然に影響を与え、この世界の地形すら、大陸すらも大きく変えてしまったのだ。
例えば、栄えていた大きな国が一夜にして消えてしまったり、例えば、失われていたと思っていた古代帝国が海の底から浮上したり……もとの世界では考えられないような激変が、この世界全域で起こったのだと聞いて唖然とした。
しかもそれは、神々の世界で突如起こった闘争が原因だったのだと聞いて、さらに驚く。
「ずっと権益を狙っていた悪しき神が、善き神の1柱である女神を弑してその力を奪ったことが、直接のきっかけだったみたい」
そこから始まった神々の闘争を受けて“大災害”が起こり、それを境に世界は姿を変え、数いた神々の勢力図ががらりと変わって支配する力の再配分も行われ、最終的には世界の法則すらも変化させた……ということらしい。
「そうは言っても、僕たちみたいに“大災害”後に生まれた者からすれば、以前は違ったのだと言われてもあまりピンと来ないんだけど」
肩を竦めてカイルが言えば、ナイアラも頷く。
「だって、これが普通なのに、普通じゃないって言われてもねえ?」
「今、“大災害”前の世界を知ってるのは、一部の長命な種族だけだろう。もっとも、以前を懐かしむような者は自分の故郷に引きこもって出てこなくなってしまったようだが」
ヘスカンの言葉を聞きながら、やっぱり種族によって寿命はずいぶん違うのかと考えた。
それにしても、神々の争いで世界の法則が変わる? 神話か、と思って、そういえば、聞いてるだけならここは神話みたいな世界だな、とつい笑ってしまった。
町を出てあれこれとこの世界の話を聞きながら、不思議にフィットする履き心地抜群のブーツは、実は魔法が掛かってるものなのだと聞いて驚いた。そういえば、もう数時間歩いているのに、あまり疲れた感じがしない。
「……君はあまり筋肉が付いてないようだし、足も柔らかかったから、あまり歩き慣れていないんじゃないかと思って」
だから、長時間歩くことを補助するような魔法のブーツを用意したのだと、カイルがにっこり微笑みながら言うのを聞いて……。
「きっ、筋肉がないとか、柔らかいとか、いつ……あっ」
考えてみたら、昨日はずっと抱えられたままだったのだ。服は部屋着でぺらぺらだったし、そりゃあ意図せずともあちこち……あちこち……うあああ、つまり余分な肉のついた場所まで含めてあちこち、とまた頭を抱えて悶えだす私に、カイルが慌てて「大丈夫、疲れたらまた僕が」と肩を抑えた。
そこじゃない。問題はそこじゃないんだ。
「──カイル、ナイアラが」
悶える私を宥めるカイルに、イリヴァーラがなぜか緊張しているかのような固い声で小さく呼びかけた。
そのただならない調子に顔を上げると、少し前にいたナイアラが背中に回した手で何か合図を送っている。
カイルはその合図に顔を引き締めると、私を自分の背に庇うように後ろへと押しやった。「イリヴァーラとヘスカンから、絶対に離れないで」と、それだけを告げて自分は前に数歩進み出る。じりじりとカイルの横まで下がってきたナイアラが、小さく「前に3、左右に2ずつ」と呟いたとたん、前方から何かが駆けてくるのが私の視界にも入った。
同時に、カイルがすらりと剣を抜き盾を構えると、ナイアラは素早く横の茂みに飛び込んで姿を隠してしまう。イリヴァーラとヘスカンは私を挟むように立ち、朗々と歌うような抑揚をつけて、不思議な言葉の詠唱を始めた。
ナイアラが隠れた茂みの中からくぐもった悲鳴が上がり、私はびくっとそちらに目をやる。何が起こっているのかはわからないが、たぶんナイアラの悲鳴ではなかったはずだ。
前方では、カイルが翼を広げて駆けてきた何者かを迎え撃っていた。相手の振りかざす斧を盾で受け、ガツンと大きな音が響く。カイルが剣で横に薙ぐと、遠目にもわかるくらいに何かが飛び散ったことに身を竦め、あんな風に斬られてもまだ相手が倒れないことに驚き、思わず握りしめた手は震えていた。
3人を同時に相手取り、それでも押している彼は本当に強いのだろう。けれど、大丈夫なのだろうか。相手が振り回す斧が少しでも当たったら、絶対にタダじゃ済まないはずだ。
はらはらと周りを見回す私の横で、イリヴァーラが魔法を完成させると、ぼんやりと輝く、半円のドームみたいなものが私たちを覆い……すぐに右の茂みから稲光のような光が走った。まっすぐ自分に向かってくる眩い光に思わず「ひいっ」と悲鳴を上げたが、このドームのすぐ外側で掻き消えて呆然としてしまう。
──今のが、魔法?
