クールビズと、その功罪
会社員×会社員
その腕はとびきり素敵だった。
今まで意識していなかった人が、急に射程圏内に入ってくることがある。
全然見てくれに興味がなくて、と云うかむしろ顔が苦手で、同期の子とか他の部署の子がキャーキャー云っててもフーンて感じでいた。――なのに。
捲ったりするから、シャツの袖を。
初めてそれを見た時、目が釘付けになってしまった。
あれが半袖のシャツならなんとも思わなかった。なんでだろ? 長袖を捲くって出てきた腕って「生身!」って云う感じがする。
見てはいけない物を、見てしまったようにドキドキする。
シャツを捲り上げる、その骨っぽい手が好き。たまーに見られたら、ちょこっと幸せ。頑張って仕事しようって気になる。
彼女の座なんて狙ってない。強いて云えば、腕だけ欲しい。あ、シャツ姿の背中も。さらにごっつい腕時計してたら、最高。
何年か前だったら、シャツだけでいるところなんか見ることなかった。いつだって会社はジャケットを着た男性社員に快適なように温度を設定していたから、真夏だってペンギンが凍っちゃう位、寒かった。
それを思うと、温度は快適だし、腕は堪能できるし、クールビス万歳! だ。おかげで私は真夏のひざ掛け毛布とハイソックスとカーディガン(ウール一〇〇%)を手放すことが出来て、ついでにおしゃれも楽しめるようになった。残業中にお気に入りのブレスレットウォッチを眺めれば――もういちいちカーディガンとブラウスの袖をずらさなくてもすぐに見られる――、その優美なデザインに心が和んだ。
こんな風に今日もクールビズの利点をしみじみ噛み締めていた時、うっかりそれを視界に引っかけてしまった。
複合機の前に、北条が立っている。
資料作り? 三〇枚以上はコピーじゃなく印刷機推奨、だよ。違反すると部署ごとに怒られるってこと、忘れてるようなら教えなくちゃいけないかもと、文書入力の手を止め吐きだされる紙の枚数を注視する。
一九……二三……おーいそろそろ……二五で止まった。ふう、やれやれ。
脅かしやがってとその背中を睨み付けたら、複合機の向こうのガラス越しに、目が合った。
目を逸らせ。
心の中のその声を、どっちに放ったか、分からない。
あいつに云った。でも、私にも云った。
目を逸らせ。目を覚ませ。正気になれ。
あれはただの同期の腕だ。顔は充分イケメンだけど私の守備範囲外なんだからイケメンは。なんかホストっぽいし。北条秀人って名前までそれっぽい。
普通が好きなの。キラキラとかしてなくていいの。
なんでそんな赤じゅうたんに乙女が花びら撒く中登場するみたいに大げさなのよ存在が。経理課の係長並みの『あ、いたの?』って云う気配殺しスキルを身に付けたらどうなのよ。
そうやって私が心の中で盛大に八つ当たりをしつつ視線を外して入力仕事に戻ると、北条もやっと目を逸らして原本をトントンと整えた。
そしてコピーとソートとホチキスまで複合機が仕上げてくれた一式を隣の島にある自分の机に置いてから、ゆっくりとこちらに向かってきた。慌ててぐるりとあたりを見回せば、……なんてこった、助けてくれそうな同期も、頼りになる先輩も、みんなデートやら合コンやらで今日は誰も席に残っていないじゃないか。
捲くられた袖をもう一つ、くるりと上に巻き上げる。だから、それ、私にはストリップだって。
北条はこっちを見たままそれを仕掛けてくる。私も、こうなったら取り繕った方が負けな気がして、こっちも遠慮なく腕を凝視する。うん、こんな時でもやっぱり眼福。色気のある腕は正義。
私のデスクの横で腕の持ち主が立ち止まった。それでも警戒を解かない私に、ふ、と笑う気配。
「お疲れ」
「……お疲れ様」
「そっち、そろそろ仕事終わりそう?」
「うん、今日はフィットネスの日だからもう終わりにするつもり」
嘘だ。ずっと通っているフィットネスは月曜から金曜までいつ行ってもいいことになってる。でもそう云っておかないとって、私の勘がそう告げている。
「そっか、残念。食事したかったんだけどな」
「外でばっかり食べてるみたいだけど、ちゃんと自炊したら?」
「……いや、そうでなく」
「北条お料理苦手なら、彼女さんに作ってもらいなよ」
「いないよそんなの」
「うそ」
いるでしょう、その見てくれなら。ああこっち見るな、見られるとどきどきすんのよ。目からフェロモンでも出てるんじゃないの?
