笹の葉大臣とゆとりの五秒(前)(☆)
司書×司書
「ねがいごと、ひとつ」に関連しています。
「ふひんへほっほふほーほーへふほへ」
後輩の小関君が、揚げたてで運ばれて来た皮付きポテトフライをはふはふと口にしながら話しかけてきた。当然何を云ってるかなんて意味不明なので、「口に物入ってる時は喋らない」とお母ちゃんのような注意をする。すると小関君は『わかった』と云いたげにこくこく頷いた。――四月に私と先輩のいる図書館に配属された新人君は、夏を迎えても未だに『ゆとり』らしさを失わず、指導担当の私としては日々頭が痛い。
「主任て、ちょっと無表情ですよね。何て云うか、笑ってるけど笑ってないみたいな」
「……ああ、さっきそう云ってたんだ」
一、二、三、四、五。カッとなっちゃった時には五つ数えてみて。そのまま感情的に怒らないこと。あんまり効かないけどね。
そんな風に、新人だった頃の私にいたずらっぽく教えてくれたのは、その主任。オフィシャルな場では『主任』呼びだけど、休憩時間やご飯を食べに行った時は新人の頃から変わらずに『先輩』呼びだ。先輩から怒られないのをいいことに、甘えさせてもらってる。
そう云えば私も小関君に五秒ルール教えたなあと思いつつ、何とか怒りを封じ込めた。
「先輩は、ほんとはもっと感情豊かだし、すっごく優しい人だよ。今はただちょっと心が冷凍されてるだけ」
私が努めて冷静にそう答えたと云うのに、汲み取る気ゼロの小関君は再び同じ過ちを犯した。
「へー、ゲラゲラ笑ったとことか見たことないですけどね」
みたら写メっとこ、と無邪気に話す小関君は、去年の七月に凍りつくより前の先輩を知らないし、多分そう悪い人でもない。でも、悪気がなければ何を云ってもいいわけではなく、実際私はその無神経さに今度こそ大いに腹を立てた。
「うるさい!」
五秒待つ、はもう出来ずに、思わず反射で言葉をぶつけてしまった。
小関君は悪くない。分かってる。でも、大好きな先輩をバカにされるのは、職場関連において私は何よりも我慢がならないのだ。
「うわっ」
大抵のことには動じない――最初はへっぴり腰だったくせに、最近ではもう三段の脚立のてっぺんに昇らせたって動じやしない――小関君が、珍しく慌てた顔をしてる。何事かと思ってたら、紙ナプキンをホルダーから出して「どうぞ」とそっと差し出されたので素直に「ありがと」と受け取る。
ああ、私、泣いたか。やだな、お酒飲むとすぐ感情の振り幅が大きくなっちゃって。
「すいません、俺、石黒さんの地雷をピンポイントで踏み抜いたっぽいですね」
「気にしないで、酔っ払って絡んでるだけだから」
「そこは『悪酔いしちゃった』とかって云う方が女子力高くないですか?」
「うるさいな、男に女子力語られたくないっ」
こんな風に、ちょっとイラッとすること云うし割と常識ないけど、妙にウマが合う小関君とはたまにサシで飲みに行く。こっちから誘うこともあるし、向こうからの時もある。
でも今日はほんと、ちょっと『悪酔いしちゃった』。――なーんて実際に云うこと、多分一生ないんだろうな私。グラスに少しだけ残っていた杏露酒のソーダ割をくいっと飲み干すと、通りかかった店員さんを呼び止めた。
「すいませーん、『陽気なロコガール』一つください!」
「あ、あと生中一つ。――よくそんな罰ゲームみたいな名前のカクテルを頼めますね」
「いいの! 好きなんだから!」
「はあ。てか、まだ飲むんですね」
「明日そっちも遅出でしょ、つきあえー」
「まあいいですけどね」
呆れた風な小関君だけど、帰らないでちゃんと付き合ってくれるとこは優しいと思う。
それから私は『情熱の赤いバラ』、『上海ラバー』、『キュートな小悪魔』と、立て続けに小関君云うところの『こっぱずかしいシリーズ』を注文して、飲み干した。そして。
翌日、ちょっと眠そうな小関君が閉架書庫へ向かう時に黒縁の眼鏡を直すふりしてかみ殺した欠伸を隠蔽してたのを見た。
昨日の私は結局あの後酔いつぶれてしまったらしい。そしてどうやら小関君はお会計をして、タクシーを呼んで、私を家まで送ってくれたみたいだ。今朝母に『飲みすぎて後輩の男の子に介抱される先輩がどこにいますか!』と怒られてしまった。すいません、ここにいました。
