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夏時間、君と  作者: たむら
season1
13/47

ふえるミライ(☆)

「クリスマスファイター!」内の「どこにも行かないドア」及び「如月・弥生」内の「もしものボックス」の二人の話です。

『来年にはこっちに帰る』と、出来ない約束はしない(りゅう)ちゃんが宣言した通り、七月になってようやく約束が果たされた。これで万事解決らぶらぶデイズ大復活、と思いきや。


美智佳(みちか)ごめん、今日そっち行けない』

 これで何度目のお断わりだろうか。戻ってきて土日お泊りに来られたの、半分くらいかな。――いや、以下かも。仕方ない、お仕事忙しそうだもん。

 バイト先の事務室で休憩中、届いたメールを確認しながらため息を吐いて、『分かった』とだけ返信した。絵文字を付けたら、それがお怒りマークでもスマイルマークでも泣いてるのでも、どれでも過剰に伝わりそうだったから、龍ちゃんみたく文字だけで。

 今日は早い時間にメールの返信が来たけれど、平日はたいがい夜の大分遅い時間で、こんなことなら一日一通はメールを頂戴なんてわがまま云わなければよかったと思う。そもそもそれは離れていた時に交わした約束なんだから、戻ってきた今となっては無効にしてもらって構わない。そう伝えても、離れていた時『守らなくてもいいよ』と云った時とお返事は同じで、やっぱり『それ位は、する』だった。

 相変わらず、変なところが律儀。


 龍ちゃんが帰ってきてから、それまで土日にばりばり入れていたカフェのバイトのシフトも土曜日は夕方まで、日曜日も休めるように融通してもらっていた(もちろん人手の足りない時や忙しい日は出るようにして)。張り切ってお夕飯の準備をしてなくてよかった、とほっとしながら、ぽかんと空いてしまった夕方からの時間をどうしようかとも思う。

 龍ちゃんから『やっぱり今日行ける事になった』なんてミラクルなメールがやって来ることもなく、先日彼女と海に行って真っ黒になって帰ってきた野口君ののろけ話を聞き流しつつ仕事をして、四時にバイトを上がる。夕刻になってもまだまだ攻撃的な日差しを振り切るように折り畳みの自転車をかっ飛ばせば、あっという間にマンションに帰り付いた。

 鍵を開ける。「ただいまー」って云ってみても当然お返事はなし。そのかわり、帰る時間に快適になっているようにそれより少し早くタイマーを設定しておいたエアコンのおかげで、予想通りの快適さが提供された。

 シャワーを浴びる。着替えを持たずにシャワったので、はだかんぼのまま部屋に戻りチェストからショーツを出して身に付けた。『色気成分ゼロだな!』と龍ちゃんに笑われる、レースやリボンの一切ついていない細かいグレーのボーダーのショーツ。いいの、シンプルで履き心地いいんだからと心の中で反論しながら、チェストの一番下の引き出し、龍ちゃんグッズの指定席を開ける。そこからTシャツを一枚出して、そいつを部屋着代わりにしてやった。ちゃんと洗って入れてあるので、残念ながら龍ちゃんの匂いはしない。

 濃い目グレーのサーブブランドのTシャツ。私が着るとだいぶおっきくて、きもち大きく開いた襟ぐりから肩が覗いてしまいそう。

 せっかくだから、ぜいたくにのんびりしようか。ベッドに雑誌でも持ち込んでさ。

 そう決めて、早速巣作りに励む。悔しいけれど、まずはもうちっとも煙草の匂いがしなくなっちゃった龍ちゃんクッションを枕元に持ち込んだ。それから、買ったけどまだ読んでいなかったファッション雑誌に、レシピの幅を広げようと思って買っていた、カリスマ料理研究家が季節ごとに出しているレシピ本の夏の号。それと、長いお休み中に出された課題の為にテキストを。

 ベッドにどさっと本を積んで、それからベッドの横に折り畳みテーブルを広げて、アイスティーを置いた。

 ごろん、と横たわるベッドは、二人で過ごすためにシーツも替えたばかり。リネンウォーターはラベンダーの香りだ。龍ちゃんがこれなら『臭ぇよー』って文句云わないから。一人で過ごすって分かっていたら、ローズウォーターにしたのにな。


