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夏時間、君と  作者: たむら
season1
11/47

夏が来たけど

「夏が来るから」の二人の話です。

※濃いめR15です。苦手な方は回避してくださいませ。

 そもそも、夏の定義とは何ぞや。

 そう誰かに聞きたくなるほど、今、私は混乱している。

 いつから、夏? いつまでが、夏?

 あ、でも『必ず恋愛(そういう)モードになること』と阿部(あべ)さんに云われていたのは『夏ぐらいまでには』だった。ぐらいと云うくらいだから期日は厳密じゃなくても許される、かな。夏の間ならギリギリセーフだろう、と若干拡大気味に解釈する。


 夏。

 ――半袖を着るのが夏だとするならば、私にとっての夏は五月の晴れた日から。もうそれはとうに過ぎてしまった。ただし、半袖を着て過ごす一〇月半ばまで個人的には夏とみなす。大したロングスパンだけどさすがに九月や一〇月までお待たせするほど無神経ではない、と思いたい。

 ――立夏を夏のはじまりだとみなすならば、五月五日頃と云うことでやはり過ぎている。立秋までを夏とみなすならば、八月頭までは夏。

 ――梅雨明けからが夏なら、七月の下旬からが夏。

 ――夏を大体のイメージでとらえるなら、七月と八月。


 そんなもんか。まあ要するに七月下旬、本日梅雨明けの今現在は、きっと夏なんだろう。それはさておき。

 私は未だ、『夏が来る前』と同じ状況に甘んじている。


 最後に指先にキスと熱い息を落とされてから、一〇日が経っていた。いつもなら、そろそろ次の『予約』を不意打ちで喰らうタイミングだ。

 それを楽しみに待つようになったのはいつからなのか、自分でもはっきりとは分からない。手に施されるキスの為に、ちょっとだけ手首に香水を付けてみたり指先をケアしたり、近づかれた時に万が一見られても恥ずかしくないよう下着に気を使うようになったり。元彼との別れから二年、これまで女らしさ方面に気を使おうとも思わなかったと云うのに。


 阿部さんは、ずっと私を待ってくれている。少し前を歩きながら、それでも手は離さない、それくらいのスタンスで。――たまに焦れたようなキスを、指や手の甲に落としはするけれど。

 随分、お待たせしたままだ。待っててくれるって分かっていて、ずるずるとそれに甘えて。

 六月が過ぎ、七月が来ても、阿部さんからは急かす言葉は何一つ聞かされず、私もそ知らぬふりをしていた。指や手に与えられるキス以上を望んでいたのは確かだ。でも、いざとなると足が竦んでしまう。

 もうちょっとこのまま受け身で、手に落とされるキスをただ待っていたい。一歩踏み出した世界で傷つくよりは現状維持で。そんな打算が働いていた。――ずるいの。


 でも、もう八月も近付いてしまっている。いつ呆れられ、諦められてもおかしくない。同じフロアと云うだけの、部署も年も違うただの同僚――どうも秋の組織改編で主任になるらしいので、そうすると直接ではないにしても上司になる――同士に戻ったら、きっと崖線歩きで泣き言を云ってた情けない阿部さんにはもう会えない。


 それでもいいのか。

 いいわけが、ない。


 あの指へのキスが最後で、二度としてもらえないのは嫌だ。

 それだけじゃない。阿部さんとのちょっと突っかかりあうみたいな会話も、それを仕掛けて来たくせにさらっと畳んで喧嘩にまではしないところも、綺麗なお箸使いも、すごくおいしそうにビールを飲む姿も、とっくにお気に入りの特等席に座っている。


 手に落とされていた幾つものキスは、恋愛に対して臆病になっていた私に自信を取り戻させてくれた。キスのあと、はあ、と漏らす筈ではなかっただろう、阿部さんの甘い息を耳が拾ってしまえば、心が震えた。


 欲しい。阿部さんが全部。そう思っていて、思うだけだった。けれど、いつ来るのかわからない『予約』をこれ以上待っていては駄目だ。『予約』が無効になる前に、あの人が欲しいのなら自分から手を伸ばさなくちゃ。


