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夏時間、君と  作者: たむら
season1
5/47

ねがいごと、ひとつ(後)

 去年の六月、あなたが転勤の内示を言い渡されてから、二人でこれからの事を真剣に考えた。

 あなたに私がついて行く事は出来るか。行かないで付き合っていく事は出来るか。

 ついて行く事は、出来なかった。彼が好きで、その気持ちだけで行ったとしてもここのように事務職とは別枠で司書職として採用を行っている自治体はまだ少なく、多くのところと同じに、あちらの自治体でも事務の職員になるための公務員試験がまず必要だった。そのうえ、人件費の抑制を目的に図書館の人員は正規職員ではなく非常勤や派遣社員に雇用を切り替えるところが増えており、彼の戻る辺りの自治体もそのような状況だった為、ここと同じ条件で司書の仕事をする事はかなり難しいだろうと予測した。

 結婚しても続けたいと願って就いた職だけに、専門職の司書として働いている今の座をあっさり捨てる事はどうしても出来なかった。その上、私は一人っ子だ。まだ元気ではあるけれど高齢の両親をこちらへ残して彼について行ったとして、それで手放しで幸せになれるかと云ったら自分には恐らく無理だろうと思った。


 ついて行かずに付き合う事も、結局は駄目になった。

 結婚を視野に入れた未来を自分たちの手で静かに潰した後、それでも互いになるべく負担がかからないように付き合っていくやり方について幾度となく話し合いを重ねた。

 相手を傷つけようと思ってそうした事は、もちろんない。あなたも私も。だけど、二人が同じくらいに疲れ果ててしまった日、いつも出来ていた気遣いをほんの少しだけ片方が忘れ、漏らされたその言葉をもう片方は刃として受け止めた夜が一度だけあった。

 その時、ふっと魔が差したように、気が付いたら『別れようか』と口にしていた。

 あなたも『そうだね』と云って、静かに了承した。あんなに話し合っていた『これから』が、全部なくなる。なかったことになる。

『ごめん、今のなし。別れたくなんかない』と云いたくても、一旦口に出した別れは撤回できる機会を逸したまま時間が過ぎて、そうしているうちに二人の中で決定事項になってしまった。

 どうしようもない焦燥感に身を焼かれる思いを何度もした。寝ても覚めても、あちらへついて行く架空の未来に思いを馳せて、都度そうは出来ないと再確認をして。


 二人に残された日々を使って、互いの部屋から持ち込んでいた私物を少しずつ撤退させた。自分の痕跡が薄れていく恋人の部屋に足を運んでは、それまでと同じように会話やセックスを交わしながら、恋が終わるのを静かにカウントダウンする日々。

 うやむやにフェードアウトするのも、けんか別れするのも、友人として関係を再構築するふりをするのもいやだったから、私たちらしく淡々と過ごして、それからきちんとお別れすると決めた。

