ラブリーでキュートでディアー(☆)
「クリスマスファイター!」内の「シャイニーでシマリーでブライト」及び「如月・弥生」内の「タイニーでリトルでワンダー」から数年後の二人の話です。
かんな、と呼ぶと、娘は「なーに、おとーたん」とお返事をする。今は機嫌がいいみたいだ。さっきは、「すかーとはくの! ぴんくの!」と起き抜けにいきなり泣き出してしまって困った。僕は『履くな』なんて一言も云っていないのに。
「ごはんにしよう? お腹すいたろ」と声を掛けると、「たべる」と云って、自分のご飯のセットをちゃんと運んできた。――ランチョンマット、プラスチックのコップ、柄の先に兎が書かれたフォークとスプーン。それから、お腹のところに横に長いポケットが付いている――食べこぼしをそこにキャッチする仕組みだ――エプロンを自分で身に付けた。
「えらいね」と頭を撫でて褒めれば、誇らしげな顔をする。その目や鼻に自分と君との面影をつい探してしまうのはいわゆる親ばかと云う奴なんだろうな、と苦笑した。
用意したのは、納豆とご飯とお豆腐のお味噌汁、それにバナナヨーグルト。これプラス緑茶が、かんなと僕の朝ごはんだ。パンよりもご飯、納豆と緑茶が好物だなんてシブい二歳児だなあといつも感心してしまう。本人の資質も大いにあるとは思うけれど、食べ物の好き嫌いがないのはきっと料理上手なお母さんのおかげだねと、ここにはいない君にそっと感謝した。
接客業ゆえに早食いの僕よりじっくりと時間を掛けて、かんなもきれいに食べ終わる。納豆でべたべたになったほっぺと小さな口と手を拭いて、「かんな、絵本を読む?」と聞けば、彼女は目をキラキラと輝かせて「うん!」と弾んだ声を出した。リビングにある低い本棚はかんな専用のもので、そこには僕と君が用意した絵本だけではなく、以前いた店の店長や今の店の同僚から贈られた絵本も収められている。月に一度、全店で行われる絵本の読み聞かせにもたびたび登場する良作もあれば、かんなが自分で選んだ音の出る絵本、仕掛け絵本もあって、ちょっとした絵本カフェよりもバリエーションがあるんじゃないかと云うラインナップだ。
その中から一冊出しては戻すと云う動きを何度か繰り返し、「まよるー」と唸っているかんな。
迷う+困るで『まよる』、らしい。ここ二日ばかりお気に入りのその言葉を、絵本選定待ちの間に君にもメールで伝えたら、すぐに『かんならしい』と云う返事をもらった。きっと、柔らかい笑顔でかんなの様子を思い浮かべている事だろう。
君の様子を思い浮かべている僕も今、多分君と同じ顔をしている。
一〇分近く迷ってかんなが選んだのは、二匹の野ねずみが主役の絵本だった。
僕がラグの上で胡坐を組めば、絵本を片手にかんながとてとてとやってきて、組んだ脚の中に座った。
こうして幼い娘に絵本を読む事が出来るのは、僕にとってとても大切で幸せな事のうちの一つだ。
一番の幸せをくれる人は、今だけここにはいない。離れているのは一週間弱の予定だと云うのに、いい歳をして寂しくて堪らない。
入院前夜である二日前の晩、ソファに腰掛けた彼女を後ろからそっと抱いた。思いがけずしんみりしてしまえば、『春人さん、大げさですってば!』と、結婚しても照れると相変わらず出てしまう『ですます調』で、君は僕をあっさり掬い上げてくれた。
ベランダに出る。洗濯ばさみをたくさん繋いでご満悦のかんなの横で洗濯物を干し、君にリクエストされていた本とハーブティーのティーバッグと爪切りを用意する。冷たい麦茶を入れた水筒と、汗拭き用のタオルハンカチ。それから、一眼レフと『君に頼まれていないけれど渡す物』を帆布の鞄に一つ忍ばせた。その間にかんなも『ながしま かんな』と書かれたネームタグのついた自分のリュックを持ってきて、ハンカチとティッシュと個包装のラムネとクッキーを一袋ずつ入れていた。そこに絵本や替えのおむつや万が一汚してしまった時用の着替えが入っていることを確認して、声を掛ける。
「かんな、行こうか」
「おとーたん、いこうか」
まるでさっき読んだ絵本の野ねずみたちのように会話を交わして、僕とかんなは手を繋いで部屋を出た。
