ソングバードの退屈(☆)
「如月・弥生」内の「イージーでルーズでジェントル」及び「夏時間、君と」内の「スムースでジャジーでメロウ」、「ゆるり秋宵」内の「結城ボーイの苦悩」の二人の話です。
彼女が風邪を引いた。
『声が出ないのー』というメッセージは文字だけなのに、しょげた彼女が容易に想像出来る。だって、声が出ないという事は、彼女の一番のお気に入りである歌を歌えないという事だから。
去年の夏に弱音を吐いて受け止めてもらって以来、彼女と音楽は俺にとって欠かせないものになった。辛うじて知っていた程度の歌が、彼女にかかると素敵な贈り物――形はなくても、いつまでも心に残る、そんな大切なものになる。最近ではつられて、一緒に歌ったりもする。永嶋さんは同じ音階を歌ったり、かと思うと低い方に行ったり高い方に行ったり、鳥が遊んでいるようにとにかく自由だ。
俺と歌っている時以外でも、小鳥がさえずるのと同じくらい自然にいつも彼女は口ずさんでいる。街中や電車の中ではごくごくちいさなハミング。公園ではのびのびと。聞けば、最近ではバイト先であるカフェでお客に頼まれるとバースデーソングを披露するそうだ。
今はテスト前期間だからバイトに元々入っておらず、急な体調不良でシフトの穴を開けなくて済んでいるとの事。明日の土曜は一日みっちり俺と勉強会をする予定だったけど。
『勉強会は中止。しっかり休んで』とこちらが送れば、『でも熱もなくって退屈なんだー』と返ってくる。困った人だな。休んでほしいから、会いたい気持ちを無理やり引っ込めたのにそんな風に云われたら『じゃあ、明日の午後イチお見舞いに行ってもいい?』なんて図々しく聞いてしまう。
『うん! 大歓迎だヨー』
『でも顔見るだけだからね』
『それだけ?』
『お見舞いだし、第一しゃべれないんだろ』
つぎつぎ矢のように飛んでくる甘い言葉を何とかはねのけると、最後に『なんとかするからだいじょぶ!』という返事が即座にやってきた。――なんとかって?
答えは、翌日会ってすぐに判明した。
マンションの下までおりてきていた彼女は、声を出すように自然に。
ぷーぷー、ぷーぷぷぷー。
首からストラップで下げていたのは、小学校の時に使っていた鍵盤ハーモニカ。
それで、声と同じ音階、同じリズムで吹かれたら分かる。今のはきっと、『慧君、こんにちはー』、だ。
「こんにちは。……たしかに、会話はそれで『なんとかなりそう』だね」
ぷぷー?
誇らしげにそう云って、そして今更悔しげな顔をして見せた。
ぷっぷ ぷーぷー ぷぷぷぷー!
「なんでっていわれてもなあ」
分かるから分かるとしか。
苦笑してたらもっとむきになるのがかわいい。
ぷー、ぷぷぷ! ぷーぷ!
効果音付きで、歩きながらそんな問いかけをされた。手元にやや集中しすぎている彼女を壁にぶつからないように誘導したりエレベーターに乗せたりしながら出題を待つ。
ぷぷぷぷ ぷぷぷ ぷぷぷ??
「歌う事」
即答したら『ピンポン』の効果音をくれると思ったのに、指をたくさん使って不協和音を浴びせかけられた。
ぶぶーぶー!
「そう? 俺は面白いけどな。次は?」
ぶっぶぶー!
「そんな事云わない」
窘めたら、不協和音を作ってた指がぱらりと鍵盤から離れて、元の一本指になる。
ぷぷーぷー
そう云ってから、鍵盤に触れていたその指も離れた。
「うん」
俺の答えで、細い指がひらりとこちらの小指に絡む。
「思ったより元気そうだけど、早く治して、また永嶋さんの歌声を聞かせて欲しい」
めったにわがままを云わない――付き合う前に、さんざんいじけて情けない自分をさらけ出したので、これ以上みっともないところを見せたくない――俺のそのお願いを、彼女は素直に聞き入れてくれた。
ぷー
それでも、鍵盤ハーモニカでありながらしっかりと声の代役を務めていたその音は、彼女の残念そうな気持ちをきちんと伝えていた。
途中で乗り込む人もなく、エレベーターはあっという間に彼女の家の階についてしまう。
立ち話だけのつもりでも玄関に入ってしまったら、『せっかくきてくれたんだから、やっぱりお茶でもどーぞ』と誘われて、すぐに帰るのはむずかしくなる。分かっていたから、彼女が鍵を開けたタイミングで「思ったよりは元気そうでよかったけど、しっかり元気になって」と繋いでいた手をするりと離した。
じゃあ、って踵を返した途端、ドンと背中にぶつかる感触。
「……今日暑いし、まだ体調悪いんだから、家に入って休まないと」
そう諭しても、くっつけられたおでこはぐりぐりと横回転でこすりつけられるばかり。自分の胴に巻きついた彼女の小さな手はぎゅうとTシャツを掴んでいて、離す気配がまるでない。
「永嶋さん、」と呼んだら、もっと激しくぐりぐりされた。そのまま、後ろに引っ張られる。閉まっているとばかり思っていたドアは開けられていて、何の妨げもなくまんまと玄関の中に引きずり込まれた。その途中、片手で背負ってたリュックの肩紐が開けっ放しのドアのノブに引っ掛かって、ゆっくりと閉まる。大きな音にならないよう、閉じる瞬間慌てて手を添えた。
ひんやりとしたドアに触れている自分の手を見下ろす。彼女に密着されるのは今日に始まった事じゃないのに心臓が高鳴り過ぎてひどいな、と他人事のように思いながら、「……みずほさん」と背後の彼女を呼んでみる。