しかも、私を送ってくれてから自宅のアパートに帰った小関君の睡眠時間は、かみ殺す欠伸の数に反比例していつもより少ないと分かるけど、お店で寝落ちしてから朝までノンストップ睡眠だった私はすっきり爽快な目覚めで、あんなにちゃんぽんで飲んでたのに二日酔いにもならなかった。色々申し訳ない。何なら今日お昼を奢ってもいい。
「だいたい事情は分かりました」
「何の事情?」
他館から送られてきた本を小関君と二人してコンテナから出してバーコードで読み取っていたら、二人の手の中で小鳥のおしゃべりみたいにせわしなく鳴っていた読み取りの音の合間に小関君が話し掛けてきた。
「主任と元彼の」
「……ああ」
昨日は酒が進むにつれてヒートアップしちゃって、『あの野郎、先輩とあっさり別れやがって……』だの、『許さん、にゃーにが『幸せな人生を送りますように』、だ。そんな未練たらたらな短冊書くくらいならもっと根性見せやがれってんだ』等々、かなり毒づいていたからね。
自分の恋が駄目になった訳じゃないし、もう自分的には仕方がないことだとちゃんと分かっている気になってた。でも、お酒がひっぱり出してきた本心は二人が別れたことに未だに拘っていて、気持ちは消化不良を起こしたままだと知る。
「だめなんですか」
「何が?」
「主任と元彼」
「どうにかなるならとっくにそうなってるよ。……もう、一年経つし」
こんな風に知ったような口をきいて、でも先輩の元に恋人だったあの人が戻ってくればいいのにと、ご都合主義な展開を心の奥底で願わずにはいられない。
そうか、それでももう一年経つのか。
あの時の自分を振り返ると、すごく恥ずかしい。
幼稚な正義感を振りかざして、きっと二人が何度も話し合って出した結果に『そんなのおかしい』と文句をつけて、結局先輩に傷付いた顔をさせてしまって。
結局、部外者の私がぎゃーぎゃー喚いたところで何も変わらなかった。何一つとして。
なのに先輩は私に笑いかけてくれたのだ。喪った笑顔とは違う、泣きそうな顔で『ありがとう』と。全てを手放したのに気持ちだけは残ったと分かる表情に、胸を衝かれるとはこう云うことかと思った。
気の利いた慰めは云えずに泣きたくなった。私が泣くのは違うので堪えた。
そもそも、私が憤るのだって、お門違いな話だ。
でも、先輩と恋人さんが二人で育んだ恋を悼む人間が一人くらいいたっていいじゃないと開き直る。
季節は過ぎて、もうすぐまた七夕がやって来る。先輩と恋人さんが出会って、恋をして、それを終わらせた七月が。
一年経ったところで、何も変わっていないように思う。ふらりと出て行った主をしんとした佇まいで待つ部屋の様に静かな先輩と、そんな先輩の傍にまとわりつく私。
先輩を美味しいと評判のイタリアンに引っ張って行ったり、頼まれてもいないのに折り紙飾りを母に駄目出しくらいつつこさえて職場に持って行ったりもした。
私がそんな風にするたびに、先輩が上辺だけじゃない笑顔をちらりと見せてくれるのが嬉しくて、でもちょっと悲しかった。
やっぱり、私じゃ駄目だ。ほんのいっとき慰めることは出来ても本当の笑顔を取り戻すことなんて出来ない。
こうなったら新しい恋で上書きだ、と思ったこともあったけど、氷の笑顔で『石黒さん、そういうのやめてね』と釘を刺されてしまったので合コンに連れてっちゃうぜ大作戦もあえなく塵と化した。
無力だ。笹の葉大臣なんて云われてたって、一人の大好きな先輩の恋さえも、どうにもならない。人の気持ちをどうこうしようって云うのがそもそも大間違いなんだと、頭では分かってはいるのだけど。
七月が近付き、大臣と云われる所以となった笹飾りのメンテナンスを業務の合間に日々行っている。飾りが破れていたら交換して、短冊が絡んでいたら直して。
日を追うごとに増えていく短冊は、たわわに実る果実のようだ。でも数多ある短冊に、今年は見慣れた文字の一枚が見当たらない。角ばったフォントのような、ちょっと癖のある筆跡。
先輩の恋人さん――元を付けて呼びたくはない――を先輩から紹介されたのは、二人がお付き合いを始めたそのひと月後だ。