車で行こうかと思っていたけれど、かんなが「ばすにのるの」と云って聞かない――この頑固さはどっち似だろうか――ので、帽子を被せて大通りのバス停まで歩いた。多分、この間トトロを観た影響だろう。やって来たのが猫バスではなくただの都営バスなのを見て「ねこばすじゃない」とガッカリしていたけれど、それでもいつもより高い視点はお気に入りらしく、大人にしてみたら何ともない車窓からの風景を熱心に楽しんでいた。その横顔を、断りもなく失敬して写真を一枚撮った。
バスに揺られる事、一〇分。君のいるピンクベージュの建物が見えると、本来押す方の白いボタン部分ではなく、『とまります』と書かれた紫色の上半分をかんなは何度も押す。時々バスに乗るたびに教えても上半分の光る部分を押すので、一つ手前の停留所を出てすぐにもう僕が白いボタンを押していたのは内緒だ。バスが止まる前からソワソワしていて、降りる時はステップから一人でぴょんと飛び降りんばかりの勢いだった。手を繋いでいてよかった。時々、男の子ってこんな風だろうかと思ってしまうくらいにかんなはこちらが予想しない動きをする。くれぐれも目と手を離さないようにと君から云われ、注意していたのが功を奏した形だ。
平日の病院のロビーには、大勢の妊婦さんがゆっくりと歩く姿が見られた。今にもまた弾丸のように飛び出したくてウズウズしているかんなに、「ここには、お腹の中に赤ちゃんのいるお母さんたちがいっぱいいるから、走ったらだめだよ」と少し脅かし気味に云ったら、かんなは「わかった」と重々しく頷き、今度は地雷原を進むが如く前後左右に目を配り、慎重に歩を進めた。入口からエントランスを抜け、エレベーターに乗り病室まで、大人の足で二分もかからないところを倍以上はかかっただろうか。極端だなあ、と苦笑する。
ようやく部屋の前に辿り着き引き戸をノックすれば、「どうぞ」と世界で一番好きな人の声が聞こえてくる。乱暴にならないように戸を開け、逸る心を抑えながらそっと閉めた。
二四時間ぶりの君との逢瀬。出産と云う大仕事を昨日したばかりなのに、君はいつもと変わらずに笑ってくれた。
「おかーたん!」
僕の手を振り切って勢いよく走りだした途端、かんなは何もないところでびたんと派手に転んだ。すぐにすっくと立ち上がり、何事もなかったかのように再び走り出して、ベッドまで到達すると君の手をぎゅうっと繋ぐ。足をバレリーナのように爪先立ちにしていたので、靴を脱がせてベッドに上げれば、君は自分の横に座ったかんなをそっとハグしていた。
「かんな、今日も来てくれてありがとうね」
「あのね、ねこばすじゃないばすのったの」
「そう」
「ぴんくのすかーとはいたの」
「ほんとだー、かわいいねえ」
「おとーたんがぐりとぐらよんでくれたの」
「いいねえ、かんな好きだもんね」
かんなが君とおしゃべりしている間、僕はベビーベッドですやすや眠るかんなの妹を見ていた。鼻と唇がかんなの新生児の頃と、そして写真で見た赤ちゃん時代の君によく似ている事を嬉しく、僕に似ているところは今のところ眉毛だけなのを少しだけさみしく思いながら、首から下げたカメラで何枚も写真を撮る。そのシャッター音や、かんなの歌う声や笑い声で決して静かな環境ではないにもかかわらず、この子はよく寝ていた。下の子だから、賑やかな方が眠れるのかもしれない。きっとお腹の中にいた頃も周りはいつも賑やかだっただろうから。小さくも健やかなその寝息をいつまでも聞いていたいし、かんなの相手もしたい。こんな贅沢な葛藤が、きっとこれからどんどん増えていく。
昨日の夜のパジャマや、僕の作るご飯についてなど、かんなから君への報告がひとしきり終わると、大事な役目を終えたとばかりにかんなは鼻息を力強く満足げに吐いた。それからリュックの中からラムネを出して食べ始める。僕にも君にも一粒ずつ「どうぞ」とくれるこの子の優しさを愛おしく思う。
