Mさんとのこと
会社員×会社員
Mさんは背がひょろんと長くって手足もやっぱりひょろんと長くって、ティム・バートンのコマ撮りアニメに出てくるキャラクターみたいな造形をしている。それなら顔もぶきみ系かというとそんなことはなく、穏やかな顔と声の大人な男性で、私にとって癒やしな存在。
ちなみに『Mさん』呼びはもちろんあだ名というか私がひとりで勝手に心の中でそう呼んでいる秘密の呼び名だ。名前の由来は某SF作家のショートショートに出てくるエヌ氏やアール氏っぽさのあるお人だからで、名字のイニシャルとも合わせつつそう呼ばせていただいている。
汗とか、あんまりかかなそうな。生活感や現実味からは、一歩距離を置いているような。私レベルの人間になんぞたやすく振り向いてはくれなそうな。そんな人。
だから、傷つく心配をする必要もないまま、安心して憧れていられる。
実生活に舞い降りた推しアイドルをひたすら見つめるファン、みたいな私。
Mさんとは月に一度、読書会で顔を合わせる。メンバーは全部で一〇名、男女比率は3:7、年齢層はバラバラで、読書好きの友人つながりで少しずつ出来た輪だ。パートナーのいるいないはさまざまだけど、メンバーの中で恋愛やセクハラっぽい話はまだ聞いたことがない。読書に対する熱量がものすごくて、それどころではないからかな。
会では月一で集う際、事前に毎回テーマが提示されて(『夏に読みたい本』とか『今年上半期にハマった本』とか)、それに沿った本を紹介することが多い。たまに、みんなで同じ本を読みこんでディスカッション、なんていう回もある。そういう時は作中に出てくる台詞やアイテムを巡って、意外と個々で解釈が異なるのも、会の面白みの一つ。テンションは爆上がりになりがちな人が多い(人ごとみたいに言うけど、とうぜん自分も含まれる)中、Mさんだけはいつも上がったり下がったりしない恒温キープなお声で、それがすごく心地よかったりする。夏の夜の、まだ昼間の熱を孕んでいるプールでふよふよ漂っているような(※そんなシャレオツなシチュエーションを体験したことはないからあくまでイメージです)。
大好きなあのトーンで小説の一節を読み上げられると、聞いている途中で思わずうっとり萌えてしまう。でももっと仲良くなりたいか、と誰かに問われたらいいえ、って答える。こんな狭い輪の中で振られたりくっついたり離れたりするのは、……ねえ。
激流に流されたくない。やたら血を流したくもない。ぼんやりと、思うだけでいい。夜通し灯される古びた街灯より、雲の向こうの満月より、うすぼんやり。
今年はそんなに暑くないという話だけど(絶対嘘だ)、八月ともなるとさすがに涼しげなMさんも例外とはいかないようで、額にびっしりと汗を浮かべていたり、ビジネスシャツの袖が肘まで折り返されたりしている。ううん、絶景かな絶景かな。
ひょろんと長い、日焼けしていない腕に掛けられているスーツのジャケットになりたい。ひょろんと長い指でページを操られる本になりたい。額の汗をそっとおさえたハンカチもいいね。
――やばいな、発想が。
あんまり見てると気付かれてしまうから、ハードカバーに隠れてこっそり眺めてこっそり笑った。
またMさんを除いたメンバーのテンションが上がりまくった会――本屋さんの店員さんが大賞を選ぶ趣旨の賞で栄冠に輝いた小説について、いつにも増して白熱したディスカッションをかわした、てか萌えポイントを語りあった――が終わって、解散した頃にはすっかり喉が渇いてしまった。二時間近く、みんなしゃべりっぱなしだったからね。
どこかでアイスコーヒーでも飲んで帰ろうかな、と思いながら信号待ちをしていたら、後ろから「日置さん」と声をかけられて、慌てて振り向く。――さっき別れたMさんが、うっすら笑みをまとっていた。そして捲ったままで剥き出しの腕がやっぱり眼福。
「どうしたんですか? 確か地下鉄の駅、あっちですよね」
青になるのを待っている信号とは進行方向が逆の、さっきいたお店の方を差しながら聞くと「そうなんだけど、何か飲んでから帰ろうかと。日置さんも、ご迷惑でなければ少しどうですか」
憧れの人にそんな風に問われたら、『いえ、もう帰ります』とは言えず、のこのこついて行ってしまった。都合よく喉も渇いていたことだし。
カフェのような飲み屋さんのようなお店で、Mさんは人気のない海を思わせるひっそりとした声で「生ビール」とオーダーした。それを聞いて、自分も俄然ビールを飲みたくなった。恐るべし、Mさんヴォイスマジック。
ほっそりとしたビアグラスを軽く合わせて口を付ける。
Mさんがお酒を飲むのを見るの、初めてだ。あんがい、大胆に召し上がる。惜しげなくさらされる喉仏が上下するのを凝視してしまい、「……なんですか」と困ったように笑われてしまう。
「いえ、Mさん豪快に飲まれるなあと」
「? Mさん?」
「あ、ごめんなさい勝手に付けたあだ名です……」
Mさんはムッとすることなくくつくつと笑ってくれたので、少しだけホッとした。そしてそのやっぱり密やかな笑い声に、大いにどきどきした。
「四〇近くなって、まさか新たにあだ名を付けてもらうことになるとは」
「えと、いまさらですけどお嫌じゃないですか?」
「別に、気を悪くはしませんが」
「が?」
「きちんと呼んでもらえたら、もっとうれしいです」
「や、それはちょっと、いちファンとしてはおこがましいというか」
「なんですかその設定」
Mさんは今度こそ大きく笑った。いやん、美声。
本人にばれてしまった上怒られもしなかったし、おいしいビールで酔いが回ったせいもあって、私は自分がどれだけMさん推しかを本人相手に語ってしまった。
「Mさんは私の心を潤してくれるのです」
「ほんとうですか」
「ほんとですって! それに、今日みたいなスーツ姿もいいし、お休みの日のカジュアルな格好もすごくツボだし、声はいつまでも聞いていたいし……」
Mさんがうっすら笑ってうんうんと聞いてくれるのをいいことに、蕩々と語った。語り過ぎて喉が渇いてビアグラスに手を伸ばしたところで、ようやくそれに気付いた。
「……ごめんなさい私キモくないですか」
「キモくはないですよ」
「ならよかった!」
これからも堂々とMさん推し出来る!