 時々アイスティーに手を伸ばしながら、寝そべって雑誌に目を通す。だけど、いいなと思う服も靴も髪型も、作りたいなと思うレシピも全然見つけられなくて、結局また積んだ(テキストは目を通すことすら諦めた)。


 龍ちゃんが帰ってきたら、それで万事解決だと思ってた。私達の前に横たわっている試練は距離だけなのだと。でもどうやら違うみたい。仕事が忙しくて会えない以外の、何か新しい試練がある、らしい。――気のせいならいいのに、悲しいかな勘ぐろうとすればいくらでも勘ぐれるシチュエーションをうっかり目撃してしまった。

 そんなの、一人でうじうじ悩んでないで直接聞けばいいんだよ。そう思うけど、聞いたことでスパッと恋を絶たれるよりはと、つい先延ばしを望んでしまう。そんな、弱虫な自分に泣きたくなる。

 でも、たとえ目の前に龍ちゃんの携帯がロックなしで置いてあったとしてもメールの中身や通話の履歴を見たりはしない。そもそもそれはマナー違反だし、見るってことは疑っているってことだ。限りなく黒に近いグレーな現場を見てしまったけど、でもどこかでまだ龍ちゃんのこと信じてる、でも確かめもせずただ怯えてる――やめやめ!

 こんな時には料理に限る。そう思って、がばっと起き上がった。『部屋着』は脱いで、いつもの部屋着になる。そのままぺたぺた裸足でキッチンに歩き、そこでようやくスリッパを装着。以前、夏に裸足のままお料理してたら、それ見た過保護な龍ちゃんに『もし包丁落としたり油が跳ねたりしたらどうするんだ!』と怒られてスリッパを買い与えられて、それから履くようになった。インソールにいぼいぼのついた健康サンダル。ちっともかわいくないけど、そんな訳でお気に入りだったりする。

 エプロンを身に付ける。龍ちゃんスペシャルはナシで、私がスペシャルに好きな――美智佳スペシャル、とは別――食べ物を、作る。もう手順と分量覚えちゃったからレシピ見なくても作れる、簡単な奴。

 皮つきフライドポテトを山盛りに。お酢とにんにくと生姜をきかせた、手羽元のフィリピン煮を寸胴鍋にどっさり。

 エビ入り生春巻きに、パリッと揚げたベトナムえびせん。

 つい夢中になってどれも大皿にアホ程作ったけど、私一人じゃ食べきれない。夏だからすぐに痛んでしまうし。

 と云う訳で、電話を掛けてお兄ちゃんを召喚した。ぶちぶち文句を云いながらも、一時間後にはインターフォンを鳴らしてくれたあたり、ちゃんと優しい。

「おう、胃薬持参で来たからアホ程食ってやるぞ」

 私が何で呼んだか、分かってるんだね。


 お兄ちゃんが手にぶら下げてきたお土産は、私の好きな缶チューハイの六個パックのアソートだった。ありがたく受け取る。

「どうぞ、食べて食べて」

「云われなくても食うっつうの」

「もー、口悪いなあ」

「龍ほどじゃねーよ」

「龍ちゃん、そんなには口悪くないと思うけど」

 私がビールを勧めながら自分もお持たせの缶チューハイのさくらんぼ味を開けていると、「そりゃ、大事な彼女だから気い使ってんだろ」とあっさり云われた。

「――まだ、大事なのかな」

 呟きは小さかったから、テレビのリモコンを弄ってたお兄ちゃんには多分届かない。


 お兄ちゃんも龍ちゃんも、細身のくせによく食べる人達だ。大皿に積んでいた筈のお料理の山が、早送りみたいにあっという間に減っていくさまは見ていてすごく気持ちが良い。

 何だよ俺東南アジアメシ守備範囲外だよとか、また文句をぶちぶち云いながらもお兄ちゃんは生春巻きもえびせんも他のものと同じようにもりもり食べていた。私も女子の割に食べる方だけど、やっぱり敵わないや。


 程よく酔いが回ってきた頃、その尋問が始まった。

「今度は何だ」

「今度はって何よ、いきなりだなあ」

「美智佳がこんな風にいきなり人を呼び出す時って、いっつもバカの一つ覚えみたいに『龍ちゃんがー』って云ってるだろ? でも龍は帰ってきたから違うかと思ってたんだけど」