『石黒さんには色々相談に乗ってもらっていたから』とちょっと恥ずかしそうに笑う先輩と、その横で優しく先輩を見つめていた恋人さんは、付き合いたてとは思えないほどしっくりと落ち着いた雰囲気で、ああ、本当にお似合いなんだなって嬉しくてたまらなかった。
恋人さんとはその時だけでなく、月に一度は会っていただろうか。三人で食事や飲み会をするたびに、先輩の分だけじゃなく私までご馳走になってしまったり、二人の時間をお邪魔してるんじゃないかと思ったりで恐縮したけれど、『彼も石黒さんから話を聞くのが好きで、会うのを楽しみにしているの。だから、遠慮はナシね』とまたいつかのようにいたずらっぽく笑まれてしまえば、先輩命の私としてはほいほい尾を振って付いて行く他に選択肢なんかないのだった。
なのにね、二人でお別れを決めてから私に云うのって、ずるいよね。
その頃にはもう自分は先輩とも恋人さんとも仲良しな気持ちでいたので、驚いたし、怒ったし、悲しんだ。――きっとそこから自分も、まだ一歩も動けていないんだ。
「無力だなあ……」
三段の脚立の上に腰掛け、短冊を直しながら独り言を漏らしたら、たまたま配架のカートを押しながら横を通っていた小関君が「え? 俺ですか?」と慌てたので笑った。
「んーん、私」
笹飾りのすくい網に触れる。願いごとと収穫をすくい寄せると云うなら、私の一年越しの願いだって、と思うけど、願えば叶うと信じるほど子供でもない。
鬱陶しい雨が続く。梅雨は、紙がしっとりするから嫌。恋人さんが帰っていった方でも、こんな風に今、雨が降っているのかな。
それでも迎えに来てよ。
『まだ君が好きだ』って、先輩を抱き締めてよ。
二人は大人だから、携えて生きて行かなきゃいけない物がたくさんあってそれで別れたんだとしても、荷物をおろしてハグすることくらいできるよ。その後のことはその後考えればいいじゃない。
それが出来ないなら、先輩のこと、もう解放してあげて。
だから私の今年の願いごとは、『ステキな彼氏が出来ますように!!!』だ。
私にじゃなく、先輩に。
それが嫌なら、とっととハグしに来いってんだ。
『自分に彼氏が出来ますように』より、あの二人のことをお祈りしていたのを、天が哀れに思ってくれたのだろうか。
七夕を控えたある日の夕方、一本の電話が図書館にかかってきた。
ディスプレイに表示された〇八〇で始まる番号を、利用者さんの携帯かなと思いつつ電話を取った。
「はい、県立図書館です」
『――お忙しいところをすみません』
「!」
名乗らなくても、すぐに分かった。それが先輩の恋人さんだってこと。
ぐるりとあたりを見渡す。広いフロアにいる職員はそれぞれ点在していて、一人は閉架書庫へ、一人は利用者カード作成の応対、一人は貸し出し、一人は返却(これは私)、一人は配架(これは小関君)をしている。先輩はたまたま出張で今日は一日いなかった。
先輩の名を出して、呼び出しを請うその人の声は相変わらず落ち着いていて気持ちがいい。そして何より、その名前を愛おしげに口にしていたことに、じわりと満足した。でも。
「申し訳ありませんが、当該職員は本日出張しております」
『――そうですか、ではまた明日お電話すると、石黒さんからお伝えしていただけますか』
名乗らなくても、向こうも私だって気付いてたことが、やっぱりじわりと嬉しい。
「いえ、それより」と、私は声を潜める。――ほんとのほんとはいけないことだけど、今から私に少しだけ素で応対する時間をください県民の皆さまっ。
私は心の中で県民の皆様に盛大に謝りつつ、低く声を出した。
「お話なら、私がかわりに伺いますが、今は仕事中ですので仕事が終わり次第折り返させていただきます。――宜しいでしょうか」
『分かりました』
私の上がりの時間とあちらの都合で、八時半頃こちらから掛ける約束を取り付けて電話を切った。心臓がバクバクしてる。先輩が知ったら、勝手なことしないでって悲しい顔をするだろうか。
でも、もういやだ。大事な人達が大事なことを知らないところで決めちゃうのは。駄目だとしても自分だって少しは足掻きたい。そうしたらもし駄目でも、諦めがつくんじゃないかと思う。
それから、閉館時間までは作業に忙殺された。やっと一息ついて、館内放送で流れる蛍の光をどこかソワソワした気持ちで聞く。