安心してさらにグラスを煽る私に、「でもやっぱりちゃんと呼んでください」と再度の要請が来た。
「ですからそれはー」
推しに対する冒涜です。
そう言おうとした私の口は、あいたまま台詞を発することはなかった。なぜなら。
「推しだとかツボだとかでごまかさないで、ちゃんと俺を見ろよって話ですよ」という台詞が、Mさんから発せられたから。
――んん~? 空耳かな?
Mさんの表情は変わらず、うっすら笑みのままだったので、酔っ払った耳がありえない解釈をしたのかも。と思った。思った瞬間、「あと、俺サディストだからMじゃなくSですね」という追加の攻撃が、きた。
「え……Mさん?」
「なーまーえ」
テーブルに、コココッと指先で刻まれる三連符。
「知ってるでしょ? 呼びなさいよ」
さらりと命令してきよった。そんなの、誰が聞くもんか。別にアナタのこと好きだとか服従しますとかひとっことも言ってないし。
そう思うのに。思うのに。
「ほら」
しらずにうつむいたおでこに、Mさんの人差し指が触れる。そのひんやりとした指は、おでこだけじゃなく私の中にあるスイッチも押した。Mさんのひょろんとした長い指で届いてしまった、臆病な心が逃げ込んでいた心の最奥。開かないように厳重に鍵を掛けていたのに。好きにならないように。
この人は私よりうんと素敵で、とっても釣り合わない。分かってて、隣に立つ夢なんか見られやしない。
なら、推しということにしておこう。それなら傷つかないし気付かれない。
いつかMさんが素敵な人と結ばれたら、誰よりも手を叩いて祝福するんだ。それが正しいファンのスタンス。ご祝儀と言う名の課金だって、もちろんよろこんで。
そう、戒めていたのに。
催眠術にかけられたんだ。としか思えない。いつもの笑みを消して、じいっと見つめたりするから、私は何も考えられなくなる。不安も卑屈も、素敵にひょろんと長い腕が、どこかへぽいっと投げ捨ててしまう。
「……間宮さん」
半ばぼうっとしたまま、初めて素直に呼んだ。
「いいね」
満足そうな笑みは、どこか残酷そうでもあった。かわいがって育てた鳥を、調理するために捌く人と同じような。
初めて見る貌だ。私にだけ、見せてくれた。推しじゃないと、教えてくれた。
間宮さんは、私の好きな男。
熱を冷ますためにくいくいと飲んだビールは、かえって体の中に火を生んだ。出所のない熱が体中でうねって、信じられない行動をとらせる。
お店を出て、「駅まで送、」と言いかけた人のほほを包んで引き寄せて、キスをした。
きっと稚拙なそれは、あっという間に主導権を奪われた。
後頭部と腰をすいと引き寄せられて、口づけを何度も与えられた。舌で嬲られる口の中。軽く食まれる唇。その間にも止まらずに、あちこち触れてくるひょろんと長い指。
請われなくても勝手に「もっと、」とねだっていた。
「もっと、なに?」
間宮さんがまた残酷な顔してる。でも楽しそう。
「もっとキスしたい、です。……それ以上、も」
「……たまんないね」
お泊まりしますって家に連絡しなさい、と言われて、恥じらう余裕もないまま目の前で家に電話を掛けた。三十路のくせに今までそんな気配一つもなかった娘からの突然の一報に、電話口の向こうで母はとても驚いていたけど、『明日詳しく聞かせて貰うからね』という条件付きで了承してくれた。――帰ってからの質問攻めはきっとえげつないから、ちょっとこわい。
うむむ、と顰め面してたら、ブラウス越しの背中を背骨にそってなで上げられて、当り前みたいに甘い息が出た。
こんなところで、と思う私はもういない。間宮さんが消してしまった。だから。
ねだる気持ちを隠さないでシャツの胸に頭を預けると、ひょろんと長い腕はタクシーをすぐに捕まえた。
素敵な声は聞き覚えのある地名を告げる。ああ、あの辺にお住まいなんだ。ストーカーとかしないように気を付けなくちゃ。出待ち入り待ち厳禁。
そんな風についついファン目線で考えてしまうのがばれてるみたいに、タクシーのシートの上で手をぎゅっと繋がれた。
『逃さない』って言ってるみたいだな、と思っていたら、耳元で、例のいい声で同じ言葉を再現されてしまった。ひい。
このひとのこと、まだよく知らない。知ってるのは読書会で見せた穏やかさと、ほんの三〇分前から見せられた、普段とはまったく違う面と、どこもかしこもひょろんとしているお姿。あとそれと、どうやらSさんらしい、ってこと。
知ったら、ますます怖気付くかな。それとも、さめるかな。
もっと好きになっちゃったらどうしよう、と慄きながら、――でも逃げる気になんてならなくて、閉じ込められたままの自分の手と、閉じ込めてる間宮さんの手を眺めていた。