 それなのに、一人になるとどうしても泣いてしまう。赤い目のまま職場に行けば、ずっとこちらの恋愛相談に乗ってもらっていた後輩が心配そうに私を見ていた。


『いいんですか』

 後輩が口にして、私を揺さぶる。

『いいの』

 やめて、と喚きたいのをぐっと堪える。

『まだお互いが好きなのに、こんなの、おかしい』

 そのまっすぐな気持ちが、今は眩しすぎる。

 この子だったら、きっと晴れやかな顔をして恋人について行くんだろう。取り返しのきかない、くだらない諍いなどしないだろう。

 でも私は彼女じゃないし、もう大して若くもない。

『いいの』

 自分に言い聞かせるようにぽつりと呟けば、もう後輩もそれ以上は追い打ちをかけないでくれた。


『はい』

 六月末の旅立ちの朝、すっかり物が片付いた部屋で、あなたは私に一枚の紙片を渡した。

『これ、笹に吊るしておいてくれ』

 ――幸せな人生を送りますように、と書かれた短冊。あなたに『書いておいてね』とお願いしておいたものだ。

『結局、最後まで君の事しかお願いしなかったな』と笑うあなたに、あちらでもどうかお元気で過ごせますように、と記した私の短冊もお返しに見せて『私も』と告げる。

 エール交換のような互いの願い事を静かに見つめた。二人とも泣き笑いのような変な顔で、それでもなんとか笑った。


 最後に笑顔になれて、本当によかった。

 最後に笑顔にしてくれて、本当にありがとう。

 ああ、本当にお別れしちゃうんだなあ。

 私たち、まだこんなに寄り添っているのになあ。


 有休をとっていたので電車を乗り継いで空港までついていく事も出来たけれど、『空港で見送られたら泣いてしまう』と彼は最寄りの駅までを望んだ。

 二人で部屋を出てゆっくりと向かう。手を繋いだ最後の二人歩きは、道に迷う事もなく一〇分足らずで終わってしまった。

 ICカードを使って改札をくぐろうとしたら、『ここまで』と制された。

『分かった』

 私は今、うまく笑えているだろうか。

『元気でね』

『君も』

 私よりも柔らかく笑った後、あなたは振り向かずに改札をくぐり、ホームへの階段を下りて行った。その後ろ姿も好き、と思ってしまう。


 急行電車が何本も過ぎて、あなたがもう絶対ここにはいないと頑なな心が納得せざるを得ない程時間が経ってから、私ものろのろと自分のアパートへ歩き出した。


 私たちは終わった。

 その事がこんなにも悲しいのに、世界は美しいままだし、なくなったりもしない。

 世界の片隅で、恋が一つ消えた。それだけの事だ。



 一年前の事を思い出せば、浮かれた心も少しは鎮まる。

『離れているなんて、やっぱり、無理だ』とまだ好きでいた相手に告げられて、嬉しくない訳がない。それでも私はゆるゆると首を横に振った。

「傍にいるのも無理、でしょう?」

 好きだけど一緒にはいられないと云う分かり切った答えを、また突きつけられるのはごめんだ。

「傍にいられるいい方法があったら、教えて欲しいくらいよ」と冗談めかして笑うと、あなたはすっと立ち上がり、ポットの置かれた台の方へと歩く。そして。

「あるよ」

 さらりと投げ込まれた爆弾に驚いている私と対照的に、あなたは落ち着いた様子でポットからドリップバッグを乗せてあるカップにお湯を注ぐ。コーヒーの香りがこちらまでふわりと漂ってきた。

「一年前には無理だったけど、今は一つだけある」

「……何?」

 私にカップを手渡してから、あなたは自分の前に静かにカップを置いてふたたび座る。そして、まっすぐに私を見た。

「俺が、こっちに来ればいい」

 そう告げられて、一瞬頭が真っ白になった。

「……そんな、どうして、」

「あの時は転勤を言い渡されていたから、あんなアンフェアな条件下で君に別れのカードを引かせるような事になった。その事を、ずっと後悔してた」

「それは社会人だもの、お互い様でしょう?」

「でも君には、県を跨ぐ異動はないだろう?」

「そうだけど、でも、」

「俺、ここが好きだよ」

 あなたが、唐突に、だけど静かにそう口にした言葉が、嘘じゃないのは知っている。

 いいね、細い道とか多くて車だと辛いけど、俺、ここが合ってるみたいだ。

 付き合っている頃そう聞いて、自分が褒められたみたいに嬉しかったのを覚えている。

「もちろん地元も好きだけど、こっちでずっと暮らせたらって云う思いは、いつもあった。向こうに戻ってもそれは消えなかったし、それどころかますます強くなってた」

「でもまだ戻って一年じゃない、私との事だけでここに来るなんて、あなたにそんなの出来る筈がない」

「うん、でもね」

 あなたが、いたずらっぽく笑う。

「俺の会社の社長、若くてワンマンな人なんだけど、俺この間その人に物申しちゃったんだ」

「え!?」

「今の二代目社長になってから、本社では誰も正しい事を正しいって云えなくてね。云った幹部がもれなく降格もしくは左遷したの見せつけられて下も委縮しまくってる。君に会えなくなるって云う代償を支払ってまで戻った会社は、俺がいた頃の自由闊達でざっくばらんな雰囲気の、上も下も関係なく皆でいい仕事をしようっていうところじゃなくなってて、すごくがっかりしたし悔しかった。それでも、同じグループの同僚と『がんばろう』ってコツコツやってたんだけど、ほぼ本決まりだった企画を社長の一言でひっくり返されて、ぷちってなっちゃってね」

