私を野球場へ連れて行って(後)(☆)
試合は八回表。野原君一人で投げ続けているからきっと疲れているだろう。
今日は制球が定まらないみたいで、それでも球の勢いはここに来ても衰えてはいない(これも、嵯峨君の解説による)。高校の時と変わらないその気迫溢れる背中には、幻の焔が見えるようだよ。
いくらランナーを背負ってても弱気になんかならないデッカイ人は、この回も一、二塁にそれぞれランナーを出したけれど迫力のピッチングに変わりはない。ちびっ子ファンは泣いちゃわないかなあの顔。私はときめくばかりだけど。
今打席にいるバッターは、ファウルで散々粘った後、球を野原君の足元に転がした。二、三塁に向かってそれぞれランナーがスタートしていたけれど野原君は慌てずに掴んで一塁へ鋭く送球。俊足と呼び声の高い打者がベースを駆け抜ける前にボールは一塁手のミットに届いて、そこでようやく三アウトになる。
うおおお、と、マウンドの上で鬼神が吠えた。
その咆哮で火が付いたのか、ようやく野原君のチームも攻撃し始めた。フォアボールを選んで塁に出た一人が盗塁に成功すると、続く打者もヒットで出塁。ここで一気に得点かと期待したけれど、その後は残念ながらきっちり抑えられてしまった。次は九回。――やっとここまで来た。長かったよ……。
「そろそろストッパーに交代かなあ」
私がそう呟くと、いつの間にか起きた反町君が赤い顔して「いや」と一言。
「あいつ完投する気マンマンだろ、だって」と、
そこで言葉を切って、私の顔をじーっと見る。ぎゃああやめてそういうの、顔、赤くなるから!
「だよねえ、好きな女にはいいとこ見せたいよねえ」
嵯峨君までそんなことを云い出してきた。
「でも今のとこ見せてないみたいだけど」と志保ちゃんが冷静につっこむと、元野球部の二人は同時に「あー……」と苦笑いした。
反町君と嵯峨君の見立て通り、九回の表も野原君が投げる。
頑張って、と手がいつのまにやらまた祈りのポーズだ。
なのに敗戦の女神の祈りなんて届かないのか、この回もランナーが一塁にいて虎視眈々とチャンスを狙っている。
一アウト二ボールでバッターの打った球は、鋭い当たりがピッチャー返しになって野原君を襲う。体に当たる、その直前で野原君がグラブで弾いたその球をカバーに入ったショートが一塁に送球してアウトになったけれど、その間に一塁にいたランナーは二塁に進んでしまった。
「見て」
嵯峨君が、挫けそうになる私をまた試合へと引き戻す。
「全部、見て。……あいつともし一緒になる気があるなら、見なくちゃ駄目だ」
一緒になるなんて、そんなおこがましい。
口に出してないのに表情に出ていたらしい。嵯峨君が「野原は野球選手だけど、でもただの男だよ、誰かが支えてやんないと駄目になる。で、その誰かって俺たちには鳥谷さん以外にいないと思ってるんだけど」と急に切り出してきた。
「……はい?」
よく分からないプッシュを突然受けて思考停止していたら、またもや野原君が打たれた。
カーンといい音がして、打球は内野手の間を抜けていく。二塁ランナーがホームに、打者は二塁へと進んだ。野原君のところに野手が集まる。でも本人はケロリとしているのを見て、くすっと笑ってしまった。
「案外、図太いよね野原君」
「ああ、だから次できっちり打ち取んだろ」
つまらなさそうに、でもバッチリ試合の流れを把握している反町君が、またビールを頼みつつそう云い切るから、何だか心が楽になった。
「図太くて勝負強いし、浮気もしないから安心して嫁に行くといいよ鳥谷さん」
「は!? 反町君までなんなの??」
私が慣れない言葉に目を白黒させていたら、志保ちゃんが「まったくあんたたちは」と眉を顰めた。
「この二人の話はスルーしていいからとにかく試合を楽しもう?」
「……うん」
そう云えば今日は志保ちゃんも変だ。何か優しいし何か……うまく云えないけど、笑顔がどことなく嘘っぽいんだよなあ。ま、気にしないでとにかく試合の行く末を見守るとしよう。
私が再びバックネット越しに野原君を見つめていたら、反町君の云った通り最後の打者は三振で仕留められていた。野原君が再び吠えた。
九回裏、最後の攻撃。ここで点が入らないと負けてゲームセットだ。
三〇分後、自分も野原君も笑ってるといいけどどうかな。
気が付けば皆真剣に試合を観ていた。反町君も、もうビールを飲んでない。志保ちゃんなんか野球のルールさえよく知らないと云っていたけれど、嵯峨君がその都度教えてあげていた。元キャッチャーは気配りの人だ。
