過去と未来と西川と。(☆)
「クリスマスファイター!」内の「私と田崎と自転車と。」及び「如月・弥生」内の「田崎と私と自動車と。」の二人の話、というか田崎の話です。
今でも時々ふしぎに思ってしまう瞬間がある。どうして俺は走っていないんだろう、と。
もちろん、ちゃんと分かってる。
大学時代、キャンパス近くをランニング中に遭った自動車事故。その時に負った膝の怪我で、アスリートとして走る道は絶たれたということを。
術後、痛み止めをもらっていても膝の痛みは間断なく襲い掛かり、また、手術で使われた麻酔が体質に合わなかったのか、激しい頭痛も続いていた。
ベッドの上でのリハビリをしていても、時間に換算したらたかが知れている。こんなに長いことトレーニングをせずにいたためしがないので、とにかく暇で暇で仕方なかった。スマホを弄りたい気持ちもあったけど、膝と頭の双方を容赦なくかち割られるような痛みのせいでゲームや動画にも集中できなくて、音楽以外の娯楽は早々に諦めた。昼間のテレビは中身がぺらぺらなワイドショーばかりで、眺める気さえしなくてそちらも諦める。となると、音楽を流しつつ眠るかぼーっとするかの二択しかなくて、けど真っ昼間じゃ眠気なんか襲ってくる気配もない。急に頭をふると頭痛が倍増するので、枕の上でそろそろと向きを変え、窓越しの景色を楽しむことにした。
窓の外は気持ちのいい夏空。八月の空色として特別に作った絵の具、と云われたら信じてしまいそうに混じりっ気のない強い青が、空一面に景気よく撒かれていた。そこへ入道雲がもくもく湧いて、広がっていく。――心が落ち着くどころか逆に落ち着かない。
早く練習に戻らないと。今頃みんなは夏合宿中で、限界までトレーニングに励んでいるだろう。ここで飛躍的に伸びる奴がいたらと思うと、今すぐにでも退院したいくらいに焦る。
駅伝のレギュラーの枠は限られている上に目指す部員はたくさんいる。俺程度じゃ、ティッシュ一枚より軽い扱いで落とされて、他の誰かにその座を奪われるのが目に見えてる。本番当日の朝にすげ替え、なんてことだってしょっちゅうだ。
やる気のないやつから真っ先に脱落していく世界。次に、生れ持った身体能力や資質といったものだけで走っていたやつ。自分にはそんなものかけらもなかったから、日々努力することは当たり前で、それを出来ない今は恐怖でしかない。
なにより、――ただ、走りたい。
走ることは生きることと同じだ。息をして、食べて、眠る。それなしにどうして他の人は生きていられるのか。走らない自分、を想像するのは、少し難しい。もちろん、選手としてどこまで走れるかは未知数で、それもいずれは引退する日が来る。だとしても、自分は大会やタイムやランキングから無縁になってもランナーでいるんだろうな、と、灰色がかった入道雲に覆われつつある空を見ながら、ぼんやりそう思っていた。
自分の膝の状態を知らされたのは、緊急手術が終わって数日経ってからだ。
『生活の質は今までより一段階落ちますが、普通の状態に戻れるようにリハビリを頑張りましょうね』
その宣告をきちんと理解するのには、ずいぶんと時間がかかった。
リハビリは、部に、チームに、レギュラーの座に戻るためのものではないと、ほんの少しの距離を小走りすることは出来ても、元と同じに走ることは叶わないのだという事実と真正面から向き合うためのものだった。
ついこの間まで駆けるためだけにあった足は、リハビリ室の床に接地し、じりじりと体重移動をし、一歩を踏み出す、たったそれだけのことをするのにも難渋する足になった。
何で俺が。うそだろ。
その台詞ばかりが、硬く縮こまった心の内壁で跳ね返っては、いつまでも無意味にリピートしていた。
認めたくはなかった。何もかも。