 にこにこと、怖い事を云う。

 物静かだけど決して大人しい訳じゃない人は、相変わらず仕事には熱かった。

「企画書持って社長室に直談判しに行って、ついでに今の会社が抱えてる問題点と改善策を端から全部レポートにしたのも提示して、それで」

「それで?」

 思わず身を乗り出して聞いたら、あなたはコーヒーに口を付けながら、「企画には、ゴーサインが出た」と思わせぶりに云う。

「それで、あなたは」

「それを通す代わり、もう本社にはいられない事になった」

「……」

「直談判の前にこっちの支社長に相談したら、『爪弾きになったら引き取ってやるから、存分にやって来い』って云ってもらったからそう出来たんだ。ただし、もう本社に戻れない事は覚悟しろ、って引導を渡されちゃったよ」

「そんな事をして、社長さんの権限で、あなたクビにされたりしないの?」

「支社長が社長の叔父に当たる人でね、ワンマン社長が唯一頭の上がらない存在なんだ。彼の庇護下に置かれていたらさすがの社長も手出しは出来ない。支社長が辞めたらどうなるか分からないけど、それまでにせいぜい力と味方を付けておくとするよ」

 なんて人。そこまで計算づくで一矢報いてこちらに来るだなんて。

「そんな訳だから、俺、またこっちに配属される事になった。今日はその打ち合わせで来てたんだ」

 ばかな人。もっとうまく立ち回ろうとすれば出来たでしょうに、追い出されるような事して。

「……私の事と会社の事は別かもしれないけど、ここまでしたのに私にもう恋人がいたらどうするつもりだったの?」

 むしろ私の事はついでかもしれない。それでいい。本社に戻り、出世街道を歩んでいた筈の一人の男の人の人生を(わたし)の存在が大きく変えてしまうとか怖すぎる。

「いないって君の後輩の子から聞いてたから、今日迎えに行けたんだ。もしいたら黙って身を引いてたよ。それで、なるべく君に会わないようにここで生活してたと思う」

 図書館を出る前、後輩が『ごめんなさい』と謝っていたのは、私の恋愛事情漏えいも含んでいたか。まったく。

「こっちに戻るって伝えたくて、でも君の携帯の番号は消してしまっていたから、申し訳ないけど図書館に連絡をした。電話を取ってくれたのがあの後輩の子で、名乗った途端に『お話なら、私がかわりに伺いますが、今は仕事中ですので仕事が終わり次第折り返させていただきます』って切られて、その後携帯にかかってきた電話で、あの子にめちゃくちゃ怒られたよ。なんであの時別れたんだ、今更何の用だ、先輩を傷つけるなら会わせない、って。君は慕われてるんだなあって、怒られながら俺、嬉しかった。結局、今日も俺が行くまで君を引き留めてくれたしね」

