ハートの『は』
会社員×会社員×会社員
「は――……。今日の新明さんも、すっごくかわいかったぁ……!」
行きつけのバーのカウンターで、我ながら満足成分しかない声を漏らすと、隣に座った同じく常連の春洋くんが「またそれですか、はいはいよかったですねー」と雑にコメントを投げ返してきた。
「もっとちゃんと聞きたまえよ春洋くん」
「聞き飽きたんすよ真昼さん」
毎回飲むたびに報告してるからね。
新明さんは、取引先の方。この春に今の営業所に異動してこられて、主にわたしと電話でやり取りをしている人だ。お会いしたことはないのでどんなルックスなのかは知らない。でも整った容姿を想像しちゃうくらいにはいい印象を抱いてる。
艶のあるやや高めの声は、電話口でもいつも聞き取りやすい。はっきりと、でも落ち着いたテンポで話してくれるから。ぼそぼそもにゃもにゃしゃべる取引先はみんな彼を見習ってほしい。
「それにしても真昼さん、よく声しか知らない相手にそれだけ入れこめられるもんですね」
「声だけでも、充分伝わってくるからだよぉ、新明さんの人の良さだとか、かわいらしさだとか」
「かわいらしさ」
「今日はね、『不思議の『ふ』って言ったんだ新明さん」
「……それが?」
春洋くんが全然わからん、て顔をしたので説明してあげることにした。
弊社を含めた同業の電話仕事では、昭和の時代から脈々と伝わる符丁の文化がある。電話だと伝わりにくく混同しやすいお名前――たとえば『佐藤』『加藤』の区別を付けたい時、『砂糖のさ』『カラスのか』と言う、みたいな。
「符丁に使う言葉に決まりはないから何を使っても自由なんだ。『ふ』だと『ふな』って言うおじさんもいるし」
「ふなって」
ぶは、と笑うと目尻の皺がぎゅっ! と寄ってかわいい。にこにこ眺めていたら気がついて変顔するので、酒を噴きそうになった。
「口に入ってる時に笑かすのやめてよね。小学生みたいだなやってることが……」
「シンミョーさんとは違うって?」
「大違いでしょー! でも、春洋くんのこと好きだよ」
「えっ、」
「よき飲み友として、これからも末永くよろしくー!」
かんぱーい! ってグラスを高々と掲げたのに、なぜか春洋くんは「……はいはいはーい」とやややけくそなお返事をよこして、こっちを見ずにグラスだけカチンと軽く合わせた。
その一部始終を眺めていたマスターは、カウンターの向こう側で自分の煙草の煙にむせながら笑ってた。
新明さんの符丁コレクションは、続々と増えつつある。
あひるのあ。いちごのい。うさぎのう。エクレアのえ。オルガンのお。あ行が無事にコンプリート出来た時には、嬉しすぎて電話のこっち側でガッツポーズしそうになった。職場でそうしないかわりに、一つコレクションが増えるたび、飲みの席で春洋くんに『今日のも秀逸にかわいらしかった!』と熱く語ってしまう。
「でもなんであんなにキュートな言葉をチョイス出来るんだろ。かわいいものがお好きなのかなあ」
「俺じゃなく本人に聞いてくださいよそういうことは」
「聞けないって! 仕事の電話なんだし、そもそも他社の人だし!」
「本人もまさかこうして酒席のネタになってるとは思わないだろうしね」
春洋くんに混ぜっ返されてはっとなった。
「……そうだよね。知らないとこでこんなネタ扱いされてたら、いい気しないよね……」
お塩を振られた青菜ほどしょげると、春洋くんが慌てる。
「や、べつに真昼さん仕事上の極秘情報を垂れ流してるわけでなし、悪口でもないし、セーフじゃないすか? ね、マスター!」
「うんまあ、春洋くんがそう言うならそうなんじゃない?」
「? ふうん」
とりあえずしっかり者の春洋くんと経験豊富っぽいマスターに太鼓判を押されたので安心した。
連日猛暑の予報が出て、このごろは夜になってもなかなか気温が下がらない。ずっと暑くてやんなっちゃうねなんてことを挨拶代わりに同僚と交わしてから、新明さんともそんな会話をするのかなあって想像してちょっと笑ったタイミングで電話が鳴る。
「芹沢さん、一番にお電話です」
「はーい」
噂をすれば新明さんからだ。毎日いろんな取引先から電話がかかってくるけど、やっぱりこの人は特別に嬉しいなあ、なんて思いながら「お待たせしました」と出た。
電話の向こうの新明さんの声は、いつものシルキーさがやや影を潜め、かさかさしたものだった。話す間、時折謝りの言葉を口にしたあとに咳のような音もちいさく聞こえた。
『すみません、風邪を引いたみたいで』
「あらら」