「違くない」

「え」

「……龍ちゃんが」と云いかけたら、お兄ちゃんがグホッ! とビールを噴いた。げほげほと何度も苦しそうに咳をして、それが落ち着いてから慎重にビールを再び口へ運ぶ。

「やっぱりそれかよ」

「だって」

 涙がせり上がってきて慌ててポテトを抓んだら、塩のカタマリがついてたみたいでとてもしょっぱかった。もぐもぐして時間を稼いで、缶チューハイでのどを潤して、ようやく涙が収まってから話しだす。

「――私と、お別れしたいのかも、龍ちゃん」

「ありえねえよ」

 即答が嬉しい、けど。

「だって、このところずっと週末来ないよ。平日だって」

「あいつは社会人だぞ、暇な学生とは違うんだ」

 今全国の学生の皆さんを敵に回したねお兄ちゃん。

「それに、なんかこそこそしてるし」

「あいつの秘密主義は今に始まったことじゃねーだろ」

「それに、」

 あ、駄目だやっぱ泣きそう。

 慌てて横に畳んであったエプロンを引っ掴んで、それに顔を埋めながら云った。

「……女の人とホテルにいるの、見た」

「……んだと?」

 ぶっきらぼうだけど優しかったお兄ちゃんが一転、中学卒業以来封印している筈のヤンキーバージョンの声になってる。

「あ、ホテルって云っても繁華街のラブのつく方じゃなく、ちゃんとしたシティホテル? っていうの?」

「……そっか。にしても、他の女と二人でいていいことにはならねえけどな」

 この間『来られない』と云われた土曜日の昼、そのホテルの売店でしか売ってないクッキーがどうしても食べたくなって、炎天下にはるばる都内まで足を運んだ。去年の私の誕生日に龍ちゃんがお泊りに連れて来てくれた、クラシカルなホテル。その時ここで買ったクッキーを龍ちゃんも私もいたく気に入ったので、次にうちへ来た時にでも食べてもらおうと思って。

 お目当てのものを無事手に入れて満足していたら、目の端に何か見覚えのあるものを引っ掛けた気がして、そちらを何気なく見やると。

 ――嘘でしょ。

 龍ちゃんが、笑って女の人とホテルに入ってきた。慌てて、植木の陰に隠れる。龍ちゃんは気付かない。息を潜めているうちに、二人は私の前を通り過ぎた。

 そのあと二人は一階のラウンジには行かずエレベーターで上がっていった。客室利用なのか上の階にあるレストラン利用なのかは、分からない。乗っていったエレベーターが、どの階で止まったかを見る勇気はなかったから。それを、電話やメールで聞く勇気も。

 だってそんなの無理じゃん。

『ねえ龍ちゃん、こないだ女の人とホテル行ったでしょ、お誕生日に連れてってくれたとこ』って、口にしただけでもれなく全身ざくざく傷つきそうだ。

 そんな訳で、せっかく入手したクッキーも龍ちゃんに出すことが出来ず、一人でその晩全部食べた。前に食べた時にはバターのいい匂いのするさくさくでおいしいクッキーだったのに、ちっとも味が分からなかった。

「……俺から、事情聞いとくか?」

 お兄ちゃんのその申し出には、首を横に振っておいた。これは二人の問題なんだから、二人で解決しなくちゃ。聞くなら自分で。

 私がなけなしのプライドを総動員してそう思っていたら、「……そうか」とお兄ちゃんがため息を吐いた。

「なんかあったら、俺があいつの顔の輪郭歪むくらいにぶん殴っとくから」

「――ん。ありがと」

 元ヤンが云うとちょっとシャレにならない。身内から犯罪者は出したくないので、気持ちだけ受け取ることにした。


 文句を云いつつも大皿料理をあらかた片付けてくれたお兄ちゃんを玄関まで見送って、それから鍵を掛けて、チェーンも掛けた。

 少しだけ残ったお料理を小さな器に移して大皿を洗い、ホーローのポットを使ってお湯を沸かす。お腹ははちきれんばかりだけど、コーヒー一杯くらいなら入るだろう。

 ガス台にポットを掛けて、火を付ける。一杯分だから、お湯が沸くまでそう時間はかからない。他のことをするには半端なその数分間、青いガスの炎がポットの底を舐めるように揺らめくのをボーっと見て過ごしていた。