「僕もお母さんとお話ししてもいいかな」とかんなにお伺いを立てると「いいでつよ」と寛大なお返事を頂戴したので、腰掛けた丸椅子をベッドに近付け、まずはと軽いキスをした。彼女が嫌がるそぶりを見せないのをいい事に、おでこにもまぶたにも。
「あー! おとーたんとおかーたん、ちゅうしてるー」
目敏いかんなにさっそく見咎められてしまった。
「そうだよ? 昨日は出来なかったもの」と開き直る僕と、「たった一日しなかっただけじゃないですか……!」と顔を赤くする君。結婚する前は会えても一週間に一度が関の山だったのだから、その頃の僕が聞いたらなんて贅沢なと呆れる事だろう。
それでも、君がいる事が当たり前になってしまった。
早く帰って来て欲しい気持ちはもちろんあるけど、ここを出たら目まぐるしい日々が君を待っていると分かっているからそんな我儘は云えない。出来る限りの事はするつもりでいても、母乳で育てたい彼女の代わりだけは男の僕には不可能だ。せめてここにいる間はゆっくり体を休めて欲しいと思う。
彼女の両親はお義父さんの定年退職後、産科の病院がない南の島に移住したので里帰り出産が出来ない。なので前回同様、退院後お義母さんがこちらに来て、ひと月うちに泊まり込んで面倒を見てくれる事になっている。それまでは、出産時期に合わせて取った夏休み――かんなの時がそうだった為、今回も帝王切開での出産が決まっており予めピンポイントで休みが取れた――の僕がかんなと二人で家の事をする。長かった一人暮らしで家事が一通り身に付いていてよかった、としみじみ実感した。
かんなのおしゃべりや歌が聞こえないなと思っていたら、いつのまにやらベッドを降りて、ベビーベッドの柵越しにまたつま先立ちをして、今度はじっと妹を見ていた。
その厳かな横顔は何を思っているだろうか。妹が出来た喜びか、羨望か、母親を取られる寂しさか。そのどれでも僕はいつでも君の味方だよと云うのは余りにも僭越な気がして、ただ寄り添うように僕もしゃがんだ。そしてだっこして立ち上がり、僕の高さから一緒に眺める。
「かんな」
「なーに、おとーたん」
「お母さんがおうちに帰ってきたら、お手伝いをお願い出来るかな?」
「うん! だってかんなはおねーたんだから!」
「じゃあ、かんなが頑張れるようにおまじないをしよう」
柔らかいかんなの前髪をそっと避けて、しっとりと汗ばんだ丸いおでこに口づけた。すると「かんなもおとーたんがんがれるようにおまじないしてあげる」と僕のおでこにむちゅーっと小さな唇が吸い付いた。
「ありがとう」
「どういたまって」
またベッドに乗せてくれとかんなに請われて、再び彼女をその上に降ろす。するとかんなは「おかーたんも、おっぱいでるようにおまじない」と、君の頬にも口づけた。ありがとう、と君から返されたつむじへのキスを、かんなは擽ったそうに受け取っていた。
「あかたんはなにをがんがるかな……?」
かんなは、真面目な顔で真剣に考えこんでいる。なかなか答えに辿り着けない様子を見て助け舟を出した。
「いっぱい寝るのをがんばる、かな。おきたらおまじないしてあげて」
「うん」
満面の笑みをうかべるかんなと、それを愛おしげに見つめる君を見ていたらどうしても我慢が出来なくて、かんなが具で僕たち夫婦がパンのサンドイッチ状にハグをした――彼女のお腹にかんなが当たらないように充分気を付けて。僕にしがみ付き、きゃあきゃあと南国の鳥みたいにご機嫌な笑い声をあげるかんなの頭上で、もういちど君と今度はちゃんとしたキスを交わす。僕の眼鏡が当たらないよう、互いの顔は扇を開くように反対方向に傾けたから、触れ合う唇は扇の要になる。扇がばらばらに壊れるほど激しくキスしたい気持ちを抑え込んで、彼女の負担にならない程度で切り上げた。
バスでのお出かけと、生まれてこの方離れる事がなかった君とこうして離れている事や、会ってはしゃいだ事で疲れてしまったのだろう、かんなは君の手を繋いだまま眠り込んでしまった。君の体に寄り添うかんなのおでこにいくつも浮かぶ汗を、君の空いている方の手がガーゼのハンカチで優しく拭う。
「まだ、ここにいても大丈夫?」