「嘘ついてどうする、好きな女に」
「ははは」
好きな女と云われて、思考停止することも受け止めることも出来ずに、思わず笑ってしまった。そしたら北条がムッとした。そりゃそうだよね。さすがに失礼だ。
「……ごめん」
「いや。岡野、いつなら空いてる?」
「空かない」
「……断るにしてももう少し包んでくれない?」
「断られるって知ってるならわざわざからかいに来ないでよ」
「からかってなんかないよ……ねえ、」
纏う皮が、変わった。
「岡野、何で最近俺のことよく見てんの」
うん、北条聡い人だったっけねそう云えば。
「北条の顔は見てない。腕だけ」
「知ってる。俺が腕捲りすると、いつも物欲しそうに見てるよね。だから見せてたんだけどさ」
そう云うこと笑って云うからやなんだよ。
包み隠さずぶちまげると、もっと嬉しそうに目を細めて笑った。
そして、人を肉食獣でもあるかのように、自身の左腕を身体の横、私の目の前に差し出した。ライオンに食らいつかせる生肉みたいに。その手首には、――見るまでもない、ごっつい腕時計。同期会で男性社員が寄ってたかって自分の時計見せ合って盛り上がってた時にもしてたやつ。
「岡野、腕、欲しいでしょ」
「……いらない、見れば充分。今日一日で一週間分くらい見貯めしたし」
「そんなんで、いいんだ?」
やーめーろー。
「しっしっ、もうあっち行って」
「まだ告白しただけなのに、ひどい仕打ちだ」
「会話のついでのあれが告白?」
「ちゃんとしたのはおいおいね。――何が不安なの」
「不安とかじゃ、ない」
嘘だ。
ほんとは、不安だらけだ。
だってホスト系イケメンだし(忘年会で紫色のつるつる素材のスーツを着てカラオケ唄ってたけど、シャレにならないくらい似合ってた)、こっちは平均値よりやや低めのルックスなの自覚してるし。一緒にいたら引け目ばっかり感じそうだ。
社内恋愛なんてしたことないから勝手が分からないし。そもそも、こうして誰かを好きになること自体久しぶりだし。
どうせなら、リハビリがてら経理課係長的な穏やかっぽいひととのんびり恋をしたかった。なのに、よりにもよって北条のことを好きになっちゃった。
違うフロアの違う部署の時は同期会くらいでしか会うことなかったし、それも男女に分かれて席を陣取ってたから、人となりを知る機会も興味を持つこともなかった。
でも、配置換えで去年私の隣の島にやって来てからは、どうしたって目に入ってしまう。
あちちちって、いつまでもコーヒーの紙コップをふうふうしてるとことか。休憩時間にもりもりストレッチしてたりとか。
ブラインドタッチが異様に早いのとか。電話する時の声が優しいのとか。そんな、イケメンだからとやみくもに敬遠していた北条の、普段の様子を知ってしまった。
同じ係じゃないから直接一緒に何かすることは殆どなくて、挨拶したり、せいぜい歓迎会や暑気払いで顔を合わせる程度。なのに、濃やかで優しくてからっと明るくて、おしゃべりが上手で。
――おしゃべりが下手ですぐに沈黙してしまいがちな私が今まで男性と一緒にいて楽だったのは、従弟と幼馴染だけだったのに、飲み会でポツンさんになるといつの間にか横や正面の席にやってきて、仲のいい友達同士が昨日の続きで話すみたいに気安くしてくれたから。
好きに、なってしまった。不本意ながら。
だって、誰にでもそうやって優しいんでしょう? 若干ホスト系だけど、見てくれがいい上に中身もイケメンなら引く手あまたでしょう?