長いリハビリと再手術を終えて日常に復帰することになっても、ミラクルが起きることはなく、天候の変化でもたらされる痛みが膝への置き土産となり、歩き方も別人のように変わった。
当時付き合っていた彼女はこまめに連絡をくれていた。リハビリしているところを励ましに行きたい、という言葉はいつも『また今度』で躱して、その前後の時間に病室に来てもらった。走れなくなったことはもう知っているだろうけど、走っている時の姿が好き、と云ってくれた彼女によろよろリハビリしている自分を見られるなんてまっぴらだった。
だから、半分は自分のせいなんだろう。
久しぶりに大学へ通学できるようになった日、彼女と構内で待ち合わせをした。退院してからもリハビリが忙しくて、という建前で、うちのリビングで座ったまま迎えることはあっても外で会うのは避けていたから、きちんと歩く姿を見せるのは事故後初めてだった。
いつまでも隠してはおけないし、知っていてほしい気持ちもあって、自分の現状がどんなものかを会う前日にようやく電話で伝えた。
『俺、もう前みたいに歩けないんだ。――云うのが遅くてごめん』
俺の告白に、息を飲む音が聞こえた。それでも彼女は、『ううん』と返してくれた。
『教えてくれてありがとう。もしそうだとしても、明日会えるの楽しみにしてる』
その言葉のどこにも嘘の響きなんてなくて、すごくホッとしたのを覚えている。
正門からの一本道の突き当りにあるロータリー。先に来て座っていた彼女が俺を見つけて笑顔で立ち上がって、――傾いでゆっくり歩く俺を見て、見る見るうちに表情を失くしていくのが見えた――、そしてとうとう泣いた。そのことに、オブラートでいっさい包まないまま、ぶちまけそうになる。
俺がどんな状態かは話したろ。『かわいそう』なんて泣くな。勝手に可哀想がるな。褒めてくれとは云わないから、せめてフラットに扱ってくれ――ああ、かっこ付けてリハビリ中の自分を見せなかったから、どっかで信じてなかったのかもな、リハビリ前の俺みたいに。予防線張っただけで、本当はもうちょっとちゃんと動けるのかも、なんて。
いつまでも涙を流し続ける彼女を抱きしめるでも慰めるでもなく、――そんな気持ちは炎天下のアスファルトに落ちた汗より早く失せて、ただ他人事のように突っ立ったまま、早くこの茶番が終わってくれないかな、とそれだけを思った。
結局、彼女にはその日のうちに別れを告げた。
あんな風に、俺に不幸のタグばっかりつけて泣く存在とはこれ以上付き合えないと思ったから。彼女の側にしてみても、俺の現状は重たすぎたのだろう。
『分かった、支えてあげられなくてごめんね』と、色々を堪えた了承の返事が来た。それをスマホで眺めて、昼間の気持ちがようやく自分の中で少しずつ落ち着いて、ぶちまけたかったものとは少し違うものになる。
俺は、今の俺をなんとか受け入れた。
ランナーとしての道は絶たれた、部も辞めた、留年した、けど生きてる。何とか生きてる。もう走れなくても、みっともない歩き方になっても。
一瞬で失ったものを、元通りでなくても歪んでても、一つずつ積み上げてきたんだよ。――それを、あの涙で全否定された気がした。
そんなつもりはなかっただろう。でも、耐えられなかった。
彼女の潤んだ目に、俺は『好きだったところをごっそり失くしてしまった男』として映っていたから。
耐えられないことは他にもあった。
歩き方をぶしつけに見られるのは、いやだけどまだ我慢出来る。
『たいへんだったね、でもよかった』と言われることは、硬く縮こまった心ではどうしても素直に受け取れなかった。
命があってよかった、足を切断しなくてよかった、歩けてよかった、そんな風に、いくつ『自分は不幸じゃない』って証明を重ねたら許されるんだ? そんなの、俺には必要ない。
けれど大学でも近所でも――時には家族からも与えられる『あなたを思って』という善意をたっぷり練り込まれた、純度の高い呪いつきのミルフィーユ。
