ねがいごと、ひとつ(前)
会社員×司書
※蒲公英様主催の「ささのは企画」参加作品です。「紙縒を縒る描写を入れること」という縛りがあります。
母親がボランティアで折り紙講師をしていると云う後輩が、「今年も母と作り過ぎちゃいました」とはにかみながら、紙袋の中に入ったたくさんの七夕飾りを見せてくれた。
「わあ、すごい!」と皆で周りを囲み、紙袋の中身を覗き込んで素直に驚嘆の声を上げる。
当の本人は顔の前でイヤイヤ、と手を何度も振り、「すごくないです、母にも『毎年折ってるのにちっとも覚えないし不器用ねえ』って呆れられちゃって」と謙遜するけれど、色とりどりの飾りはこのところ雨が続いて陰鬱な気分になっていた職員皆を笑顔にしてくれた。
星に、梶の葉に、くす玉に、すくい網。
すくい網は、こちらに来るまでに絡んだり千切れたりしないようにと、ひとつひとつ別のクリアファイルに収められていた。そのせっかくの心づくしを無駄にしない為に、気を付けて扱わなくてはと思う。
七夕の準備は、私が勤めるこの図書館のご近所にお住まいの方から毎年厚意で戴いている笹を、今年も連絡を受けた職員がご自宅に伺い、切って運んでカウンター横の壁に立て掛けたところから始まった。笹が倒れないようあちこちに紐で固定するのも毎年の事なので、担当の男性職員の手は慣れたものだ。「終わりましたよ」と声を掛けてくれた初老のその人にお礼を云って、今度はこちらが担当の番になる。
折り紙飾りを拵えてきてくれた後輩がそのまた後輩の男の子を三段程の脚立に昇らせて、本人は「もっと右!」「それは上に!」と指令を飛ばし、飾り付けをしていた。普段は温厚な後輩はイベントになると燃える性質らしく、クリスマスもお正月もそしてこの七夕も、『後輩の後輩の男の子』が入って来てからは彼も巻き込んで毎年率先して動いてくれている。本当は高いところが少し苦手な彼――最初に三段の脚立の天辺に昇らされた時には腰が引けていた――と、全体の色とバランスを考慮し、厳しくも的確に、そしてスピーディに装飾を施した後輩の奮闘に敬意を表し、お昼休みにはそれぞれが好んでいる缶飲料をご馳走した。
本当は短冊もこよりも和紙で作りたいところだけれど、いかんせんこれだけの為に和紙を購入できる程、県の図書館の予算は潤沢ではない。せめてもと短冊は青・赤・黄・白・紫の五色を色画用紙を、こよりは半紙を切り、職員の手で縒ったものを用意した。
細長く切られた半紙を手に取り、端から縒る。なかなか均一に縒れずに、ところどころ細かったり太かったり。はじめはぴしっとしたいい出来のものが作れずに皆で笑っていたものの、数をこなすうちになかなかの出来だ、とそれぞれが自画自賛するものを作れるようになった。と思った頃合いで数が足りて生産終了なのも、毎年のお約束。
願い事を書いた短冊を、まだ誰も括りつけていない飾りだけの笹に先頭を切って結びつける勇気のある人はなかなかいないだろうと、今年も私たちが一足先に飾らせていただいた。『レファレンスが上達しますように』『ステキな彼氏が出来ますように!!!』等々の願い事を、筆跡と職員の近況から『これはだれだれだな』なんて勝手に当てはめてみたり。
自分の短冊も壁に当たる側の笹にこっそりと飾らせてもらった。『字がうまくなりますように』など、まるで小学生の願い事みたいだ。いっそ七日当日、里芋の葉に集まった朝露で墨をおろして書いたら本格的でよかったかも、なんてね。
――あの人に、また会えますように。
時折強く浮かんできてしまう本当に本当の願い事を、短冊に記しはしない。それは叶わぬままさらさらと崩れ、そしてまた静かに降り積もるだけ。
あの人とお別れしたのは去年の六月の終わりの日だった。四年前、転勤でこの地にやって来た彼は、いずれ本社のある方へ戻って行くのだと付き合い始めの頃にそう話していたけれど、リアルに『その時が来た時の事』を真剣に考える機会もないまま、二人ともただのんびり恋をしていた。
穏やかで、優しい人だった。それだけじゃなくて、言葉にして表せないけれど『いいな』と思うところがたくさんある人。
この図書館の利用者だった彼は、笹飾りの常連さんでもあった。こちらに来たばかりの彼の貸出カードを私が作った際、『よかったらどうぞ』と短冊を渡したのがきっかけで、それから交流が始まった。
一年は友人として、二年を恋人として付き合っていた間に彼は毎年短冊を書いたけれど、『はやく夏風邪が治りますように』『朝に強くなって、早起きが出来ますように』『幸せな人生を送りますように』と書かれた三枚は、どれも当時の私を思って記してくれたものだ。
『私の事じゃなく、自分の願い事を書いたらどうですか?』と、最初の年だけ『ですます』で、二年目からは敬語なしでそう勧めても、『これが俺の一番の願い事だから』と彼は決して譲らなかった。だから私もお返しに、『ここでのお仕事に、はやく慣れますように』『社内のフットサル大会で優勝出来ますように』『あちらでも、どうかお元気で過ごせますように』と書いた。二枚は笑って、最後の一枚は泣き笑いのような顔で、互いの願い事を見つめたのを覚えている。
あの人は、もう見つけただろうか。ぽっかりとおそろしく大きく開いた心の虚を埋めて、幸せにしてくれる誰かを。
