on your mark(☆)
「ハルショカ」内の「若葉マークⅡ」の二人の話です。
「さすがに夏場は少し暇になるなー」と、この日最後に仕上がった焼き菓子をオーブンから出して、宮さんは云う。焼き菓子職人な宮さんのお仕事は当然クッキーやマドレーヌを作ること。超強力な換気扇やエアコンをもってしても、オーブンを使うせいで製菓専用のキッチンにはこの時期どうしても熱がこもるらしく、この日も首から下げたタオルでこまめに汗を拭いていた。
髭面でごっついから、そうしてると菓子職人ていうよりも大工さんに見える。以前、そう話したらすごーく情けない顔で『高いとこ苦手なんだよ』って云ってたっけ。
まだあつあつのものをケーキクーラーに乗せて冷ましている間にも、宮さんにはやることがいっぱい。使った用具を手早く洗って片付けて、シンクの磨き上げをして。時折、作業をしている製菓のキッチンから私のいるリビングへやって来ては、テーブルに広げたノートパソコンで受注状況やお仕事依頼のメールをチェックして(もちろん、キッチンに出入りするたび、手洗いは忘れずに)、ついでに、ダイニングの椅子に座って本を読んだり課題をやったりしている私に、うんと屈んでキスを落として。――毎回思考停止してしまう私の、とびきり間抜けに違いない顔を見てニヤッてしないでほしい。もう。
私がなんとか顔の赤みを引かせようとじたばたしている間にも、宮さんは鼻歌でも歌いそうな雰囲気でてきぱきと動いてる。電話連絡をいくつかとブログの更新、SNSへの投稿、粗熱の取れた焼き菓子のラッピングに発送準備。慣れているとはいえ、ほんとうに手際がいい人だ。でも。
「――夏ってあんまり、忙しくないの?」
付き合っているとはいえストレートに『売上落ちてるの?』とは聞けずに、おそるおそるのそんな聞き方になった。
だって、本日最後の焼き上がり時間は、春先よりもずいぶん早い。それに、さっきの『暇になる』発言を合わせると、どうもよろしくない想像ばかりが頭に浮かんでしまう。
一人勝手に心配している私と違って、宮さんはずっといつも通りのテンション。焦ったり弱気になったりしないその様子に、『大丈夫なんだな』と思ったから、これまであえて聞かないでいた。気になりすぎちゃって、暇発言に乗じるかたちで結局聞いたけど。
そんな私に、宮さんはあっさり「そうだな、いわゆる閑散期ってやつ」と云った。
「やっぱこう暑いと、焼き菓子よりアイスとかゼリーとか、そういうのをみんな食べたいから。俺だってそうだもん」
ほら、と差し出されたカップのアイス。確かに、自分も今夏は冷たいものの登板機会が多い。上京するまで住んでた実家はここよりだいぶ北で、日中の気温はそれなりに高くなるけれど暑さの質がまるで違う。まとわりつくような湿気と夜になっても引かない暴力的な暑さという慣れないダブルパンチにメゲそうになっては、宮さんに助けられてる。
『百花んちは思いっきり西日が差すから、一日留守にしてるとクーラーつけてもなかなか籠った熱が下がらないよな』と合い鍵を渡されて、『いつでも涼みに来い』と云ってもらったり。
夏風邪を引いてフラフラしてると近所のおじいちゃん先生のところに連れて行かれて、帰りはそのまま宮さんのおうちに連行されて、『治るまでここに居ろ』ってお世話してもらったり。治ったら治ったで、『クーラー代バカになんないだろうし、嫌じゃなければ夏休みバイトない時はここに来なさいよ』って助け舟を出してもらったり。
で、治ったのにお言葉に甘えて入り浸ってたら、暇発言を聞いてしまった訳だ。
きっとそれは毎年のことで、私なんかがそんなに心配する程のことではないんだろう。でも『暇イコール業績悪化』っていう風に勝手に結び付けてた自分の顔はよっぽど悲壮だったらしく、宮さんと目が合った瞬間、ぶはっと吹きだされてしまった。
「なんつー顔してんの」
ふに、と人のほっぺを求肥か何かと勘違いしてるみたいに、つまむ。
