出木杉さんの恋(前)(☆)
上司×部下
「如月・弥生」内の「チョコレートはいらない」に関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。
直属の上司である上杉課長は、人柄よし器量よし、後輩にリスペクトされ上役からは信頼を寄せられ、女性社員にアプローチされまくっている文句なしのお人だ。
と云うことで、某国民的アニメの登場人物になぞらえて『出木杉さん』なんて呼ばれるのは仕方がないことと云えましょう。
その出木杉さんの出来過ぎオーラが少し翳っているように見えたのは、バレンタインを過ぎた頃だったと記憶している。
普段、部下がミスしてもあからさまな過失ではない場合、きちんと事情を聞いてから静かに叱ると云うのが彼のスタイルの筈なのに、その日は珍しく虫の居所でも悪かったのだろうか、いつもより感情的に怒っていたように思えた。まあ、叱責されてた後輩も同じミスをまんまと繰り返していたのでそうされても文句は云えないんだけど。
私が感じた小さな違和感はその一つ一つが些細なものだったから、きっと皆は見過ごしてたと思う。
おしゃれなその人の、シャツとネクタイのセレクトがちょっと守りに入っただとか。
休憩中に喫煙所で煙草を燻らすその顔が何かを思い出してか、ふっと翳ったりだとか。
そんなのに気付いてしまったら、いつもなら飲んでも決して乱れない出木杉さんがいつもより早いペースで杯を空けていた飲み会の後、一人で皆と別方向に歩き出したのを見過ごせはしなかった。
「上杉課長!」
酔いどれていてもなかなか素敵なその背中に声を掛けると、いつもよりゆっくりと振り返った。
「……ああ、吹越さんか」
「どうしたんですか、皆、駅の方行っちゃいましたよ」
「うん、あとは静かな所で飲みたくてね」
そう云っている声も、何だか輝きがない。
トレンチコートに、マフラーに、手袋。そのどれもが見るからに品よく質の高そうなもので、なのに本人はとっても寒そうだ。――寒さのせいだけではなく。
「もう、今日ちょっと飲み過ぎじゃないですか」と嗜めたら、「出木杉だってね、たまには痛飲したい時だってあるんだよ」って自分で云ってた。
「じゃあ、気晴らしに二人で飲みませんか。あ、えっと、いわゆるお誘いではないです、純粋に飲みで!」
何の気なしに云ったものの、口に出すとまるでラブホテル行きましょうみたいに聞こえてしまって慌てて否定したら、クスリと笑われた。
「分かってるよ、……じゃ、僕の行きつけでいい?」
「はい」
とりあえず、なんだかいつもより脇の甘い上司を一人にしないで済んでホッとした。
行きつけと云っていたのは、ホテルの会員制のバーでも赤ちょうちんでもなく、三〇代らしき店主が一人で切り盛りしている小さなバーだった。
カロンカロンとカウベルを鳴らしながら店に入ると、「いらっしゃい。……上杉さん珍しいね、お連れさんがいるなんて」と、妙に色気のあるマスターが面白そうに云った。云われた側の出木杉さんは眉を軽く顰めながら手袋やコートを脱いでいく。
「会社の部下だから。そう云う勘ぐりはナシで」
「はいはい」
その軽い口調じゃ信じられてないな、全然そんなんじゃないのにと苦笑しながら、私もコートを脱いでスツールに座った。ドリンクメニューを閉じたタイミングで、マスターに「何飲みますか」と声を掛けられる。
「ボトル出して」
「上杉さんには聞いてないって。こちらに」
「あ、えっと、じゃあギネスビール下さい」
「かしこまりました」
「……随分俺と彼女で扱いが違うよ、津田君」
「上杉さんに今更気遣いって必要?」
「いや、要らないか」
上司の方が年が一〇は上そうなのに、交わす会話はタメ口でテンポがいい。
会社での落ち着いた様子とは違って、なんだか高校生男子のじゃれ合いみたいな二人に驚いていると、出木杉さん改め上杉さんは「いつもは俺、ちょっと作りこんでるからね」と種明かしをしてくれた。そう云えば、一人称も会社では『僕』なのに、ここ来たら『俺』になってる。
上杉さんのウイスキーのボトルとごろんとした氷の入ったグラス、私のギネスビールがそれぞれの前に供される。軽くグラスを合わせると、上杉さんはぽつぽつと話し始めた。
「会社ではああ振る舞うのが一番効率が良いからしてるけど、ほんとは、しょっちゅうむかっ腹も立ててるし立派な紳士でもないよ」
「……そんなの、私にぶっちゃけちゃっていいんでしょうか」
「いいでしょ。吹越さんは、人のアレコレを云いふらすような子じゃないって知ってる」
うわ、『子』とかさらっと云うか。色男っぷりは素でも健在の御様子だ。
小さめな音でロックが流されている店内。金曜のせいかそこそこ混んでいる。マスターは上杉さん以外の常連さんと会話をしながら、慌ただしい様子も見せずにゆったりと酒を提供していた。
「いいですね、ここ」
「だろ?」