そういえば春洋くんも『ごめん夏風邪』とメッセージが来て、いつものバーでの飲みを欠席してたなと思い出す。
「最近流行ってるみたいですし、どうぞお大事に」
『……お気遣いありがとうございます』
こんな時まで丁寧じゃなくてもいいのに。もどかしい。
「ねえ真昼さん、次何にするの」
あれから、新明さんの声が聴けてない。今週は月曜から金曜まで研修を受けてて事務所にはほぼいなかったから。今までだって、必ず毎日電話でやり取りしてたわけじゃないのに、丸一週間あいただけでこんなにそわそわしちゃってる。
「ねーってば」
元気になったかなあ。春洋くんは、まだ少し声が掠れてるけど今はもう元気いっぱいでほっとしたけど。
「ま・ひ・る・さーん」
「!!!!」
ぼーっとしてたら、春洋くんが隣からうんと身を乗り出してわたしの顔を凝視してた。近いってば。あとほんの少しでも寄ったらキスしちゃえそうで、慌てて離れた。
「ごめん、ちょっと考え事。生ビールにしようかな」
「だってマスター」
「はいよ」
気の抜けるような返事をよこして、マスターが生ビールを注いでくれる。その左手の薬指には、年の離れた恋人ちゃんとの婚約指環。――新明さんはどうなのかなあ。そういう人がいたりするのかな。
そんなにまじまじと見つめてたわけじゃないし、思ってたこと口に出したわけじゃないのに。
「まーたシンミョーさんのこと?」
そう指摘されてごまかせなかった。慌てて「なんでわかるの春洋くん!」っておどけてみた。でも。
「なんででしょうね――」
あっ不機嫌。抑揚ないしゃべり方で語尾伸ばす時は大体そう。
「機嫌直せよ~」
「あっ、ちょっ!!」
きれいに整えられた髪の毛を混ぜる勢いで撫でたら、「もー! そうやって人に気安く触るの禁止!」と怒られてしまった。
「ごめん、やだった?」
「気のない人に触らせる気はないんで俺」
「おぉ、かっこよ」
「……子供っぽいとか思ってんでしょ」
「思ってないよ、いいじゃんそういうまっすぐなのあこがれちゃう」
「あこがれてんじゃねーよ」
頬杖+そっぽでそんな風に言われて、もっと撫で繰り回したくなっちゃったけど、さすがにめちゃくちゃ怒られそうで自重した。――うん。
ほんとは、ほんとに感動したの。そういうのまっすぐで綺麗だなって思って。ぜんぜんバカにしてるとかじゃなくって。
ウイスキーのグラスにごろっと入った氷がゆらゆら溶けてゆくのをぼーっと眺めるみたいに、そんな気持ちを嚙みしめてた。
「真昼さんのさあ、そのシンミョーさんに向けてる感情ってなんなの?」
だから、春洋くんの問いに目を向けるのがちょっと遅れた。
「感情」
「そ。ヒトの気持ちにケチつけんの野暮だなって思うけど、真昼さんなんか危なっかしくって。相変わらず直接会ったことないんでしょ」
「ないねえ」
「幻想抱いちゃってない?」
「どうだろねー」
けむに巻くような回答ばっかしてたら「……すいません、やっぱ俺口出しすぎ」と気まずそうに背を丸めた。
「いーのいーの、春洋くん心配してくれてんのわかるもん。でも感情かあ、考えたことなかったなあ、かわいいなあと品がいいなあと感じがいいなあって思っただけで」
自分でもおいおい大丈夫かと思うくらいに好感情のオンパレードで、春洋くんが心配するのもわかっちゃうね。
自分の感情と向き合うことってあんまりない。春洋くんのややスパイスつよめの言葉(たまにマスターからたしなめられてる)にカチンときてもけんかになったこともない。きっと人より気持ちが上下しにくいんだろうなわたし。
過去に付き合った人も、向こうから告白されたり、友人に『嫌いじゃないなら付き合ってみたら?』って勧められて『そういうもんか』と乗ってみたケースばかりだ。案外悪くなかったこともあるし、乗り換えられたこともあるけどやっぱり『そういうもんか』とその都度納得して終わった。
ちりちりでもぼーぼーでも、情熱を燃料に心を燃やすっていうのは残念ながら未体験。新明さんに対して抱いている感情も、どっちかっていうと、春の陽だまりだったり、一本のともしびだったり、ぽっと心が温まる感じが近い。
それは、恋なのか、恋じゃない何かなのか。
マスターと楽しそうにプロ野球の話で盛り上がってる春洋くんを盗み見る。とびきり素直で、目尻の皺をぎゅっ! と寄せて笑う、かわいいとかっこいいがいい具合にブレンドされてる年下の男の子(子って言っても成人してるし社会人だけど)。わたしより長くこのバーに通ってて、だからといって先輩風を吹かせることもマウント取ったりすることもなく真昼さん真昼さんって懐いてくれた。
