私を野球場へ連れて行って(前)(☆)
「クリスマスファイター!」内の「さよならトランペット」及び「如月・弥生」内の「サヨナラホームラン」の二人の話です。
鳥谷、俺の投げてるとこ、観に来てくれないか。
いまや恋人である野原君にそう誘われても、最初私はうんと頷かなかった。だって私が片思い時代にこっそり観に行った彼の投げた五戦は、〇勝五敗だったから。それを、彼も知っているのに。
――もし小っちゃい族のお姫様が観に来てくれるなら、無様なところは見せないから。
プロ四年目で、春には開幕投手まで務めたデッカイ族の人にそう請われて、それでも突っぱねられる程、私は色々と強くなかった。
『うん』て云うまで、すっごい粘ったなあ、野原君。
とうとうコクリと頷いた時のことを思い出すと一人赤面してしまう。しぶしぶと云うか、根負けしたと云うか、キスに負けたと云うか。
思いを伝え合ったのは二月の終わり。それから約ひと月すると野球のシーズンが本格的に始まって、宣言されていた通り試合で全国を飛び回る野原君とはそうそう会えなくなった。会えるのは東京やその近郊で試合があった日で、会うのだって彼の宿泊先のホテルに私もお部屋を取って、そこに来てもらう形だ。普通のカップルのように、外で手を繋いでデートして、と云う訳にはいかないし、普段OLとして都内で働いている私には、野原君の所属しているリーグの試合開催地はどこも遠く、土日にこちらで試合がある時の逢瀬に落ち着いた。
もっと会いたいとか、もっと一緒にいたいとか、ウィッシュリストには日々願望が増えていくばかり。
それでも、互いの手を取らないって云う選択肢は、やっぱり何度考えても、もうない。
高校三年の冬に、二人で示し合わせたように手を離した。正しい選択だった。でも、寂しかった。三年経ってこうして付き合えるようになるまでずっと。
どんなに会えない日が続いても、あれ以上寂しくなることはない。今は相手の気持ちを知っているから、寂しいけど平気。
野原君より先にチェックインして、ホテルの部屋で待つ。遅れること一時間、部屋に入ってくるや否や、いつも野原君はぎゅうと私を抱きしめる。デッカイのに、その腕でぎっちぎちに締め上げられることはない。優しく、でも少しだけ情熱的に、私がこうして欲しいと望む強さをくれる。
『会いたかった』と囁いて、寂しさを埋めてなお余るほどに、私のあちこちにキスをくれる。――そうやってどきどきしている間に『試合、観に来て』ってお願いされたら、誰だってきっと断れやしないよ。
『わ、分かった、から』
『何が?』
耳にキスされて、頬を撫でられて。
野原君の着ていたシャツに縋って、その薄い布地越しに固い筋肉を感じて。自分の胸がドキドキし過ぎて、どうにかなってしまいそう。
『しあい……』
『観に来てくれる?』
うんと云うまでこのあと激しくキスされるのか。それとも、云うまで唇はおあずけなのか。
どっちにしてももう降参です、とばかりに『……うん』と云えば。
『ありがとう』と、とても嬉しそうな顔をされた。それから、待望のキスが長く長く続いた。
甘い時間はあっという間で、早朝になれば野原君は私の頬にキスを一つ落として、自分のお部屋へ戻ってしまう。
行かないで。もう少しだけ、ここにいて。
この頃は、気が付くとそうわがままを云ってしまいそうな自分がいる。
案外、と云ったら失礼かな。デッカイ族の人はマメに連絡をくれる。主にメール、たまには電話で。あんなに手おっきいのに、ちまちまと携帯を操作するのかと思うとそれだけで愛おしい。
『勝った!』『負けた!』と届くメールに、『おめでとう!』『お疲れさま』とこちらも返す。今はこれくらいしか出来ないけど、なるべく野原君の負担にならないような形で、野原君のことを支えてあげられるようになりたい。そう思うけど、私が出来ることと云ったらトランペットを吹くこと、以上だ。そう気付いて、ちょっと落ち込む。でも、野原君は私が良いと望んでくれたんだから、『お料理を習ったってどうせ食べに来てもらえないんだもん』なんて拗ねてなんかいられない。
今の状態であと何か出来ることと云ったら試合を見に行くこと、か。うわあ、どうしよう。