 もし。――もしほんとに龍ちゃんが、私と離れることを望んでいたら。

 本当に嫌だけど、こればっかりはしょうがないと思う。お兄ちゃんの拳でも解決出来ないこと。

 龍ちゃんのこと好きな人がちょっかい出してきたら闘うつもりだけど、そっちが龍ちゃんと両思いなら、私の方が要らない存在になる。

 たくさん泣くだろう。嫌だってわがまま云って取り乱すだろう。みっともない自分をこれでもかと晒し出して、自分でも知らなかった醜い自分と対峙するかもしれない。

 龍ちゃんを恨んで、次のお相手の人のことも恨んで。

 それでも、固く龍ちゃんの服にしがみついていた指をちゃんと自分の意志でいっぽんいっぽん外して、最後は『ばいばい』って云える自分でいたい。

 そんな日が来たら、引っ越そうかな。ここには龍ちゃんとの思い出がぎっしり詰まっているから。

 髪の毛も短く切っちゃって、まるで違う私になって、コナコーヒーも飲むのをやめて。

 ――恋を忘れるってことは、それまでの自分のいっさいがっさいを切り捨てることでもあるんだな、私の場合は。

「……辛いなあ」 

 気が付いたら、直火のポットの細い口から勢いよく湯気が出て、蓋がカタカタ云っていた。かちんと音を立ててボタンを押し込んで、火を消す。

 すっごく情けないけど、今ここで龍ちゃんに手を離されたら、私はこの先どうやって生きて行ったらいいか分からない。

 小学生の時、初めて龍ちゃんを見て、この人がヤンキー兄の代わりにお兄ちゃんになってくれたらいいのになあって思った。冷たそうに見えるけど本当は優しい龍ちゃんに、中学の時は憧れを抱いた。

 高校生の時、龍ちゃんを異性として意識して好きになって、恋人になれたらいいのにってぼんやり思ってた。それでも叶う日なんて想像もしていなかった。

 大学生になって、両思いになって、ずーっと龍ちゃんの傍にいたいって思うようになっていた。

 結婚とか、正直まだピンとこないけど。でもいつかそうなったら嬉しい、なんて。

 だから、今まで私の未来は『龍ちゃんと一緒にいる』っていうそれだけだった。でも。


 まだ傍にいてくれるの。それとも要らないって云われるの。

 私は他の人を好きになるの。それとも一人でずっと生きていくの。

 未来に選択肢が増える。明るくて楽しそうな未来じゃなく、どうやら悲しくて切ない未来たち。もしものボックスに詰め込んでいた筈の希望は、いつの間にか不安にすり替わっていた。



 いつお別れを言い渡されるかと思うと怖くて、こちらからメールを送る機会が激減した。

 それでも、時折龍ちゃんからやってくるメールを恐る恐る開けば、泣きたくなるほど嬉しくなる。

『忙しいのか』

『無理はするなよ』

 人の心配ばっかりして。自分はどうなの。

 お仕事は相変わらず忙しそう。土日のどっちかでも休めているのかな。

 私が龍ちゃんの為にしてあげられることは何かないのかな。――それがお別れなのかもしれないけど。



 翌週、ようやく龍ちゃんが久しぶりに私のお部屋にやって来た。――やっぱり、また少し痩せて。

「お夕飯、『龍ちゃんスペシャル』でいい?」と聞いたら、「『でいい』じゃなく、『がいい』」と即座に訂正された。今まで聞いた時と同じリアクションに心がほんのり温まる。

 実はもう下拵えが出来てたりするから、お夕飯までのんびり出来るし、いちゃいちゃだって出来る。でも。

 いつもならそのタイミングで来る筈のキスやハグが、何故か与えられなかった。――ああ。

 私はシンクの方を向いて、龍ちゃんに平気なふりした背を見せる。

 今日、なのかな。

 上手に手を離せるだろうか。最後に食べてもらう『龍ちゃんスペシャル』は上手に作れるだろうか。冷たくなってしまった手を思わず結んで、開いた。


 結局、お夕飯の時間までは、撮りためていた龍ちゃんの好きな番組を一緒に見てた。

 それから、まだテレビを眺めている龍ちゃんを一人残してご飯のお支度。丁寧に煮炊きした。なるべく悲しい気持ちは籠めないように、感謝の気持ちだけ伝えられるように。まあ、無理だろうけど。