「ごめんなさい、なんかヘンに心配しすぎちゃって……」
私の実家は窯元で、いちおう会社の態はしているっていう程度の、家族経営の小さなところだ。作品を作る父と兄と兄嫁にはそれぞれお得意様や決まった卸先があるものの、なにせ三匹の子豚の住んでた木の家くらいに吹けば飛ぶような規模だから、景気だの天候だのにいちいちぶんぶん振り回される。そんな実家の状況を重ねてみてしまって、フリーランスの宮さんのことも、勝手に他人事じゃなく思っていた。――恥ずかしい。私みたいな世間知らずの未成年に心配されたって、ねえ。
手の中に包んだままのアイスのカップが、じわじわと私の熱を冷ます。ストロベリーは私の一番のお気に入り。口に出して伝えた覚えはないけれど、気が付けばいつだって宮さんちの、本人みたいにごつい冷凍庫に待機してくれている。
ふにふにふにふに、飽きもせず私のほっぺで遊びながら(アイスが食べられない)、宮さんは優しい顔で「お嬢ちゃんはいい子だなあ!」なんて云う。
「……別にそんなんじゃ……」
『業績不振なのかも』は、もちろん心配の内訳を大きく占めているけど、『遊びに行きましょって誘ったらいけないかなあ』とか『私が年下で頼りないから、心配かけまいと元気なふりをさせてる?』とか、自分中心な考えをしてただけなのに。
「嬉しいよ、ありがとな。でも、大丈夫だから安心しな」
それがやせ我慢とか強がりとかじゃないときちんと分かるように、宮さんは私に教えてくれた。
「夏は焼き菓子の売上が落ちるよ。これはもう毎年そうって決まってる。そのかわり、夏休みは親子さん向けのお菓子づくり教室やらイベントやらがあって、あっちこっちに呼ばれるんだよ。むしろここでの通常営業よりも時間的には忙しいかもな」
だから来てもお留守なことが多かったのか。宮さんのアイシングクッキー、かわいくておいしいもんね。
――ほっとしたような、構ってもらえないのは寂しいような。
そんな私の気持ちを見透かしたように、「九月になったらイベントも落ち着くから、百花とどっか遊び行きたい。どこがいい? 海? 山?」ってぽんぽん聞いてきた。
「海も山もお盆に帰省したら充分堪能する予定なので、都会的なスポットでお願いします」
「都会的なスポット!」
また田舎者発言でウケられてしまった。しかもガハガハ大笑いで。そりゃ、笑ってもらう方がむすっとされるよりいいけど、恋人としてはなんだか不本意!
つんとして、程よく柔らかくなったアイスを掬ってばくばく食べていたら、椅子の横にしゃがみ込んで、私の膝に肘を乗せて見上げながら「なあ、怒った?」と、ものすごく当たり前のことを聞いてくる。
「怒ってないように見えますか?」
「ゴメンゴメン、あんまり百花がかわいくて、調子に乗りすぎたな」
立ち膝になった宮さんから仲直りを促すキスが、おでこに一つ。それだけで、自分がぺしゃんこに潰れたスフレから、とびきりおいしいマカロンにでもなったような気持ちになっちゃうんだからどうしようもない。
「許してくれる?」と、たくさんいろいろ――聞いたことないけど、たぶん恋も――経験していて、桜の木にたかる毛虫にも、留守番電話に残されていた雑誌編集者の横柄な言葉にもそうそう動じない宮さんが、いかつい髭面になんとも心許ない表情を浮かべて、私に問いかける。
そういうのって、絶対ずるいと思う。だって。
私の言葉を待ってる宮さんにつたない、噛みつくようなキスで答えれば、もっと上手で濃厚なお返事を長く受け取るハメになった。
ほんとは、上手にツノを立てられた生クリームみたいに、ずーっとツンツンしてて、もっと宮さんを困らせたい。でも、この人の困り顔は目下私の最大の弱点でもあるから、結局すぐに許してしまうんだよなあ。
大人と付き合うのってこっちばっかり難しくってなんかシャク、と舌先を押し返しても、それは年上の恋人を喜ばすばかりだし、キスでメレンゲよりもふわふわになる単純な心は、宮さんが望む以上に素直になって。