「間に合ったわ」
ほっとしたようにイリヴァーラが呟いて、また腰に下げたいくつもの小さな袋を探りながら、次の魔法を唱え始めた。
私はここにこのまま居てもいいのかとふたりを見回すと、ヘスカンが目をじっと細め、私の頭をぽんとひとつ叩く。
「ここから動かないでください。怖かったら、目を瞑っていても構いません。でも絶対にここから動かないで」
強く言われて、私はただこくこくと頷く。さっきから膝がかくかくと笑い始めていて、腰が抜けそうだ。まともに殴り合うところすら見たことがない私に、この光景は刺激が強すぎた。
がたがたと震え始めていた私に、ヘスカンはさらに目を細めて自分のマントを外すと、頭からばさりと被せてしまう。
「守りの魔法がかかったマントです。これを被ってじっとしていてください。周りを見る必要はありませんから」
その後は、ガツンガツンと金属の打ち合う音や何か爆発するような音、さらには誰かの呻く声や悲鳴がずっと続いていた。何か音や声が上がるたび、恐ろしくて身体は震え、皆が心配なのに顔を出す勇気もなく……それが完全に静まるまで、マントを被ったままひたすらじっと蹲って我慢しているだけだった。
漂ってくる何かの焦げる臭いや生臭い臭いが、いやでもこれは夢じゃないのだと教えてくる。昨日からずっと、現実感なんて欠片もなかったのに。
「もう、大丈夫だよ」
カイルの声がしてマントをめくられ、私はまたびくっと震えた。
「怖かった? でももう賊はいない。もう心配ない。大丈夫」
そう優しく微笑むカイルを見上げて、彼の鎧に付いた赤いものに気がついて、伸ばそうとした手が止まってしまう。それに気付いた彼が自分を見下ろし、あちこちについた汚れを見て少し困ったような表情になった。
「ああ、これは返り血だ。ごめん、汚れてしまうね」
「……殺しちゃったの?」
それだけをどうにか呟く私に、カイルは首を傾げた。
「……襲ってきたのは悪魔王カルトの人間だった。悪魔に心酔し、他人を手にかけることを躊躇しない輩を見逃す理由はない」
迷いなくきっぱりと言い切るカイルに、ああ、ここではこれが普通なんだ、と思い知る。皆、伊達で腰に剣を下げたりしているわけじゃないのだ。本当に、ひとを斬るための道具なんだ。
「怖かった? もう安心していいよ、あまり泣かないで」
顔を拭われながら、私はどうしたらいいのだろうと考えていた。日本でぬくぬく暮らしてた私が、こんな世界でどうやったら生きていけるというのか。ひとどころか、動物すら殺したことがないのだ。たまたまカイルたちに拾われたから良かったけれど、帰れるのはずっと先になる可能性だってある。いつまでも彼らにくっついているわけにもいかないというのに、どうやったらこんな恐ろしいところで生きていけるのか、さっぱりわからない。
その事実をようやく実感して、私はへたり込んだまま立ちあがることもできなかった。
そんな私にカイルがひとつ溜息を吐くのに気付き、ああ、呆れられてしまったのかな、と思う。こんな臆病で厄介な一般人なんて、連れて歩いても足手纏いにしかならないのだし。
「大丈夫、君は必ず守るから、怖がらなくていい」
なのに、優しく囁かれて、またふわりと抱え上げられた。どうしてこんな状況でここまでできるのか、わからない。
「カイル、あらかた調べ終わったわ。さっさと行きましょう」
イリヴァーラの呼ぶ声が聞こえて、カイルが「わかった」と答える。慌てて動き出す私を押しとどめて「君はこのままで」と小さく言うと、また頭まですっぽりと私をマントに包み、抱え直して彼は歩き出した。
また歩きながら、今度はさっきの襲撃について彼らは話していた。
「悪魔王カルトがあんな風に偶然襲ってくるのは考えづらいわね」
「あきらかに待ち伏せてたもんねえ?」
カイルの胸甲に顔を伏せながら、ああ、あれは偶然じゃなかったんだとぼんやり考える。
「つまり、神託には悪魔王が関わっているとみて間違いないということだな。“九層地獄界”の業火の光景といい、納得できる」
噛み締めるように呟くヘスカンに、ナイアラが「カルトじゃなくて?」と尋ねる。
「カルト程度の動きであれば、神自ら神託を寄越すほどのことにはならないだろう。だが、悪魔王自身が関わってるというなら別だ」
「……面倒ね。なら、ルカを守ればいいだけでは終わらないってことなのかしら」
不意に名前が上がり、思わずまた身を竦めると、カイルはゆっくりと宥めるように私の背を撫でた。
「何かすべきことがあるなら、必ずわかるはずだよ。神は僕たちにできないことを押し付けたりしない。困難かもしれないけれど、僕たちにならできると判断して神託を下したんだ」
「ならいいんだけど」
イリヴァーラが冷めたような声で応じるのを聞き、同じ世界のひとでも、神に対する態度や考え方には温度差があるのだろうと感じる。彼女は“神託”に対して少し懐疑的なのだろうか。
「ともかくさあ、早いとこ次の町に行って、休もうよ。ここであれこれ考えたって、しかたないって」
ナイアラのいつもと変わらない口調に、なんとなくほっとする。逃避したいだけなのかもしれないけれど、早くここを離れてどこかに閉じこもりたかった。
昨日から、わけがわからないまま、ただ引っ張られるままについて来たけれど、私はそろそろ限界だったようだ。
あの襲撃で、私は本当に、どこか知らない異世界に来てしまったんだと、思い知らされていた。
次の町に到着して。ようやく宿屋に落ち着いた途端、ベッドに倒れこんでしまう。私を降ろしたカイルが「大丈夫? 疲れた?」と心配そうに声を掛けてくるけれど、とても返事をする気になれず、私はただ首を振るだけだった。
「ごめん、少し考えたいから、一人にして欲しいの。なんだかやっといろいろ実感してきてるっていうか……」
「ルカ……」
「ごめんね」
俯く私を、カイルが不意に抱え込むように抱きしめた。彼の白い翼までが、私を覆うように回される。
「ルカ、心配ごとや不安があるなら、僕に言って欲しいんだ。僕が君の力になる。君を守るのは、僕の役目なんだ」
でも、カイルがそうやって私を大切に守るのは、神が、彼に任せると言ったからなんでしょう?