 出来上がった『龍ちゃんスペシャル』を、龍ちゃんはいつものように大げさなくらい喜んで口にしてくれた。――嬉しいなあ。

 好きな人が自分の作ったご飯を美味しそうに食べてくれる、これ以上の幸せってそうそうないよね。

 もし今日が最後だとしても、龍ちゃんが気まずそうにもそもそ食べなかったことを感謝しちゃうよ。ちゃんと『今日もバカみたいに美味ぇーなー』『美智佳メシにまた殺された』って云ってくれたこと、私一生覚えておかなくちゃ。

『よかった』『もっとあるよ、食べて』と、にこにこ顔を見せて、心の中では静かに泣いてた。


 龍ちゃんが何か云いたそうにしている。ご飯が終わってから、もうずっとこんな感じだ。

 その空気に耐えられなくなって、食後のコナコーヒーを龍ちゃんにどうぞと勧めながら何でもない風に「分かってるから、云わなくてもいいよ、その代わりに答えだけ教えてね」とこちらから切り出すと、「え」と驚いた龍ちゃんと目が合う。ぽかん、て云う擬音がぴったり。そんなに驚くこと? とこっちもびっくりしながら、口にした。

「いち、『美智佳ごめん別れてくれ』、に、『おまえに厭きた』、さん、『好きな人が出来た』のうち、どれ? 出来れば『いち』がいいんだけど」

 せっかくおどけて云えたのに、云い切ったタイミングで涙がボロッと零れた。

「! ご、ごめん」

「いや。――美智佳、俺が、そう云うとでも思ってたのか」

「違うの?」

 立ち上がった龍ちゃんに、ぐっと抱き寄せられる。

「正解は四番、『美智佳、結婚してくれ』、だ!」

 ふざけんな誰が別れると思ってんだと、怒った口調で龍ちゃんが云う。

「おまえ、俺と別れたいのか」

「そんな訳ある筈ないでしょ!」

「だよなあ。じゃあ、なんでそんな事云い出した?」

 云わないと駄目か。そうだよね。頑張って、呼吸を整えた。

「だって、見たよ私」

「何を」

「龍ちゃん、女の人と、少し前の土曜日に、二人でっ、ホ、ホテルに、」

 ああもう、泣きながら話すからぶつ切りだ。

「はあ? ――ああ、あれか」

 別れる選択肢は否定されたのに、ホテルに来たことは肯定されて、もう頭がぐちゃぐちゃだ。

 龍ちゃんは私の涙をそっと拭いて、それから「美智佳さんお願いだから俺の話を聞いてください」と下手に出て交渉してきた。


 実はあの日、龍ちゃんと実は会社の後輩さんだった女の人は、会社のパーティーに使う予定のナントカの間を下見させてもらっていたそうだ。

「だから、あの日は土曜だけどスーツだったろ?」と聞かれたけれど、『龍ちゃんがホテルに女性と連れ立って来た』と衝撃を受けていた私には、服装がどうだったかなんて覚えていない。

 龍ちゃんの好きなホテルメイドのクッキーを買いに来たのにその見返りがこれかと、ものすごく落ち込みもした。

「おまえの誕生日に泊まったホテルで浮気するとか、ありえねえだろ」

 それを云われると申し訳なくなる。

「だって、土曜日なのに」

「土曜日でも、仕事は仕事」

「じゃあ、その下見以外の時は?」

「それも、ほんとに仕事」

「こっちに帰って来たばっかりなのに」

「――今ちょっと会社が大きく転換しようとしてて、俺達はその船が沈まないように、潮流を読んで、波に耐えて、下っ端なりに出来る事を皆でなんでもやろうって取り組んでるとこなんだ。帰ってきたばかりだからって、仕事しなくていい事にはならない」