幸せになって欲しいと、こちらもそう願った筈だった。なのに、『まだ見つけられてないといい』などと思ってしまう自分が嫌だ。
元気ですか。私は元気です。
嘘です。もうあれからずっと、私は元気なんかじゃない。毎日、『あなたがいないと云う事』に痛みを感じながら、生きています。
会いたいです。
どうしてあなたについて行かなかったんだろうと、何度も後悔しました。そして、ついて行くには断ち切らねばならない物が私の側にだっていくつかはあったのだからと、そのたびに苦く思います。
そうそう、この図書館の事が県の広報誌に写真入りで載りました。私も人生初のインタビューを受けてしまいました。あなたにも、記事を読んでもらいたかったなあ。
あなたがいない事が、さびしくてさびしくてたまりません。ふとした時に涙がほろっと零れたりして、本当に困ります。
それでも、いいの。あなたと恋をした事は、私の一生の宝物です。
会えなくても、私は今でもあなたの事が誰よりいちばん好き。
お天気はどうかなあと、『笹の葉大臣』と二つ名のついた後輩――くす玉から長く垂れ下がっている房や、すくい網が短冊と絡んでいるのを毎日丁寧に直したり、小さい子供が掴んだのか、いたんだ折り紙飾りは外して新しいものに付け替えたりと細やかな対応から命名された――が今日はやけに空模様を気にしている。
「南の方に台風が来てるって云うけど、こっちはまだ大丈夫じゃないの?」
確か朝のニュースでも、晴れ間は見られなくてもなんとか持ちそうだと云う事だった。なのに『大臣』は、「交通機関がマヒしたら、彦星さんが会いに来られないじゃないですか!」と憤慨している。なんで交通機関? と不思議に思っていたけれど、そのうち他館へ回す本の手配やカウンター業務に忙殺されて、些細な疑問はやがて埋没した。
それからも彼女は業務の間に「降らないかなー、大丈夫かなー」と心配そうに何度も外を見た。
「お天気の心配より配架入ってくださーい」と私が声を掛けると、「ハイ……」と小さくなってその後「スミマセン」と謝っていたので、自分でもそれは反省しているらしい。珍しいな。あんまり、気もそぞろな状態で仕事をする人ではないのに。
月曜と云う事もあってか、今日は利用者数が多くはない。とは云え七夕当日でもあるせいか、駆け込みで短冊に願い事を書き、飾っていく人の姿はそれなりに見られた。土日に既にたくさんの願い事が下げられていた為、笹はもう飾る隙間を探すのが大変なくらいに短冊の目白押しとなっている。一枚一枚は微々たるものでも、今や枝は飾られた短冊の重みですっかり垂れ下がっていた。それらを眺めて、利用者の方々にも喜んでいただけたのならよかった、としみじみ嬉しくなった。
「それじゃあ、お先に失礼します」
この日は早番の日だったので、七時の閉館を待たずに私のお仕事はおしまいの日だ。
少しだけ残業をしてタイムカードを通し、さて雨が降らないうちにスーパーに寄って帰らないと、と正面玄関から出る為にカウンター脇を通りかかったら、後輩が慌てて「先輩先輩、笹なんですけどこれ今日片付けますかそれとも明後日の朝にしますか?」と早口で聞いてきた。毎年、翌日の朝に片付けをしているのになぜ聞く、と思ったけれど火曜の明日は休館日だ。職員の出る予定はないので聞かれたかな、でも一回云わなかったっけと訝しみつつ彼女の方に近付いた。
「悪いけど、他の人にも手伝ってもらって今日、閉館してからやってもらえるかな? 笹は六〇センチくらいに切って……」
そう伝えていたら、突然後輩の顔がぱっと入口の自動ドアの方へ向いた。つられてそちらを見ると。
懐かしい、でもけして忘れる事の出来なかった、一年振りのあなたがそこにいた。
――心の奥底の願い事が、叶ってしまった。ありえない現実に、夢でも見ているのではないかと疑ったけれど。
「よかった、彦星さん間に合った―!」
後輩が心底ほっとした声で云って、「お疲れ様でした、さ、どうぞもう行ってください、織姫様」とカウンター越しに私の体をぐるりと入口の方へ向けた。
「え、あの、え???」
状況が全く読めない私が、おろおろと入口に立つ人の顔を見て、後ろにいる後輩の顔を見て、と繰り返していたら、「先輩、ごめんなさい」と突然謝られた。
「先輩の恋人さんからこの間図書館に電話かかってきたんです。私がその電話取ったんですけど、名前名乗られた途端に『恋人さんだ』って分かって、……お話伺って、さっき先輩が帰らないように引き止めるの協力しちゃいました」
おずおずと見上げてくる顔は、怒られるのを待っているものだ。
――怒ったりしないよ、でも、もう恋人じゃないよ。そう云いたいのに、全然言葉が出てこない。大人なのにね。
とん、と背中を両手で軽く押されて、その勢いでよろよろと歩きはじめる。
一歩。
二歩。
三歩目には、もう駆け出していた。
涙がずっと溢れてて、ちっとも前なんか見えやしない。おかげで、パンプスのつま先がほんの少し浮き上がった床材に引っ掛かって転びそうになったけれど、そうなる前にもうあなたにキャッチされていた。
この腕を覚えてる。
匂いも。感触も。何もかもぜんぶ。
「……会いたかった」
そう呟いたのは、私? それともあなた?