一塁と三塁にそれぞれ走者を置いて、この大事な局面で出てきたのはやっぱりと云うかなんというか野原君だった。
「代打とか出さないの?」
嵯峨君に聞けば、「出しちゃうと延長になった時、野原を使えなくなる」と解答が返ってきた。
「でもだからって……」
もう休ませてあげて欲しい。そう思っていたら「あいつ、まだ諦めてないよ」と嵯峨君が云って、「そうそう、甘い球来んの待ってるよな」と反町君も同意した。
そうなの? バックネット越しに見えるその背中に、心の中で声を掛けた。ああ、とあの声で笑っているように思える。――なら、私も諦めないで応援しなくちゃね。
一球目、外角高めの球は、打ったけどファウルだった。二球目は見逃しのストライク。
三球目、低く内角を攻めた球はボール。それを見て「惜しいなぁ」と感心している嵯峨君。君はどっちの味方なんだ。
四球目、同じようなコースでまたボール。
五球目、投球がすっぽ抜けてしまったみたいでボール。――ボールカウント二ストライク三ボール、いわゆる『打者が追い込んだ』って奴だ。
次は六球目。ファウルで粘るんじゃない限り、泣いても笑ってもこれで終わり。
でも私は泣くことも笑うことも出来ずに、能面みたいな顔でただ野原君の後ろ姿を見ていた。
「野原―、力抜け―!」
突然、左隣にいた反町君が野原君に向かって大きな声を掛けた。バックネット裏からなら、声届くかな。――よし、私も!
「野原君、頑張ってー!」
そう声を張ったら、見えないけど野原君がにやりと笑ったような気がした。うん、これで少しは役に立てたかもとまだドキドキしている胸を押さえていたら、反町君が「何してんの鳥谷さん」と云ってきた。
「せっかく俺が力抜けって云ったのに『頑張れ』ってアンタ」
――ざっと血が引いた。え、もしかして私、すっごく余計なことしたかも!
「ど、どうしよ……」
三たび組んだ指が震えてしまうよ。
「ウルサイ、試合観ろ試合!」
志保ちゃんが漢らしく一言放って、私も反町君も慌てて背筋をピーンて伸ばした。嵯峨君は、じっと試合に集中している。
ピッチャーが、最後の球を投げた。
野原君が迷わずバットを振りぬく。打球がバットに当たったいい音がして、ライトスタンドの方に向かって飛んでいく。野原君は打球の行方を見送って、両拳を突き上げたままゆっくりと一塁ベースを踏んだ。
わあっと、最初の打席で空振りした時よりもずっと大きな歓声を受けて、二人の走者に続いて野原君もダイヤモンドを悠々一周してホームイン。
試合は、一対三で劇的な幕切れとなった。勝利を祝して白のジェット風船が乱れ飛ぶのを、どこか信じられないような気持ちで眺める。
「ね、諦めてなかったでしょ」
嵯峨君がおかしそうに笑いながらイヤホンをむしった。
反町君と志保ちゃんは二人の間にいる私を避けてハイタッチして、またビールを頼んで乾杯してる。
勝利の女神に、なってしまいました。うわ、信じらんない。一勝五敗じゃまだまだ『勝利の女神(仮)』、だとは思うけど。
それにしても本日の試合はとても観るのにエネルギーを消耗した。がっくりと俯いてしまう。体動かしてなくてもこんなに疲れることもあるんだね……。
「どうしたの、鳥谷さん」
そう聞いてきた嵯峨君に、「真っ白に燃え尽きた……」と呟くと、反町君がビールを吹いた。
チアリーダーのお姉さんたちの勝利の舞をまだぽーっとしたままぼんやりと見る。――あ。
「帰りの新幹線のチケット取ってないけど大丈夫かな」
志保ちゃんに声を掛ければビールを飲んでいるせいか答えてくれなかった。嵯峨君を見れば「大丈夫じゃない?分からないけど」とらしくない、いい加減な答え。反町君は、シャツについたビールをトイレで洗って来ると云ってぎくしゃくと席を離れた。なんなのまったく。
反町君がトイレに行っている間に丁度ヒーローインタビューが始まった。こちらを向いて設置されたお立ち台は意外と小さい。
男性アナウンサーが「放送席―、放送席―、」とお約束の台詞を口にする。お立ち台に呼ばれたのは、もちろん野原君。またもや歓声とカメラのフラッシュに包まれている。
あのデッカイ人が実は私の恋人だなんて、やっぱり信じられないような誇らしいような気持ちだ。
おめでとうございます、とアナウンサーに声を掛けられて、ありがとうございます、と帽子を取って野原君は頭を下げた。
――今日はなかなか苦しい展開でしたが、最後はご自分で決められましたね。
「今日はピッチングでいいところを見せられなかったので、せめて自分の手で勝ちを掴みたいと思って、そう出来たのでよかったです」
――この勝利を、どなたにお伝えしますか?