口が悪くて、でもその言葉の裏ではいっつもわたしのこと心配してる。
そんな人を、いいなと思わないわけないと思う。こっちも新明さん同様、ちりちりでもぼーぼーでもないけど――それでもわたしは今、新明さんと春洋くんの二人を同時に気になっている。
ふたごころなんて、自分の人生に起きるなんて想像もつかなかった。でもどっか他人事で、すごいなぁドラマみたいだ、なんて思っちゃう。
うーん。これはいったいどうしたら。
新明さんの『し』は、しるしの『し』。春洋くんの『は』はハートのは。新明さんの符丁をなぞらえてみたけど、そうしてみたところでいい案はこれと言って思い浮かばなかった。
熱い道路の上でゆらゆら揺れる陽炎みたいに、はっきりとした輪郭が描けない気持ちを抱えたまま一週間を過ごして、また週末がやってくる。
「どうしたんですか真昼さん、今日はシンミョーさんレポートがないじゃないですか」
「うん、そうだったねえ春洋くん」
「もしかして、冷静になって『ないわー』って気づいた?」
「それこそないわー」
「じゃあ何?」
何でも聞くぜという態度の春洋くんに甘えたい口が、するっと開く。
「あの、これは友達の話なんだけどね」
「その例え、自分の話なんだって言ってるも同然なんすけど」
ミックスナッツを口に運んでた春洋くんに思い切り呆れられちゃったので、いいやとすぐにその設定は打ち捨てた。
「わたしって気の多い不実な女なのかも」
「……何事ですか」
「二人の間で揺れる女ゴコロなんだよう」
「その二人って――まあ片方はシンミョーさんか」
「なんでわかるの春洋くん!」
「なんでって……それより、もう一人って俺の知ってる人っすか」
「あーどうだろねー」
あからさまにごまかしたけど、それ以上は深追いしないでくれた。
「どうしたらいいと思う?」
「告ったらどうですか」
「はい?」
「一人ずつ打ち明けてって、いい返事した方と付き合う」
「え――……」
「不誠実とかって思ってます? 真昼さん」
「それより、両方から望まれたらどうしようって思ってるよ春洋くん」
「自己肯定感が暴走してんなあ!」
ぶは、と笑う。目尻の皺がぎゅっ! と寄る。やっぱりかわいいそれを眺めながら、「しないよ告白なんて」と言った。
「しないんですか?」
「ムボーすぎるもん」
平日の新明さんとの電話越しの会話。週末の春洋くんとのほろ酔いの会話。二人は、もうわたしにとって生活に欠かせない両輪になってる。どっちかが欠けるなんていやだ。両方ダメだったらもっといや。
神様どうぞ新明さんと春洋くんをわたしから奪わないでください。それ以上は望まないから。ほんとうに。
「このままがいいよ」
嘘じゃない。強がりでもない。
静かにウイスキーをちびちびしてるわたしに、春洋くんは「真昼さんがそう思ってても、向こうも同じとは限らないですよ」と怖いようなことを言う。
「やめてよもっと親身になってよ」
「じゅうぶん親身でしょうが。でも実際に、シンミョーさんが目の前に現れたらどうなるんでしょうね」
どうなっちゃうんだろうね。
まー、そんな機会はそうそうないけどね。
ないはずなんだけどねえ。ふつう。
新明さんの会社の創立記念パーティーのご案内が来た。きちんとした会合だし誰か自分より上の人が行くんだろうなと思ってたら、「みんな出張だったりほかの会合に行ったりで都合つかないから、悪いけど芹沢さん頼むね」って有無を言わさず行かされることになった。知らないおじさんたちと円卓を囲む(しかも女子は自分一人で)んだったらすごいやだーと思ったけど、立食形式だったからまあいいか、と承諾した。もしかしたら、新明さんに会えるかもだし。会えないかもだけど。
受付を済ませて、早めに会場へ入る。まだまだ始まらない上に雑談できる相手もいないし、かといってこういうとこでスマホばっかりずっといじってるのもどうなんだろ、と思いつつ壁際に立ってぼーっとしてた。何とはなしに視線を落とすと自分の足元が目に入る。あっ、パンプスの先がちょっと汚れてる。ちゃんと磨いてきたつもりだったのに……。まあでも誰も見ないだろうからいいか。なんて考えてたら。
「芹沢さん」
艶のあるやや高めの声に、弾かれたように顔を上げた。そこにいるのはスーツ姿のにこやかな――
「初めまして新明です――って言うのも変か、いつも僕と芹沢さん、電話口でやりとりしてますしね」
はは、と笑うと、目尻の皺がぎゅっ! と寄ってかわいい――って、え、なんで、あの、えええ???