 よし、と意識すれば、ようやくはっきりとモードが切り替わった。


 一旦自覚してしまうと、もうこれ以上お待たせしたくなくて、早く伝えなくちゃと焦ってしまう。あんなに時間があったくせに身勝手だなあ。溜めに溜めた宿題を、夏休みの最後の日にやっつける子供みたいだ。

 もし会えるのなら今日、会いたい。さすがに気持ちを伝えるのは廊下の片隅ではなく、社外でしっかりと向き合って伝えたいから。

 約束を取り付けるのに、直に話すのは緊張しそうで、かといって書類にメモを付けるようなやり方は回りくどい。私と阿部さんは、仕事上での接触はそうある方でもないから不自然だし。プライベートなメールアドレスももちろん知ってはいるけれど、仕事中に私用の携帯は見ないと聞いている。と云うことで、連絡手段は結局社内メールに落ち着いた。休憩中に、それを送る。


 ――お話ししたいことがあります。今日の夜、お暇ですか? 松田(まつだ)

 タイトルもなしにそれだけを送った。すぐに返事が来た。

 ――わかった。一階のカフェで待っていてください。七時には出られると思う。 阿部

 やはりタイトルは「Re:」のみ。

 阿部さんのいる部署の方をちらりと見やるけど、壁の向こうなので当然見えはしない。どんな顔しているのか、とても気になる。阿部さんの心が今どこにあるのかも。それをいつも指先や手の甲に教え込まれていたのに、それでもこんなに不安だ。なら、阿部さんはもっとずっと不安だっただろう。あの食えない笑顔の下に、どんな気持ちを閉じ込めているのかを知りたい。

 待ち合わせて会ったあと、飲みに行くのでも、食べに行くのでも、関係が深くなるのでも、どう動くかは私と阿部さんの二人の気持ち次第。『もう遅いよ』と切られることも一応想定内なので、会うのは少し怖い気もする。

 気が付いたらワンピースの上に羽織っていたカーディガンの胸元を強く握りこんでしまって、綿麻のそれに皺が付いた。


 少しでも気を抜くと暴れそうな心臓と心を「平常心―、平常心―」と宥めつつ、何とか六時半に仕事を終えた。パソコンの電源を落として、周りの人たちに「お先に失礼します」と声を掛けながら立ち上がる。

 廊下でその部署の前を通りかかった時、キャビネット越しに今度こそその人の顔が見えた。目が合う。……いつもどおりの、うっすら笑いだ。

 少しはじたばたしてくれたらいいのに。そしたら対等に思えるのに。今は、自分の方が一方的に振り回されてる。ちっとも同じところに立ってる気がしない。

 軽く頭を下げれば、阿部さんは左手を上げて返してくれた。

 それだけで、こんなに嬉しい。恋は偉大だ。

 カラフルで目まぐるしい世界が、ようこそと私を歓迎している。ずっと入るのを躊躇して、手前で足踏みしていたそこへ、今、小さく足を踏み入れた。


 まさか今日の夜会うと思っていなかったので、色々と不首尾だった。例えば、更衣室のロッカーに常備してある筈の汗拭きシートは切らしたまま。例えば、親に出かけると伝えていない。カフェで飲み物のオーダーを済ませてから気がついて、慌てて母にメールする。

 ――云ってなかったんだけど、今日は夕ご飯要りません。遅くてごめんね。

 送信、とボタンを押す直前で指が止まった。そして、数秒悩んでから、ものすごい速さで文字を入力して、今度こそ送信ボタンを押した。

「お待たせいたしました、アイスティ・オレです」

 ドキドキしている私の目の前に、ほっそりとしたグラスが静かに置かれた。運んできた店員さんが会釈をして立ち去るや否や、ストローをさして勢い良く飲む。


 付け加えた文章は、

 ――もしかしたら今日、帰らないかも。待ってないで、先に寝ててね。

 だった。


 何だ、私、やる気満々じゃない。やる気って云っても、その、致すことに対してじゃなくて、なんて云うか阿部さんに対してまっすぐ向かう気持ち、と云う意味合い、って、何の云い訳なんだか……。