それをいくど喰らっても死ななかった自分は、実はちょっと偉いんじゃないかと思う。
大学はスポーツ特待生扱いだったけど、部活をやめたら即退学、という学力ではなかったので、事故で留年した以外は普通に進級も卒業も出来た。
就活では実業団を抱える会社や、駅伝とはまるで無縁な企業、そして外を歩き回らない職種というのを条件の上位にして、今の会社を選んだ。そこで、西川に会った。
むかし研修で知り合った時はただの同僚だったのに、支社で再び顔を合わせるようになってからは、やたら危なっかしくて目が離せなかった。だってあいつ、膝の出るスカートでスポーツタイプっぽい自転車なんか乗るし。しかもかっ飛ばすし。――人の云うこと、ぜんぜん聞かないし。
向こうが俺に興味ないのは、ホッとしたけど寂しかった。寂しかったけどホッとした。
好きな人には好かれたい、でも憐れまれたくないから過去は打ち明けたくない。そんな、ぐるぐるし過ぎてどうしようもない自分は、西川と口げんかしている時だけいきいきしてた。
どうかこのままでいてくれ。取り上げないでくれ。友人にも恋人にもなれなくて、向こうに彼氏が出来たら(現時点でいないことは確認した)、こんな風にじゃれ合うのはきっと終わり。
でも、誰かを愛する勇気なんて持てない。愛されっこないとも思う。だって、俺は自分ばかりしか見えてなくて、付き合ってた彼女を大きく傷つけて別れた。今更誰かと特別になりたい、なんて虫がよすぎる。
まあどっちみち、気になる女は俺に興味がないし(飛び切り寒い日に痛みが出て、傾ぐ歩き方がいつもより大きくても気にされない程度には)、いいんだけど。
だから、ただ傍で笑っててくれ。怒っててくれ。
元気でいてくれ。どうか、自転車で怪我なんてしないでくれ。
それ以上を、希んだりしないから。
祈る気持ちでいた自分を嗤うように、西川は自転車での帰りに事故に遭って、
――希んでいないはずの、叶わないはずの未来が、手に入った。
西川は、告げていなかった俺の過去を知っていた。知った上で、好きになってくれた。それでも、膝に大きく残る傷痕を見せる時には、『また駄目になったらどうしよう』と思わずにいられなかった。
「キモいだろ」
俺が、スウェットの裾を膝までめくって笑うと、西川はふてくされた顔で「キモくない」と即答した。なのに、まだ俺は試してしまう。
「歩き方かっこ悪いだろ、遅いし」
「かっこ悪くないし、むしろ優雅だし」
「でも、」
「あーもーいいから黙って愛されて!」
そういうと、西川はソファの上で俺を跨いで、俺の顔をバチンと両手で挟んだ。そして。
「……ぜんぶ、丸ごと好きだから」とキスの後囁いて、臆病な俺が先回りして『云われたくないから先に云ってやったこと』をそれ以上云えなくした。――ああ。
やっとだ、と思った。
やっと、卑屈にならないでいい。自分のこと、これ以上嫌いにならなくていい。
硬く縮こまった心が、西川の手で少しずつ融かされる。それは嗚咽になってしまったけど(思えばこいつの前で俺は泣いてばっかりだ)、西川はそっと受け止めてくれた。
事故で道が絶たれたあの八月も、その後長く引きずった感情も、すこしずつ過去に置いてきて、これからお前と、きっとどこへでも行ける。
じじいとばばあになったら、三区のあたりの海を一緒に見に行く。そんな約束を携えて二人で歩いていくというのは、案外悪くないような気がしている。だから、そんなに心配すんな。
今でもたまに、善意のふりをしたミルフィーユを突きつけられることがある。でもその毒は、たぶんもう効かないだろう。
西川が、「『事故で走れなくなった悲劇の元ランナー』じゃない。田崎は田崎。私の好きな人だよ」と魔法の言葉を手渡してくれたから。