「は、春洋くん、」
「はい」
「が、新明さん、ってこと???」
「そうなりますね」
「えっだって話し方全然違うじゃん!!!」
「そりゃ仕事ですから――そろそろ始まるみたいなんで、話はまた後で」
そうささやかれて、心臓が跳ねた。
社長さんのスピーチを並んで聞くけど、真隣りの人が気になりすぎて内容はちっとも入ってこない。周りに合わせて拍手をして、それから配られたシャンパンで乾杯もして、少し会場の雰囲気が緩んだところで「わたしの隣にいていいの」なんて言った。
「いいでしょう、自分は芹沢さんの担当ですし」
「ほかに担当してる人にもご挨拶しなきゃでしょ」
「始まる前に済ませましたから」
しれっと返して、顔見知りの人が通るたびに手を上げたり会釈をしたりせわしない。そのくせ、ちっともここから離れようとしないし。
「……」
言いたいことならいっぱいある。でも、何から言ったらいいかわかんない。そもそも新明さんモードと春洋くんモード、どっちで対応したらいいのか。
混乱して黙り込んでいたら、「だますような真似してごめんなさい」と春洋くんに謝られた。
「面白がってたわけじゃないんだけど、真昼さんがあまりにも嬉しそうに毎週末シンミョーさんの話するから、言い出せなくて。それと、」
「? それと?」
わたしがリピートすると、ちょっとふてくされたような顔で「……俺の方が付き合い長いのに、シンミョーさんのことで浮かれてるから面白くなくて」と言うので笑った。といっても、招かれたお祝いの席でがはがは笑うわけにもいかず小さく抑えた分、それは長く尾を引いた。
ようやく収まった頃合いで、「で? シンミョーさんと春洋くん、どっちに告んの?」とニヤニヤされた。
「自己肯定感が暴走してんじゃないの?」
前に言われたことをそのまんま投げ返してやったけど、ちっともダメージ受けてないみたいでむかつく。
「わたし別に、もう一人は春洋くんって言ってないけど」
「バーではいつもあんなに懐いてたくせに。弄ばれてたなんて悲しいな……」
「人聞き悪いこと言わないで!」
「俺は好きだけどね、真昼さんも芹沢さんも」
「!」
さらっとそんなこと言われて、心臓が聞いたことないようなダンスをした。――ダンスと言うよりは、どたばたしてるけど。春洋くんはこっちを混乱させておいて、取引先の人に声を掛けられればまたしれっと新明さんになってるし。
お話が終わって、わたしの方に向き直る。さらに混乱させられる前に「それよりあのかわいい符丁のからくりを教えてよ!」と気になっていたことを聞いてみた。
「新人の時OJTでついてくれた先輩がかわいいもの好きの女性でして、その影響ですね。真昼さんをはじめ皆さんに評判がいいので続けていますが、自分の趣味ではないしご存じでしょうが僕自身は品がいいわけでもないです」
「ちなみに、春洋くんだったらどういうワードを選ぶの?」
「『ふ』だったら富士山の『ふ』、『は』だったら焼き鳥のハツの『は』ってとこです」
「フナを笑えないじゃん……」
「まーね」
新明さんモードで、なのに最後だけくだけて春洋くんで返してくるからちょっとだけ落ち着いてた心臓がまたダンスする。その『ダンス』に心が乗っ取られる前に「声、違うのはどうして?」とやっぱり気になってたことを聞いた。しゃべり方が違うだけじゃなく、新明さんより春洋くんの声の方がちょっと低い。
「電話のやり取りでは聞き取りやすいようにゆっくりはっきりを心がけて話すのと、あとは『対外仕様』は若干イイ声を出すようにしてます。社内ではふつうに地声ですよ」
「ふうん」
「幻滅しました?」
「別にしてないけど、バーのマスターとかほかのみんなは春洋くんが新明さんだって知ってるの?」
「知った上で面白がって見守られてました」
「うわあ……」
次の週末、てか明日、どんな顔して行けばいいんだ。
「ねえ、それで結局どっちなんです?」
ですますで訊いてるけど、これは春洋くんだな、なんて思いながら「今いちおう仕事中だから言いませーん」って返したら「……はーい」って不機嫌なお返事しててかわいかった。
ばかだなあ。両方に決まってんじゃんって、明日バーで言ってやろうか。
それはもれなく自分も恥ずかしい思いをする行為だって頭では理解してるのに、なんだかすごくいいアイデアに思えちゃったのは、――。
いやいや。まだこの感情が恋かどうかはわからない。でもダンスが終わらない。心臓は通常運転に戻ったのに、心がずっとどたばたしてる。
それはまるで音楽に乗ってタップダンスを踊ってるみたいに軽快な気分で、もしかしたらこの先にちりちりでもぼーぼーでも、情熱を燃料に心を燃やす未来が待っているのかもね、なんて思った。
24/07/18 誤字訂正しました。