「――ダメ」
いつの間にかすり寄っていた体が、そっと離された。どうして? って顔、多分してたんだろうな。苦笑した宮さんに「これ以上はまだ早いから」と云われてしまった。
いいのに。こんなに待ちわびているのに。
逸る心はせき止められたホースの水みたいに、いつだって飛び出す準備はできてるんだよ。そんな不満を隠さず見上げても。
「だーめ」
重ねて云われたって、納得なんてできない。
そんなかたくなな年下なんてきっと面倒くさいはず。でも宮さんは楽しそうに私に言い聞かせた。
「準備には時間がかかるの。クッキーだってそうだろ? 寝かせる時間は、人間にだって必要なんです」
そんな風に、宮さんにとって大事なクッキーになぞらえて云われてしまえば、納得するしかない。でも、頭でそう思ってても心は従いきれないよ。
不機嫌そうにとがったままの唇をぺろっとなめられて、長い戯れは終わりと、宮さんが立ち上がる。
「……宮さん」
「んー?」
後ろを向いて煙草に火をつけられたら、年上の恋人にはますます煙に巻かれてしまう。遠くなっちゃう。
よく笑うし、好意もしょっちゅう示してくれてる。それでも、一〇〇パーセント安全な恋なんてない。密閉のガラスジャーに入った焼き菓子が、それでもいつかは古びて、食べられなくなってしまうのと同じに。
こんな気持ちはばかだ。分かってても、云わずにはいられない。
「私としないからって、よそでしないでね」
自分でもばかだと思ってる発言を、宮さんは笑わないし切り捨てない。
「そこまでタフでもマメでもねーから安心しな」
振り向いた宮さんの優しい目と言葉と、頭を撫でる手。春から何度もぶちあたった『初めて』という名の高い壁の前で立ち竦む私に、宮さんはいつだってこうして勇気をくれた。保護者のポジションで懐かせた、なんて云ってたけど、そしてそれは事実だけど、でも私の考えや行動に制限をかけたり、『年下なんだから従え』なんてこともなくって、このおうちの庭の桜の木みたいに、私はいつだってのびのびとしていられる。
だから。
「宮さん」
「何だ?」
「いつになったらしてくれる?」
そんなことだって、云っちゃう。
最初に私の言葉を聞いた時は煙草の煙にめちゃくちゃむせるくらい動揺した宮さんも、一〇回は下らないこのやりとりに慣れた今は、レシピの分量で云うところの耳かき一杯分程も動揺しないで、「頭だけでなく、体の準備が出来てからな」なんて返す。もっと私にあたふたしてほしいけど、オーブンでのやけどさえ慣れっこで慌てたりしないから、むずかしいかな。
でも今日はもう少し食い下がってみよう。駄目って分かってても引いてなんてあげない。
「東京発の新幹線だとしたら、今はどこくらいまで来てる?」
「すげーなその例え!」
ぶはっと豪快に吹き出して、でも今日は煙草の煙にむせなかった宮さんが、笑ってる。そして。
「新横浜」
「まだそこなの!?」
「そ」
「もう名古屋くらいまで行ってると思ったのに!」
「まーだまだ。一〇〇m走ならスタートラインに並んで『位置について』のとこだよ」
「走り出してもいない!」
あのハグも、あのキスも?
むすっとしていると、笑ったまま宮さんがガラスのジャーのふたを開ける。
割れたクッキーを取り出す。私の口元に差し出す。
「……これでほだされてなんてあげないんだから」
かじりながら負け犬が遠吠えると、「そう云わずに頼むよ」と宮さんがさらっと応じる。
そういうとこが敵わないのよと、クッキーを食べ終えた私は次に、まだ口元にいた指先を軽くかじる。こんなの、反撃にもならないって知ってるけど、くやしいから。
――その後、一つ一つ実践してもらうたびに、『ああ、あの時は確かにまだ新横浜だったなあ』としみじみ思い知らされる。
一年かけて、ゆっくりと進む私たちの新幹線。
名古屋を過ぎて、広島を過ぎて。
博多駅は、もうすぐ。