私も通ってもいいですか? とは聞けなかった。出木杉さんな上司が、上杉さんに戻れる貴重な場所を踏み荒らしたら駄目だろうから。
その代わり、じっくり酒を愉しむ彼にこのところの疑問をそっと投げかけてみた。
「……最近、何かありました?」
「何かって?」
あ、ビンゴ。そう思った。だって、なければただ『ないよ』って云うよね。
「なんか、様子が違うので。最近の出木杉さん、少し綻んでます」
私がそうバラすと、上杉さんは「気付かれたか」と苦笑していた。
「聞いてもいいなら、聞きます。でもノーコメントならこれ以上はツッコみません」
「……優しいな、吹越さんは」
その心から感心している様子に照れてしまう。でも、いつか見た翳がまたその横顔に現れたのを見て、私の照れはすぐに冷めた。
「ふられたんだ」
「……え?」
「ふられたの。現実世界でも、しずかちゃんは出木杉君よりものび太君がお好みだった」
そう云って、ずっとくるくる回していたグラスを一気に傾ける。そして、やや乱暴な手つきでボトルの中身をグラスに注いだ。カウンターにいるマスターは、『そんな飲み方するな』と云いたげに顰め面をしていたから、今日のそれはやっぱり上杉さんのデフォルトな飲み方ではないのだろう。
「彼女の恋が成就するのを願ってる。けど、俺だって彼女に愛されたかった」
その声があまりに切なくて、思わず「大丈夫ですよ」と根拠のない言葉を口にしてしまう。
「何が」
案の定、酔いどれの上杉さんにはお気に召さなかったらしい。パーフェクトな上司に絡まれる日が来ようとは、なんて、場違いだけど変に感慨深く思う。
「『上杉さんがいいんだ』って云う人は、きっといます」
「いないよ、そんな人」
拗ねて頬杖をつくなんて、そんな上杉さんは初めてだ。
「いるんです」
「いません」
子供か。噴き出すのを何とか堪えた。
「運命の人に、そんな簡単に出会えると思います?」
私が云うと、「女の子だね」と感心された。
「……バカにしますか?」
「いいや。かわいらしいと思っただけ」
穏やかに笑う横顔は見慣れたもの。それを眺めて、「もし、お一人で飲むなら私、お先に失礼しますけど」と今更感が否めないままそう云ってみた。ほっとけなくて強引についてきちゃったけど、ここならぼったくりな料金を請求されることも財布を抜かれることもないだろうし。
でも、上杉さんはこっちを見ないまま、「……ここにいてよ」と云った。
普段はダンディなのに本当はそうでもないんだ。全然、出木杉君じゃないじゃん。普通じゃん。かわいいじゃん。――かわいい?
自分のその思考に自分でびっくりした。なんだなんだ、そんなに酔ってるのか私。
「俺だけのファム・ファタールなんてほんとにいるのかな……」
だらーんとカウンターに寄り掛かって猫背になって飲んでるその人に、「います」と力強く太鼓判を押したら、とても嬉しそうな顔をした。
「吹越さんがそう云うなら、信じる……」
云うが早く、すうっと眠り込んでしまった。今寝たら駄目ですってばと慌てていたら、「珍しい」とマスターが口笛を吹いた。
「え」
「ここで素になるって云っても、寝ちゃったのは初めてですよ、上杉さん。……このところ、なんか飲み方が荒れてる。無理してカッコつける人だから、反動でこうなってるのかも」
心配なんで帰りの面倒を見てもらえますかと聞かれて、「任せて下さい」と引き受けた。
――引き受けたのはいいけど、ほぼ自分一人で歩けない成人男性は重い。その上、飲み会も合わせたらどれだけ飲んだんだか、えらい酒臭いし「上杉さん、おうちどこですか?」って聞いてももごもご云ってるだけでちっともちゃんと答えられやしない。
そんな訳で、仕方なくタクシーで向かった先は私の住むアパート、だったりする。
タクシーをアパートの前に付けてもらって降りると、「もうすぐだから、歩いて―っ!」「やだもうほんと重い!」と叫びたいのを夜中なので我慢してささやきだけで愚痴りつつ、飲んだくれを部屋になんとか連れてきた。
高そうな革靴を脱がせて、脇の下に手を差しこみ、座った状態の上杉さんを引きずる。死体なら足を持って引きずれるのに。
ベッドの上へ何とか乗せると、感心なことに自分で服を脱ぎ始めた。それを拾ってハンガーに掛けていたら。
「ちょっとちょっと、それ以上脱がないで!」
夜の上杉さんは、どうやらまっぱで就寝しているようです。でも、ニットトランクスだけは、なんとか死守した。――がっつり見えちゃってる腹筋は六つに割れてて、布団を掛ける手を止めて思わず『ほう』と見惚れてしまった。
シャワーを浴びたり肌のお手入れをしたりお茶を飲んだりの合間に、相変わらずファブりたくなるくらい酒臭いベッドの上の上杉さんを見る。――まったく、泥酔して眠るなんて無防備過ぎ。一緒に飲んでたのが私でよかったね。出木杉課長ラブな肉食系女性社員だったら今頃ラブホで上に乗られてるとこですよ。
「おやすみなさい」と声を掛けて電気を消す。結局、上杉さんは一度も目を覚まさなかった。