その問いに野原君は即答せず、ゆっくりとこちらに向き直った。そして。
「今日、大事な人に観に来てもらいました。無様なところは見せないと約束したのにこんなんで情けないですけど、その人に伝えたいです」
野原君の言葉に、女性ファンの悲鳴が被さる。反対に、男性ファンは手を叩き、いいぞ! と歓迎ムードだ。
歓声やら何やらが落ち着いた頃合いで、再びインタビューが始まる。
――では、その方に今のお気持ちをどうぞ。
マイクを向けられるや否や、ばちっと視線が合った。
「鳥谷ィ!」
わんわんと、球場内にエコーした声が響く。
「俺と、結婚してくれ!」
その言葉に、また悲鳴が上がる。
なんでこんな、人前で急に。そう思うと、顔が上げられない。
「鳥谷さん」
嵯峨君が、そっと声を掛けて返事を促す。いや無理。無理だよ。
「ねえ、知ってるう?」
いつのまにやら席に戻り、残っていたビールを飲み干した反町君がなんかのキャラクターみたいに云う。
「あいつ、鳥谷さんにしかサムズアップしないんだよ」
私、だけ? 思わず顔を上げる。じゃあ今までの全部、私だけにしてくれたの?
「ほら! ボーっとしてないで立って返事!」
志保ちゃんに云われて慌てて立ち上がる。途端に、ざっと周りじゅうの視線が自分に集中したのが分かった。ううう、怖いよう。思わず座ろうとしたら志保ちゃんが「駄目」って座らせてくれない。
「……そう云えば、三人はびっくりしてないね」と気付いたことを口にすれば、「今日、サプライズでプロポーズするから協力してくれって頼まれたからね」と、嵯峨君がしれっと云った。あれもこれも、君たちの今日の挙動不審はそれか! ぎっと野原君を睨みつければ。
さっきマウンドで鬼神のように恐ろしい形相をしていたデッカイ人は、静かな表情で私の返事を待っていた。
優しい顔。ちょっと困ったような顔。
私でいいの? 私は、嬉しいけど。――ちょっとものすごく、びっくりしたけど。でも私に『プロ野球選手の妻』は務まるの?
怯んでしまう。好きなのに『ごめんなさい』と返事をしたくなる。
しんと静まり返っている球場。皆、私の返答を待っていると云うことか。
もっと一緒にいたい。野原君を支えたい。それが結婚と云う形で、それを望まれたならば、何を迷うことがありましょう。
してもいないことを怖れてはいけませんよ。『プロ野球選手の妻』ではなく、『デッカイ族の野原君の妻』になることは、少しも嫌ではないのでしょう?