最後の利用者さんを見送ってから自動ドアを小関君と二人でロックして、その時に「どうしました」って声を掛けられた。
「何か顔、強張ってますよ」
「うそ」
「返却資料に、ひどい落書きや破損でもありました?」
大真面目に聞かれて、「し、仕事のことじゃないけど……」としどろもどろになってしまう。
「じゃあ、何です?」
二人でいつまでもしゃがみこんだまま自動ドアの前にいたもんだから、案の定おじさんの職員に怒られた。
慌てて立ち上がって二人してペコペコ謝る。そして小関君に促されるまま二人で窓や扉が閉まっているかを一つひとつチェックしていく。
「……何でもないよ」
「何でもありますよ、ピリピリしてますよ、石黒さん」
「うそ」
「俺じゃ役になんて立てないの分かりますけど、聞くことくらいは出来ますよ」
高いところの窓を指差し確認しながらそんな風に云ってくれるから、頼りない心がぐらりと揺れる。
「……でも、ほんとに仕事のことじゃないからいいよ」
「別に、それでも大丈夫です」って云ってくれたから、強情張りの自分もやっと「じゃあ……、甘えさせてもらう」と答えた。そしたら、何を勘違いしたのか突然ばっと両腕を開いて、「どうぞ」と抱きつかれてもいいって云うジェスチャーをして見せたので「そこまでじゃないよ」と笑った。
図書館を一緒に出て歩きながら、ぽつぽつ話し始めた。
「……恋人さんから電話が来たの、夕方」
「ああ、そう云えばそれくらいから顔、ずっとおっかなかったです」
「えええ?! 云ってよそう云うの!」
「すいません。……それで」
「それで……こっちから折り返すことにしたんだけど、先輩を通さないでこんなことしていいのかなって思って」
「いいんじゃないですか」
小関君はあっさり云った。私はその答えに眉を顰める。
「もっとちゃんと考えてよ」
「考えてますよ? だって、主任は今日不在だったんだし、石黒さんは石黒さんで、その元彼さんに云ってやりたいことあるんでしょ? それこそ、悪酔いして泣きながら文句を垂れ流すくらいには」
「……うん」
「じゃ、いいじゃないですか。ね? 云ってやってくださいよ、じゃんじゃん」
「ん。そうだね」
無責任な小関君の言葉に、図らずも勇気をもらってしまった。
「でも、冷静に応対できる自信ないなあ」
『五秒数える』って、油性ペンででかでかと手の甲に書いておこうか。いや無理絶対効かない。
「そうですね、結構よく笑顔でブチ切れてますもんね石黒さん……いってぇ」
「あぁらごめんなさいね、手が勝手にぃ」
全くその通りでむかついたので形の良いその後頭部を叩いたらいい音がした。
「ひどいな、せっかく電話で話してるあいだ傍にいましょうかって切り出そうかと思ってたのに」
「……え?」
ぽけっとして立ち止まってしまった私をちらりと見てから小関君も立ち止ると、私の両頬をぷにっとつまんだ。
「あいふんお!」
私が何すんの! と憤慨するとぱっと手を離す。
「さっきのお返し」
「は?」
「これでチャラになったから、心の広い俺は追加オプションも快く聞いてあげますよ」
「ほんとに心の広い人間は、自分で心が広いとか云いません!」
お母ちゃんモード降臨で云い返しても軽く無視。この野郎と思ってたら、「何なら、傍にいるだけじゃなく、ヒートアップしたら止めに入りますけど」と申し出てくれた。
「え、」
どういう風の吹き回し? この間、痛飲した翌日にお詫びとお礼を兼ねてご馳走したランチに味を占めたのか?
「云っとくけど別に見返りが欲しいとかじゃないです」
「う、」
私が考えた若干失礼な想像はお見通しか。失礼しました。
「どうします? 俺はどっちでもいいですけどあと一五分もすれば元彼さんに電話する時間ですよね? つーわけで五秒で答えてください、ハイごー、よん、さん、にー、いち、」
「お!」
「お?」
「おねがい……します」
「はい、かしこまりました」
利用者さんにするみたいなにっこりに、うっかり心が反応したのは内緒だ。
「ありがとう」
それをようやく口に出来たのは、大分歩いてからだった。
「どういたしまして、てか、俺まだ何もしてないですけど」
「それでも」
いてくれるだけで、心強いから。