初めてのその呼び方は正答だったようで、こくりと小さく頷かれた。たまらず、体を入れ替えて自分からハグした。熱はない、って云ってたけど、やっぱりいつもより熱い気がする。
腕の中からこちらを見上げる目。すごく大きいだとか、目つきが鋭い、とかじゃないのに、パワーに満ち溢れていると分かる目。人間より、むしろ動物に近い力強さ。
黒々とした瞳は、見ているものに嘘をつかせてくれない。強がりだって簡単に脱がされて、ぽろりと本音が零れ落ちた。
「……俺が声出なくなればいいのに」
歌を歌っていないと弱ってしまう生き物でも、素晴らしい声の持ち主でもない。いっそうつして早く治ってくれ、と思いながら触れるだけのキスをした。
彼女はびくりと身を震わせて、それでも逃げずに受け止めた。
柔らかい感触に、自分の中の導火線が総毛立つ。もっと、と餓えたけもののように貪欲な自分はフル動員した理性で無理やり抑え込んで、詰めていた距離をゆっくりとあけた。
唇が離れてから、だめだよ、と掠れた小さな声でそう咎められた。
『こんなことするなんてだめ』だったらと思うと、罪悪感ですぐ傍にいる彼女の顔が見られない。ネガティブ思考にずぶずぶと沈み始めた自分を、彼女は「慧君の声が聞けないのは駄目」という言葉で簡単に掬い上げてくれた。
内緒話のように息だけで話す声、それだけでも耳が嬉しい。にやけていたら彼女は再び首からぶら下げたままの鍵盤ハーモニカで武装した。
ぷぷーぷ ぷーぷ ぷーぷぷぷー!
「ごめん、つい」
ぷぷぷぷ ぷっぷぷぷー!
「ごめん」
まったく、具合の悪い彼女相手に見境なく、何やってんだか。
彼女の云うとおり、初めて交わすキスだったのに。
好かれている自覚も好いてる自覚もちゃんとあった。こちらを見つけると場所を選ばす『けーーーくーーーん!!』と一目散に駆け寄り、躊躇なくハグしてくる彼女――そこがバイト先から近い跨線橋の上でも、互いの学校の近くでも――を抱き止めるのは幸せだし楽しい。
でも、キスは今日までしていなかった。俺の方はいつでも準備万端、だったけど、彼女の側がまだそうじゃない気がして。こっちの気持ちだけでキスしたら、何も知らない彼女に『慧君、怖いよ』って怯えられそうで。
なのに、今か。
己の所業に今更うなだれて反省してたら、頬に、知ったばかりの柔らかい感触。
彼女が、つま先立ちでキスしてくれた。――よかった、怒られたけど嫌われても怖がられてもいない。
それだけで膝から崩れそうなほど安堵していた自分に、もたらされた言葉は。
「治ったら、いっぱいちゅーしようね」
声が出ないからといって、そんな台詞を耳元で囁かれて襲わなかった自分は、褒められてもいいと切実に思う。
ふたたび膝から崩れそうになるのを何とかこらえた。ちょっと待って、そんな技どこで覚えてきた。お父さん怒らないから正直に云いなさい。
そう茶化してないと、心臓がますますやばい。回転数上がり過ぎてオーバーヒートしそう。
人の気も知らないで、ってフレーズがこんなに似合う人もそうはいないだろうな。洗濯機の脱水モードだって、ここまで無造作に振り回されはしないと思う。
親しくない人には呆れられてる。バカップルだって笑われてる。勉強のし過ぎであんな子がよくなっちゃったのってひどい事云う人だっている。
でもいちいち傷付いたりムカついたりしない。だって彼女笑うんだ。
『ワタシから見たら、ワタシを宇宙人て云う人は逆に向こうだって宇宙人だから』って。
『みんなに好かれなくたって、ワタシが好きな人はワタシを好きって云ってくれるから、それだけでじゅうぶんだヨー』なんて、強がりじゃなく。
だったら俺もそれがいい。君と一緒なら、ままならない事も笑って流せる。
いつまでも止まない雨や、でこぼこ道や、先が見えないほどくねったカーブだって、小鳥の君がいればなんとかなるって俺は知ってる。
だから、歌って。世界に一つだけの声で。それはいつか、話の通じない宇宙人だって魅了されてしまう魔法。
毛羽立った心も、傷付いた心も、かたく閉じた心も。
一週間後の朝、駅で電車待ちをしていた時に『治ったヨー!』というメッセージが届いた。よかった、と思っていたら数秒後、返事をするより早く電話がかかってきた。
「もしもし?」
何か急ぎの用でもあったかと訝しみながら出ると。
『治ったから、ちゅーしよーね』
――のびやかな声で出来た爆弾を電話越しの耳元に投下されて、大勢の人が行きかうホームで膝から崩れなかった自分は、褒められてもいいと切実に思う。
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一方そのころ、長嶋家の食卓では
ようやく声がちゃんと出るようになった妹は、「ごちそうサマでしたー」と歌うように云いつつ食べ終わったお皿をシンクに置くと、さっそくソファでスマホを弄り始める。そして。
「治ったから、ちゅーしよーね」と、家族全員が揃っている部屋で高らかに宣言した。
母はあらまあ、と笑った。
私はおやまあ、と思った。
父は、――膝から崩れ落ちていた。
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