『うん』と云ってしまってから、ほどなく私宛に書留が届いた。――開けると中には都合がいいと答えておいた日が印字された、試合の観戦チケットが四枚。しかもなんと、用意された席はバックネット裏だ。
同封されていた手紙にも目を通す。野原君の直筆を見るの、すっごく久しぶりだ。デッカイ族のくせに奇麗な文字。なのに便箋は球団のマスコットが描かれている物だった。色んなギャップに笑いながら、その文字を追う。
『一人だと悪目立ちするかもしれないし、皆でわいわい観戦すれば、きっと楽しいから』
その気遣いがとてもありがたい。とは云え、会社の人たちは誘えない。野原君とのことはオープンにはしていないから。
知っているのはうちの家族(一応、付き合う時に両親には伝えておいた。信じてなかったけど)と、二月のあの日クラス会にいた同級生たち。――この人たちに来てもらうのがいいな。そう思って、野原君と同じ野球部でキャッチャーだった嵯峨君と、四番打者で二月のクラス会の幹事を務めてくれた反町君、私の友人の志保ちゃん――三年前、二学期の終業式の時に送り出してくれたうちの一人――にお誘いの連絡をした。皆二つ返事で了承してくれたので、その旨野原君にもメールすると『気合い入れて投げる!』と勇ましくもかわいいお返事をくれた。
招待されたのは、彼の所属する球団がホームにしている球場での主催試合だった。交流戦なので、相手は普段対戦することのないリーグの、なんと去年の優勝チーム。早くも勝負の行く末が心配だよ。それでなくても私は敗戦の女神だと云うのに。
いつも試合は家や職場から比較的行き易い球場での観戦だったから、新幹線に乗って観に行くのは今日が初めてだ。
志保ちゃんと地元の駅で、野球部OB男子とは新幹線の駅で、それぞれ落ち合った。志保ちゃんをはじめ、友人とは同窓会以外でもちょくちょく遊んでいるし、男子二人もクラス会や同窓会にはマメに顔を出しているので『久しぶり―!』と云う空気にはならない。
四人で席を向かい合わせにしてずっとおしゃべりしていたら、新幹線は思ったより早くその駅に到着した。
駅を降り立つと、気温と湿度が少しだけ低い。暑がりの志保ちゃんが「こっち涼しいー!」と喜んでいた。――ここが、野原君のいるところ。
全国を飛び回っていても、今はここに帰って来るんだ。この景色を、野原君も見るのかなあ。同じ道を歩くのかなあ。それだけで幸せになっちゃう私、単純過ぎる。見る物すべてがキラキラしてるみたいに思えて、小さい子供のようにきょろきょろしながら歩いてしまう。
志保ちゃんは、クラス会&同窓会のたび、浮かれる私を意地悪いにやにや笑いで見るくせに、今日は何故か私のことを優しく見てくれている。なんなんだ。雨が降るよ。
一方、野球部男子は何やら野球の話題で盛り上がっているけど、ディープ過ぎてついていけない。嵯峨君も反町君も現在大学生で、今でも野球は趣味レベルでやっているとのことだ。私がまだ細々と続けているトランペットと似たようなものかと勝手に親近感。
試合開始時間より大分早いけど、私たちと同じく球場方面に歩いて行く人の中に、ちらほらとユニフォーム姿の人や球団のベースボールキャップを被っている子供の姿が見られる。デーゲームのせいかな、家族連れが多いかも。野球少年っぽい子がお父さんに「ねー今日野原投げるんだよねー」と話しかけているのを聞いてしまって、それだけで緊張しそうになっていたら「今から緊張したってしょうがないだろ」と、反町君に笑われた。
球場に着く。
慣れない球場のバックネット裏の席まで歩く。いったん席に荷物を置いて、それからお弁当やお土産を買うことにした。
嵯峨君は「弟の彼女が野原のファンだって云うから」と野原君の背番号の入ったレディースサイズのTシャツを買っていた。それを聞いて、私も買って今着ようかな、と思っていたら、次々にそのTシャツは売れてしまい、あっという間に品切れになってしまった。
ふと周りを見渡せば、野原君の背番号Tシャツを着ている人は多い。特に、小学生男子と二〇代の女性。アイドルのコンサートみたいな金のふさふさ付きの、野原君の写真入りうちわを持ってる人なんかもいて、思わずむうっとなってしまう。