疲れていないか、病院のスケジュールは、お腹の痛みはと気になって聞くと、君は「うん、大丈夫。痛いのは痛いけど、二人が来てくれたから気が紛れる」と云ってくれた。
そして、君からデリバリーを頼まれていた品々をようやく渡して、ついでのように「しのぶさん、手を出して」とお願いした。
君は、「なあに?」とかんなのようにきょとんとしながらそれでも素直に空いている方の手を差し出してくれる。――その掌を上下で包むようにして、小さな箱を渡した。
その中身は、二年前とほぼ同じ。君も、検討がついたのだろう、開ける前からこちらを軽くにらんだ。僕は知らんふり。
箱の上蓋を押し上げれば、中にはペリドットのピアスがちょこんと輝いている筈だ。
生まれた子供の誕生石。かんなの時はオパールだった。
子供が生まれる日は、お母さんとしての第一歩の日でもある。その日の記念にと買い求めた。昨日は『二人の子を持つお母さんとしての第一歩の日』だ。もちろん僕だって二人の子を持つお父さんとしての第一歩の日だったのだけれど、ずっとその身の内で子を育ててくれていた君は僕よりずっと記念日を祝われるにふさわしいだろうと思う。
「もう、春人さんたら無駄遣いして」
「してないよ」
「してるでしょう、わざわざ、こんな」
「しのぶさんが頑張ってくれたんだから、これでも足りない位だよ」
気持ちはあるけれど、家事も育児も、僕の関わりは充分に足りているとは云えない。甲斐性もあやしいし、君に甘えてばかりだ。ため息をこっそりついて、君の肩におでこを付ける。
『ごめん、遅くなる』『ごめん、明日早番になった』と、ごめんばかりが増えていく。本当はありがとうと愛してるをもっと伝えたいのに。
「ううん、――ありがとう、うれしい」
君は耳にピアスを当てて、どう? とおどけてくれた。
「すごく似合ってる。ありがとう」
「どうしてあなたがお礼を云うのよ」
変なの、と笑う君は、恋に落ちたあの何年も前のクリスマスの時とちっとも変らない。
恋をして、君にも好いてもらって、お付き合いをして、結婚して。
三須さん、と呼んでいた君をしのぶさん、と名前で呼んで、永嶋さん、と呼ばれていた僕は春人さん、と呼ばれるようになって。未だに名前で呼ぶのはくすぐったいし、呼ばれればそれだけで幸せになる。
かんなが生まれて、妹も生まれて、なのに今日も僕はこうして君に恋をしている。
好きという気持ちがこんなにも色褪せないだなんて、君にも僕にも予想外だった。
もっと穏やかに、もっと緩やかに、いずれ下降線を描くのだとそんな風に思っていたのに。――どうやら、そうはならないらしい。
君の手を取り、そのすべらかな甲にキスをする。
掌にも手首にもキスをしていたら、「病院、ですから」と君からストップがかかってしまった。
「……ごめん」
「ううん、嬉しいんだけど、その」
嫌じゃないけど困っている、その様子がかわいらしすぎておでことおでこを付けた。自分より、幾分高めの体温。いつもと違うシャンプーの匂い。
「……愛してる」
考えるよりも先に、言葉が出てしまっていた。うわ、と慌てていたら。
「私も」
嬉しい返事に、君をまたそっと抱く。
何度愛を告げたら、伝え切って満足するのだろう。二人とも愛し愛される事には本当に貪欲になってしまったから、そんな日は一生来ないのかもしれない。それならそれでいい。
命数が尽きるその日まで、気持ちを差し出すよ。どうか君も、笑ってそれを受け取って。
かんなが目を覚まして、ほどなく妹も元気に泣き出すと、君は最愛の妻の顔から愛おしい娘たちのお母さんの顔になる。
外光を白いカーテンが和らげている部屋。授乳とげっぷが済み、すっかり落ち着いた赤子を胸に抱いてかんなと一緒に歌を歌う、優しい陰影を纏った君の横顔にレンズを向け、そしてシャッターを切った。
それは僕の撮った写真の中でも大傑作と呼べる一葉になり、部屋に飾られ、手帳のポケットにもお守りのように欠かさず入れて常に持ち歩き、長い間僕の心を温めてくれる事となる。
第一子が帝王切開でも、第二子で自然分娩のできる病院もあります。
永嶋君の話が「夏時間」内24話にあります。