そんな人に告白なんて、とても出来ない。そう思って、早々に諦めた。
なのにクールビズがあるせいで、去年の夏は北条のシャツ姿の背中を何度も目撃する羽目になった。見ると無条件でときめいてしまうけど、でもまあ、それはそれ、恋を諦めてるのは別の話と、観賞を決め込んだ。
今年はさらに、冷房温度がプラス一度高くなったから、去年はお行儀よくボタンを嵌めていた筈の袖が捲くられた腕に、目を引き付けられてしまう。
あの腕を無視するなんて、出来ない。
だって、北条の腕だから。私が忘年会の席でちょっとセクハラっぽい上司に絡まれそうになっていた時、『学生の時、ビアガーデンでバイトしてたんで』って、通路側の席にやって来たジョッキをいっぺんにいくつも持ち上げたのを見せてその場の空気を一新してくれた、あの腕だ。
『お前なら力ありそうだし運べるよな』って男の先輩に名指しで力仕事を任命されて、それを同じ係の周りの人たちは笑うばっかりで助けてくれなかったのに、『二人でやった方が早い』って、空調の効きの悪い倉庫で汗を流しながらいくつも段ボールを持ち上げてくれた、腕だもの。
今までそんな風にしてもらったことなんてなかったから、泣きそうに嬉しかった。
お返しするからって云っても『じゃあデートして』なんて云われてなにそれと憤慨した。気を使わせないようにしてくれたのかなと、後から気付いた。
苦手なイケメンでも。ホストっぽくてキラキラしてても。
中身、好き。腕も大好き。
誰にも気付かれなかったのに、当の本人に気付かれてしまったなんて。
どうしよう。逃げようかな。
そう思って目を逸らしたら、人差し指と中指の先をくんと引かれた。
はっと顔を見れば、弱気な顔した北条が「……逃げないでよ」と小さく云った。
「いつもいつも、何でもない時に俺が近付くとそうやって逃げようとして、デートに誘ってもないことにされて。俺の腕しか好きじゃなくて、俺自身は、嫌われてて。そんななのに、好きとか云えないじゃん」
「嫌いじゃない」
気が付いたら口走ってた。
そしたら、さっきまでかわいそうな顔してた北条が嘘みたいにぱーっとにこやかになった。なんか、パワーアップしてるんだけど笑顔。
微妙に視線を顔からずらして、云うべきことは云っておくことにする。
「嫌いじゃないけど、北条のキラキラしいとこは、ちょっと苦手」
「あー、俺取引先の人にもホストだろって云われてるわ、好きでこの顔じゃないんだけどね」
そう云って、皮肉気に笑った。
「学校の制服は似合わなかったし、普通のスーツ似合わないし、真面目にしててもチャラいって云われるし、好きな子に告白しても冗談にされるし」
「だって、好きになってもらえるとか思ってなかったから」
気持ちを暴露した途端、私の傍で上体を屈めた北条にそっと頭を抱え込まれた。ほんのりいい匂い。香水? そんなの付けてくるから余計にホストとか云われるのに。
「好きだよ、岡野。信じて」
「……どうしようかな」
かわいくないお返事。でも、声が震えてるのとか、全身どきどきしてるのは、きっと伝わっちゃってる。
「信じるって云うまで離さない」
「残業中だから、離して」
「無理。一五分前で終わったことにして、残業届出そう」
「……そうだね」
それだけ云うと、二人して黙り込んでしまう。――こうしてるの落ち着く。いつまでも味わいたくてすっかりその腕の中でくつろいでいたら「信じて。俺、外見はホストっぽくても中身は普通だから。火遊びも、二股も三股もしたことないし、する気もないよ」って、切々と訴えてくるから。
その懸命さに免じて、逃げるのはやめて北条に近付いてみてもいいような気になった。
「……うん。信じてあげる」
そう云ったら、離すって云ってたくせにもっとぎゅうぎゅうされた。
「ちょっとっ、約束と違う!」と異議を申し立てれば、「うるさい、黙って大人しくハグされてろ」って逆切れされた。
なにそれ、って呆れて、しょうがないなあって許してしまう。
腕も中身も丸ごと、――見た目はちょっとまだ丸ごと、じゃないけど、北条のことが好きだから。
去年はシャツ姿の背中、今年は腕。来年は、ホストっぽい見てくれもお気に入りになってるといいなと思いながら、改めて北条からの食事のお誘いをきちんと受けた。
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