すると、隣で球団マスコットのストラップを手に眺めていた反町君が、ぼそっと「いちいち気にすんな」と声を掛けてくれる。するとお弁当を買ってきた嵯峨君も、「そうそう。今リーグ全体で女性ファンが増えてるんだよ。人気あるの、あいつだけじゃないから」とフォローを入れてくれるけど。――私、心狭すぎ。
野原君がテレビのバラエティ番組に出れば必ず観てる。観て、『ファンなんですー!』って頬を赤く染めているタレントさんと、それを受けて照れている野原君にむっとしてる。
スポーツ紙に熱愛発覚か、なんて記事が載れば、そのたびに不安になる。野原君がすぐに『ウソだから』ってメールも電話もくれるから何とか信じてるけど。
だって、私はただのOLだ。大活躍の野原君にも、美人で頭の回転のいい(おまけに胸も大きい)女性タレントさんにもかないっこない。いくら気持ちは対等だとしても、不釣り合い過ぎて不安になる時だって、ある。
俯いてしまった私の頭を、志保ちゃんがパシンと叩く。
「おべんと買いに行こ?」
「……うん」
せっかく来たんだから、楽しまなくっちゃね。そう思って、顔を上げた。
――筈だったけど。やっぱり試合時間が近付くと、緊張する。
右横に座っている志保ちゃんが、ぎょっとしたように私を見た。
「ちょっと、鳥谷ちゃん、顔色悪いよ!」
それにつられて反町君、嵯峨君まで人の顔を覗き込んできた。
「あ、ほんとだスゲー青いし」
「ビール飲んでちょっと酔っぱらった方が気が楽じゃないのか」
「おねーさーん、生ビール四つくださーい」
あれよあれよと云う間にビールを持たされて、お昼間なのに皆と乾杯をした。冷たくてしゅわしゅわのビールが喉を通るとホッとする。アルコールの助けと志保ちゃんたちの気遣いで、試合が始まる頃にはマウンドに立つ野原君の姿をやっと見られる位に心が落ち着いた。
初回はコントロールがまだ定まらなくて、先頭打者からボールを連発。三者連続のフォアボールでいきなりノーアウト満塁になってしまった。ただ、その後の打者は打ち上げたファウルボールをきっちり取られたり、ゴロが抜けなくて一塁でアウトになったりで、何とか凌いだ形だ。
「心臓に悪い……」
攻守交代でようやく大きく息を付けた。なのに一回裏の野原君のチームの攻撃は、相手投手の冴えた投球であっという間に三人がアウトを取られた。
「おねーさん、生ビール一つ」
女子チームと嵯峨君はのんびりペースで飲んでいるけれど、反町君は一人かっ飛ばして飲んでいる。どうやら、売り子のお姉さんがお気に召したらしい。嵯峨君はそんな様子の反町君を横目で見てヤレヤレと云う顔をして見せた。その手にはイヤホンの挿してある携帯。なんで? と思っていたら向こうが気付いて教えてくれた。
「ラジオの中継聞きながら観てんの。球場だと実況ないから分かりづらいだろ?」と丁寧に種明かししてくれた。
「なるほど」
感心しているうちに、野原君の投げたボールが打ち上げられて、ぐんぐん伸びていく。あわやホームランか、と思いきや、レフトを守っていた選手がジャンプして球をキャッチ。ようやくスリーアウトだ。無意識に詰めていた息をは――っとロングブレスで吐いた。
駄目だ、ビールを飲んでもちっともリラックス出来ない。
でもそうだ、野原君のチームの主催試合ってことは投手の代わりに他の選手がバッターボックスに立つ指名打者制度が適用される筈で、攻撃の時には野原君が出てこないから少しだけ気が楽。
――と、思っていたのに。
「何でえええええ!」
思わず素で叫んでしまったけど、球場内の喧騒に紛れてくれて悪目立ちはしないで済んだ。
三回裏の攻撃。指差した先、大型スクリーンには次の打者が映し出されている。――野原君、だ。
物凄い歓声の中、バッターボックスに向かって野原君が歩く。何これ。
あれ、と何杯目かの生ビールで顔が赤い反町君が「なんだ、鳥谷さん知らないのか」とつっこんで来たけど知らない物は知らないよ。
「今年の交流戦は、セがDH制を導入してパが導入しないんだって」
「聞いてないよそんなの!」
野原君もひとっこともそんなこと云わないし!