 そう云いながら、どこか自分に言い聞かせているような龍ちゃん。

「……お仕事、大変?」

「ああ。くっだらない内容の事も、くっだらない足の引っ張り合いもあって、大事にしたい彼女をろくろく構ってもやれない。ストレスでハゲそうだ」

「ハゲても、好きだよ」

「何かその前提ありきの『好き』はやだなー」

 苦笑するけどね、ほんとにそう思うんだもん。

「ごめんね、お仕事大変な時にこんな、勘違いして」

「いいよ、俺が寂しくさせたからだろ、ごめんな」

 それには答えないで、ダイニングの椅子に座る龍ちゃんの膝にぺたんとくっついた。わしゃわしゃと頭を撫でる手。

「それにしても、なんか急じゃない?」

 何が、とは明言しなくても龍ちゃんは私の顔を見てああ、と分かってくれた。

「俺的には急じゃないし」

「?」

「帰ってきたら、プロポーズしようって決めてた。だから、向こうでも頑張れた」

「ほんとに……?」

「ああ。云っとくけどな、俺、おまえの事随分待ってるからな? 返事はあんまり、焦らしてくれるなよ」

 ってことは、龍ちゃん、もしかして。

 ――高校に入って部活を決める頃、お兄ちゃんとリビングで『女に飯をサッと作って出されると、ぐっとくるよな』なんて盛り上がっているのを聞いて、むかっ腹を立てながら売られてもいない喧嘩を勝手に買うみたいに調理部に入った。

 ――バイト先決める時、携帯サイトを見て悩んでいたら、バイトもお客さんも男女比率で云うと女の子が多そうなカフェの求人を指差した龍ちゃんに『ここなんか美智佳好きじゃないか?』ってアドバイスされた。それが今のバイト先。

 あれやこれやと、知らずに介入されていたことや、マンション選びに熱心だったことを思い出す。それはつまり。

「私のこと、結構前から好き?」

「云わねえ。ぜってー云わねえ」

「教えてよお」

 龍ちゃんのけち、なんて毒づきながら向こうを向いてる背中にぴったりくっついたり、ぺたぺた体を触ったりしていたら、ぐるりと振り向いた龍ちゃんに「あーもう、黙れ」とキスで口を塞がれた。


 みちかへんじは。

 ん、いまこんなじょうたいでしたくないっ。

 それもそうか。


 その時はそれだけ交わすのが精いっぱいで、あとはもう言葉にならなかった。


「龍ちゃん、会社に通うのは遠くなるけど、よかったらしばらくここにおいでよ」

 さっきまでの余韻でぽーっとしたまま、コトが済んでからそう話しかけたら、龍ちゃんが息を呑んだ。

「私が龍ちゃんの面倒見てあげるからさ、今はお仕事に集中して」

「――ったく、おまえってほんっといい女な」

 龍ちゃんが、がばっと私をハグする。それを笑って甘えんぼさん、なんて云ってみるけれど、ほんとに甘えんぼさんなのはもちろん私だ。

 面倒見てあげる、なんて云って、ほんとはまだまだ会えない日が続くのが寂しいから、傍にいて欲しくて提案しただけ。――それに、結婚のシミュレーションにもなるでしょ?

「そうさせてもらおうかな。ついでに、早いとこ美智佳ん家に挨拶も行っちまおう」

 お嬢さんを下さいって云ったらおまえの兄貴に顔の輪郭歪むくらいにぶん殴られるかな。

 暢気にそう云うから、「それはシャレにならないかも」と真顔で告げると「あいつ美智佳の事溺愛しちゃってるからなー」と顎を擦ってもう痛そうにしてたので笑った。


 結婚式、いつ、どこでどんなのをしようか。神前式? 教会式?

 地元でやりたいけど、龍ちゃんの会社の人のことを考えると都内の方がいいのかな。

 子供は何人いたら嬉しい?

 籍を入れるのはとりあえず学校卒業してから? それとも入れるだけはすぐに?

 新居ってどの辺に構える? マンション? 戸建?


 嬉しい未来の選択肢が、どどーん! と増えた。それが嬉しくて頬を緩ませてたら「で、返事は?」と面白くなさそうに龍ちゃんが私の髪を弄りながら聞いてきた。

 そんなの、一つに決まってるじゃんね。


野口君はこちら→ https://ncode.syosetu.com/n4134ci/33/

龍ちゃんちょっとだけ登場→ https://ncode.syosetu.com/n5962bw/42/

14/07/28 誤字修正しました。

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