私の中の、小っちゃい族のお姫様がそう告げたから。
胸を張る。息を思いきり吸って。
「はい!」
野原君に届くように大きい声でそうお返事すると、途端に球場全体が沸いた。その中で野原君に向けて両手でサムズアップしたら、私に向けて左手のサムズアップが返された。私たちだけの合図。満面の笑みの野原君と同じくらい、私も笑えてるといい。
「おめでとう!」と志保ちゃんに抱き締められた。嵯峨君には「ああ、よかった。これでごめんなさいだったらどうしようかと思ったよ」と安堵された。反町君は祝杯を挙げる為にまた売り子のお姉さんに声を掛けてビールを買っている。
野原君から頼まれた球団の人が席に来てくれるまで、知らない人にたくさんおめでとうと云われて、ありがとうございますをその分返していた。
夢みたいな出来事だけど頭はやけに冷静。今日の対戦相手だった球団の熱烈なファンの父には反対されてしまうかな、とか、やっぱりお料理習いに行かなくちゃ、とか。
とりあえず今はこの涙を止めないと、って思うけど、野原君にぎゅうってされるまでは無理かもしれない。
肩のアイシングが済んだ野原君と球場の中の一室で再会して、ぎゅうってされるまで本当に涙が止まらなかった。やっと止まった時には志保ちゃんも反町君も嵯峨君もお砂糖を大匙四杯入れたコーヒーを飲んだような顔をしていた。
涙が止まって、頬に当たるシャツの感触ではっと正気に戻る。やばい、皆の前でいちゃついちゃったよ! とあわあわしている私を腕の中に閉じ込めたまま、野原君が「世話になった、ありがとう」と三人に頭を下げた。
「いいよ、気合いが入り過ぎてテンパって投げてる野原なんて珍しいもん見られたし」と嵯峨君がさらりと駄目出しをしたら、野原君が苦笑した。
「相変わらず厳しいな、幸太郎は」
「何なら俺も批評しようか?」
「や、酒臭い反町に説教されたくはない」
まるで普段通りの会話みたいになごやかだけどさ……。私のこと、離してくれないかなあ……。
じたばたしても筋肉の壁は分厚い。
「ちょっと、鳥谷ちゃんが嫌がってるじゃないの、離してやりなよ」
志保ちゃんの言葉に、野原君はじっとわたしを見下ろして、「嫌なの?」と聞いてきた。――そう云う聞き方は困る。だって、嫌じゃない。少し離してくれたらなとは思うけど。それに、嫌なのって聞かれて嫌ですって、プロポーズされてすぐには云いにくいと思うんだ!
結局、はっきりと嫌ですと云えなかったのでそのままでいたら、志保ちゃんに「……鳥谷ちゃん、あんまり甘やかさない方がいいよ。あと野原君はそう云うずるいのやめた方がいいと思う」とため息を吐かれた。
「今日、これからどうする? お礼に食事でもと思ってるんだけど」と野原君が切り出すと、嵯峨君が「あ、いい、いい、これ以上いちゃいちゃしてるとことか見たくないし、お前も早く二人にしろって思ってんだろどうせ」とあっさり断った。
野原君がにやりと笑う。
「やっぱり幸太郎は察しがいい」
「誰でも分かるって」
じゃあ、と部屋を出ていく三人と、「え?」ってびっくりしている私。くるりと志保ちゃんが振り向いて、「ごめんね、最初っから新幹線のチケット三枚で手配してたんだ、こうなると思ってたし」と云ってドアの向こうに消えた。地元で飲もうよ、なんて楽しげな会話がどんどん遠ざかる。
え、私も帰るよ、置いて行かないで。
そう思っていたら、「今日、一緒にいたい。駄目?」って、また志保ちゃん曰く『ずるい』聞き方で野原君が誘う。
「でも、そしたら帰り遅くなっちゃう」
「帰らないで」
「ん、で、でも」
二人きりになった途端、野原君はキスをたくさん私にくれる。またいい気持ちになってぽーっとして、野原君の欲しいお返事をしちゃう前にと私はきっぱり断ることにした。甘やかさない方がいいってアドバイスもされたし。
「だめだよ、人来ちゃうから、」
もうやめよう? って云おうとした言葉は、「じゃあ、二人になれるとこ、行こう」と見事にスライドされて、やっぱり野原君のいいようにホテルに連れて行かれることになってしまった。満足げな顔で車を運転する野原君は、遠い存在のプロ野球選手じゃなくて、確かに私がよく知る失礼なデッカイ人。人の意見なんて聞かないで。――私が躊躇しないように、あれこれ先回りする優しい人でもある。
明日は登板はないものの球場に行ってトレーニングはするから、やっぱりずっとは一緒にいられない。でも、朝は少しゆっくり出来るとのことだ。
関係をオープンにしたから、手を繋いでお出かけだってそのうち出来るね。そしたら、私まずはこの人のワードローブの管理をしたいわと、艶やかで上等な生地だけど柄が今一つなシャツを見てそう決意した。
「夏時間」内25話に続きがあります。28話に野球ボーイズ三人衆の話あり。
次の話は志保ちゃんです。
反町君はこちら→https://ncode.syosetu.com/n0063cq/34/