「まあほら楽しみなよ、あいつのテーマソングなんて滅多に聞けないんだしさ」と嵯峨君が上を指差す。聞こえているのは、高校三年の夏とクリスマス、私が吹いたのと同じテーマソング。
うっかり泣きたくなるほど嬉しかった。
野原君が超珍しくバッターボックスに入る。一球目は豪快な空振り。球場がどっと沸く。スクリーンに映された本人の顔も苦笑い。嵯峨君がくつくつ笑って、反町君がゲラゲラ笑う。志保ちゃんは「なんか、バットが似合わないねえ」とのんびりビールを楽しんでいて、私は祈る形にしていた手をぎゅうぎゅう絞るようにして見ていた。
何球目かで、打ち上げたファウルボールはキャッチャーミットにすっぽりと収まって、野原君の打席がひとまず終わった。――売り子のお姉さん、リラックス一つ、いや一ダースくらい下さい。
試合は毎回ランナーを背負う苦しい展開で、おまけに味方の援護も殆どない。ただ相手チームも野原君のチーム同様、ランナーが出ても今のところ得点には繋がっていないので互いに苦しいことに変わりはない、と嵯峨君がちょいちょい教えてくれた。
膠着状態のまま七回表の守備が終われば、野原君のチームの攻撃の前には応援タイムだ。眼福なチアリーダーのダンスあり、マスコットキャラクターの微妙なコントあり。流されていた球団歌が終わると同時に、赤いジェット風船が球場のあちこちで飛んだ。
でも私は嵯峨君たちみたいに球団歌を歌ったり、志保ちゃんみたいに手を叩いて喜んだりは出来なかった。
――やっぱり、小っちゃい族の私は、デッカイ族の敗戦の女神なんじゃないか。
二月のクラス会の日は完封勝ちだったのに、今日の試合で双方ここまで点は一点も入っていない。でもやっぱり相手チームの方が毎回塁には出ている。
野原のチームはこのまま攻撃出来ないとちょっと厳しいね、と嵯峨君がラジオを聞きながら淡々と解説してくれる。反町君は飲みすぎて寝てしまった。
どうしよう、私の観戦記録はやっぱり〇勝六敗になっちゃうの?
帰りたい。今すぐ席を立ってしまいたい。『野原だらしねえぞー!』『しっかりしろよー!』と云う野次にいちいち泣きたくなる。
「鳥谷さん」
嵯峨君が、マウンドに立つ野原君に目をやったまま、静かに私に話しかける。
「目を背けないで、あいつを見てやって。カッコ悪いかもしれないけど」
「カッコ悪くなんか、ない」
私が弱弱しく反論すると、ふっと微笑まれた。
「ならいいけど。……甲子園と違うから。甲子園は負けたらそこで終わりだけど、プロはまだまだシーズンが続いていくから、負ける事をそんなに受け止めすぎないで」
「……難しいこと云うね」
苦笑した。早く、そう思えるようになるといいな。