言葉を飲み込んで、「ありがとう」とだけ口に出した。
そのまま眠ってしまっていたのか、ふと目を覚ますと部屋の中は真っ暗で……もぞもぞと自分を包んだままだったマントから顔を出すと、目の前にはナイアラの顔があった。
「あー、ルカちゃん起きたあ?」
うふふと笑うナイアラに呆然としてしまう。
「ナイアラ、どうして……言葉も……」
「寝る前にねえ、イリヴァーラに魔法かけといてもらったのお。そんで、ルカちゃん抱っこして寝たら、暖かいかなあって」
思ったとおりだったよと、ナイアラがぎゅうっと私を抱きしめた。尻尾がぺたぺたと、落ち着かせるようなリズムで私の身体を叩く。
「明日、カイルに自慢しちゃおうっと。ルカちゃんの抱き心地最高って。いい匂いまでするしい」
くすくす笑いながら私に頬ずりするナイアラに、なんだかほっとして……。
「ナイアラ、耳、触ってもいい?」
ん? と顔を上げて彼女はにいっと目を細めて笑った。
「ルカちゃんならいいよお。特別に、触らせてあげるねえ」
手を伸ばしてそっと触ると、ナイアラの耳も髪の毛も、とても柔らかくて、ふかふかで、さらさらと触り心地が良くて……。
「ルカちゃん、たいへんだったねえ」
いつの間にかぼろぼろ涙が溢れてた私を、またナイアラがぎゅうと抱きしめて、よしよしと頭を撫でた。
「ルカちゃんすごく頑張ったよお。あたしたちみたいな冒険者でもないのに、ちゃんとあそこに留まれたもんねえ。怖かったのに、えらかったねえ」
まるで小さい子供みたいにナイアラに撫でられて、うんうんと頷く。
「……すごく、怖かったの。殺すのも、殺されるのも、すごく怖いと思ったの」
ぽつぽつと話す私に、ナイアラはただ抱きしめて黙って頷いて、頭を撫で続ける。
「全然知らない場所に、私ひとりだけなの。
神とか、悪魔とか、知らない。なんで私が関係あるの? 神託なんて、私知らない。なんで私ここにいるの?」
「神様のことはわかんないけどお……そうだなあ、あたし、ルカちゃんいてくれて楽しいよお? みんなもルカちゃんのこと気に入ってるのは間違いないもん。まだ2日だけだけど、ルカちゃんのおかげでカイルもちょっと丸くなったし、ヘスカンも喋るようになったし、イリヴァーラもなんだか余裕ができたし、あたしルカちゃん来てくれてよかったなあ」
頭を撫でながらそう言ってくれるナイアラは、すごく優しく笑っていた。
「それにしてもお」
ナイアラが急にぷくっと頬を膨らませて、何かを思い出すような顔になる。
「カイルは前からおバカだなあって思ってたけど、ほんとにおバカだったんだねえ」
「え?」
「もうねえ、よりによって不安に苛まれてる女の子に、“神に任されたから”って、ほんっとーにおバカよねえ。神抜きでもっと気の利いたこと言えないのかって思うのよお」
「え? え?」
目を丸くする私に、ナイアラはひとりうんうんと頷く。
「そこじゃない、っていうの。あーもう、カイル、バカだけど、愛想尽かさないでねえ? あれで結構どころじゃなく、ルカちゃんにめろめろだし、将来も有望な聖騎士なんだあ。だから、ナイアラ一生のお願いねえ!」
拝むように両手を合わされて、私はちょっと慌ててしまった。
「そ、それよりも、私が呆れられちゃうんじゃないかって……何にもできないし……なんだかお荷物だし……」
「それは大丈夫よお。カイルがルカちゃんに呆れるなんて、ありえないんだから、心配しちゃだめー」
あっけらかんと言われて、ほんとにそうなのかな、と思う。でも、ナイアラのおかげで、少しだけ気持ちが軽くなったのは確かだった。