「会いたかった」
力強く、繰り返したのは。
どっちでもいい。二人、同じ気持ちでまだいたのなら。
職場の入り口のすぐ横で、抱き締めあったりして。まるで恋に浮かれた若い人みたい。こんなの、示しがつかない事この上ない。
そう思う私の心を、相変わらず読むのが上手なあなたは「外に出られる?」と聞いて、私が頷いたのを見てから連れ出してくれた。
自動ドアを出て庇の下に立つ。空は私よりも盛大に泣いていた。
私が落ち着くまで待って、それからあなたはタクシーを呼んだ。部屋を取ってあるからと、私の住むアパートではなく、駅前のシティホテルの名を運転手さんに告げる。
泣きすぎてぼんやりした視界には、あなたに繋がれた私の手が見えている。
――私より、綺麗な指。でも私より一回り大きな手。その手の甲の骨と血管の浮き出ている具合がとても好き、といつか伝えたら、君に好いてもらえた手に俺は嫉妬する、とおかしな返事をくれた。
見覚えのあるスーツ。でもお仕事中に飛び出して来た訳じゃないでしょう? あなたは、私よりもずっと真面目な人だから。
袖口に見え隠れするシャツには、見覚えがない。誰に選んでもらったの? とても素敵なのが何だか悔しい。
ネクタイは、初めて会った時と同じレジメンタルタイ。やっぱり今でもストライプの向きは右上がりに『ノ』の字のイギリス流なのね。そんなのもいちいち覚えているの、コワイ女でしょう。
顎のホクロに、別れてから触れた人はいるの?
あなたの唇に、触れた唇はあるの?
聞きたいけどどちらも『ノー』じゃなくちゃいやだ。
ぽん、とコルクのとんだシャンパンのように、後から後から流れ出る感情。こんなにいろいろ私の中に息づいていたなんて。自分ではただ朽ちていく恋に寄り添っているつもりだったけれど、あなたへ向かう気持ちは、どうやらとてもしぶとく生き延びていたらしい。
それでも、まだ嘘みたい、ここにあなたがいる事。こうして、直接手と手を触れている事も。
「……そんなに見つめられたら、穴があく」
あなたが、困り果てて笑う。
あいてしまえばいい。
離れていたのにちっとも愛おしさが減っていなかった顔なんて。
そう思うのに、また泣いてしまった私は、やっぱり何も云えない。
「座って」
通されたのは、彼が取っていた駅前のシティホテルの一室。
促されるまま椅子に腰掛けると、あなたはポットにお水を入れてセットして、コーヒーのドリップバッグをカップの上に準備してから私の向かい方へやって来て、同じように腰掛けた。
「久し振り」
今更こんな事云うのは、ちょっと間抜けだけど。そう笑うあなたの声を聞けて、私の耳が喜んでいる。
「久し振り、だね」
ようやく私の口から出た言葉らしい言葉を聞いて、あなたも少し目を細めた。
「突然、職場に押しかけてごめん」
そう謝られて、図書館の入口での一連の事を思い出す。でも。
「……嬉しかったよ」
それが、偽らざる本当の気持ちだ。でも。
「今日、どうして?」
何の前触れもなく、何で来てくれたのか、それが分からない。
あなたは濡れそぼる窓ガラスの外にぼんやりと光るビルの灯りを見つめて、呟いた。
「もう、無理だったから」
何が? なんて、聞かなくても分かる。だって、私も。
離れているままだったら、こんな事は望まなかった。ひとたび触れてしまったら、その気持ちも生き返ってしまう。
「離れているなんて、やっぱり、無理だ」
嬉しくて、でもなんて残酷な言葉だろう。
それが出来ないから、お別れしたと云うのに。