「何をしているのよ二人とも……」

 頬杖をつくふりをして、赤い顔をごまかした。


「急がないでいい。ゆっくり考えて、返事をして欲しい。……結婚を前提に、もう一度付き合ってくれないか?」

 諦めていた言葉。朽ちていく筈だった恋。

 テーブルに、短冊が出される。見覚えのある字で、『君の傍にいられますように』と書かれてあるそれを、胸に引き寄せて、両手で握りしめる。

「くしゃくしゃになっちゃうよ」

「そうしたら、また書いて。毎年、書いて」

 あなたが、息を呑んだ。

「傍に、いてくれるんでしょう?」

「……もちろん。でも、そんな即決でいいの?」

 あなたの気遣わしそうな顔を見る。

 私、うまく笑えてるかな。去年と同じ事を全然違う気持ちで思う。

「一年かけて、盛大に後悔してた。あなたの手を離してしまった事」

 コーヒーカップの横にゆるく拳を握っていたその手に、私の手を乗せる。すぐに熱烈にハグし始める二人の手。指で相手の指を撫ぜて、絡めて。

「だからごめんね、あなたがここに戻って来てくれるって聞いて、嬉しいの。ごめんなさい」

 会社のアレコレを聞いたら、本当は彼の会社での今後の立ち位置やら何やら、心配するのが先だろう。なのに、やっぱり浮かれてしまう。恋のはじまりみたいに。

「そう云ってもらって、よかった」

 あなたは笑って立ち上がる。繋いだままの手を引かれて、私も一緒に立ち上がる。

 抱き寄せられると、ちょうど目の高さにあるホクロ。少し背伸びをして、そこに口付けた。

「……俺には?」

 拗ねた唇にももちろん、口付けてさしあげた。



 翌朝、ホテルから程近い彼の古巣に彼が打ち合わせのために今日も出勤するのを、朝が弱い私はベッドの中から見送った。今日は休みなので慌てる事もない。

「もし予定がないなら、お昼一緒に食べないか?」

 そう誘われて、「うん」と半分くっついた目のまま笑ってお返事した。

 あなたはそんな私の頬と頭をすっと撫ぜて、「後でまた連絡する」と軽いキスを落として出て行った。

「いってらっしゃい」

「行ってきます」

 そう、云った筈なのに。

 ドアの前で突如立ち止まったあなたは「あー、駄目だ」と呟いて床にブリーフケースをやや乱暴に置くと、早足でこちらに戻ってきた。片膝でベッドにぐっと乗り上げ、腕立てのように両手を私の脇に据えて「早くそれ毎日聞けるようになりたい」と告げるや否やさっきとは打って変わって濃厚なキスを仕掛けてくる。まるで昨日の夜の続きのような。

 朝だと云うのに遠慮のないその長いキスに、それ以上を始めてしまうのではないかと私が慄いていたら、「……キリないな。行って来る」と覆い被さっていた体を私から剥がして、今度こそ本当に部屋を出ていく。

 遠くなるあなたの背中が、今は悲しくない。それが嬉しい。

 今日ここへもう一泊して、明日の夕方にあちらへ戻るとの事だった。だから、明日の朝までは一緒に過ごす事にした。

 一回家に帰って、洗濯やら掃除やら済ませて着替えもしなくちゃ。そう思ってはいても、久しぶりの夜に疲れた体は心地よいベッドの誘惑に負けてだらだらしてしまう。


 本社から出される事が決まった彼だけど、会社としては今すぐ放出と云う訳にもいかないらしく、こちらでの勤務は八月から。それまでに二人で暮らせる広さの住処を探すつもりだ。彼も休みに一度は来て自分も動くと約束してくれた。

 昨日までの喪失感が嘘みたい。でも、なんだかちょっと都合のいい夢みたい。

 あんなに泣いたのに、また泣けてくる。嬉しくても悲しくても、感情の針は振り切れると、どうやら涙になって溢れるらしい。

 愛しい人。もう二度と手放したりするものか。選択は、一年ぶりに択び直されたのだから。

 明日出勤したら、後輩にお礼を云わなくちゃ。きっとランチの一時間、どうなったのか追及されてしまうけど――もしかしたら、それだけでは済まずに閉館後に追及第二弾があるかもしれないけれど、たぶん山程心配させてしまったから、彼女の気の済むまで受けて立つつもり。


 ずっと傍にいられますように。


 私の手ですっかりくしゃくしゃにしてしまった短冊の、あなたのその願いを私も祈る。

 来年からは、これが二人の願い事だ。ただ願っているだけでは駄目で、結婚するまでもしてからもたくさんの努力が必要なのだろう。でも二人なら笑って歩いてゆけるんじゃないかと、そう楽観的に考えられるのはきっとあなたとだから。

 まだここにあなたが帰ってくる事になっただけ。それなのに、何でも出来るような無敵の気持ちになるなんて本当に単純だ。


 荒れ果てていた私にあなたが雨を降らせば、枯れていた木が芽吹き、花が咲いた。姿の見えなくなっていた鳥が戻り、実を啄んでは、高らかに歌う。

 昨日の雨はすっかり上がって、窓の外には青空が広がっている。ビルの谷間を行く鳥は、私の中から飛び立っていったように思えて胸がすいた。迷わず飛んで行けと見送って、私は目を閉じる。


 お昼まで待てずに、私はあなたに会いに夢の中へゆく。

 枕に残る微かなあなたの香りが、私を包んで優しくエスコートしてくれた。


続きはこちら→ https://ncode.syosetu.com/n0063cq/14/

「夏時間」内22話に後輩の話があります。

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