 また、アイスティ・オレをひとくち飲む。冷たい液体が喉をすうっと通って行くから、ちょっとだけ気持ちが落ち着く。


 初めて手の甲にキスされた時から阿部さんのことを意識はしていたけど、押された分だけ自分の気持ちは引いているかもと思っていた。親しみを感じたのは、一応大学の先輩後輩だし他の人よりプライベートで接する時間が多いから、情が湧いたのかとも。それだけじゃ、なかった。

 ちゃんと気持ちは育っていたんだな。――ほら、こんな風に。


 私は、ガラス越しにその人がエレベーターから出てくるのをいち早く発見する。

 遠くから見つめていると云うのが何だか恥ずかしくて、目と目が合わないようにぼんやりと見ていた。大股でゆっくり歩くスーツ姿。何の変哲もないスーツなのにやけにピシッとしていると思ったら、弟さんがメンズ服のブランドショップにお勤めで、少しお得に買えることと、弟さんの売り上げ貢献の為と云うことで、たまにオーダーすると聞いてびっくりした。

 いつもぴかぴかの革靴は、長いこと履いていて実はけっこうくたびれてるけど履き心地が良いんだと教えてくれた。甲の薄い靴はかっこいいのに、自分は甲高なので履けないとも。丁度その話をしていた時、目の前を颯爽と甲の薄い靴で横切る男性がいて、羨ましそうにずっと目で追っていたのが可笑しかった。

 おしゃれ無造作かと思っていたヘアスタイルは、硬くてうねりのある髪を行きつけの美容院でなんとかカタチにしてもらうんだと愚痴ったので笑った。

 ――いつの間に、私の脳みそは阿部さん情報のデータベースになってしまったんだろう。


 気が付いたら、すぐ近くまで来ていた阿部さんと、ガラス越しに目が合っていた。ふ、と口元に標準装備の笑みを深くされる。もう仕事中じゃないから、心も心臓も好きにときめいてよし、と思っていたら、服の上からでも分かるくらい心臓がどきどきしてるし、阿部さんを見つけた瞬間から、それだけでもう嬉しかった。

 今日、もし思いを伝えて受け取ってもらえたら、手以外にもキスしてもらえるかな。

 とろりとした生地の黒いボートネックのワンピースは前から見るとシンプルなデザインだけど、実は背中の部分が大きく開いている。

 衝動買いしたはいいけれどなかなか着る機会がなかったそれは、たまには着ないともったいない、それだけの理由で選んで今日着て来た。今朝の自分、ナイスチョイス! と思いながら、仕事中は綿麻のカーディガンを羽織って隠していた露わな背中を、阿部さんが見て動揺するところを想像してみる。


 崖線歩きで泣き言云ってたなんて信じられないちゃんとした大人の男の人が、自動ドアから店内に入りこちらに歩いてきて、私の目の前で立ち止まる。唇にうっすら浮かべた笑み。

「遅いよ」

 あとから来た筈のその人の言葉が何を云わんとしているか、もう分かってる。

 阿部さんは私から目線を外さずに、するりと向かいの席に滑り込んだ。メニューも開かず、通りかかった店員さんに「ビール」と短くオーダーし、そしてこちらに向き直った。私も、背を伸ばす。

「ごめんなさい。すっかり出遅れちゃったんですけど、まだいいですか?」

「ああ。あれだけ攻めてて、とっくに夏だってのにそっちからのアクションなかったから、脈なしかとも思ったけどな」

「……脈なしだったら、あんなことさせません」

「いや、もしかしてセクハラとして訴えるつもりで受けてるって可能性も」

「自覚はあったんですね」

「覚悟って云ってくれよ」

 阿部さんの前にグラスビールが置かれた。

 私は呆れた様に呟く。

「ほんっと、ビール好きですよね」

 二人で出かけていて、それが昼間だとしてもビールを欠かしたことはなかった。

「この一杯で、仕事の疲れも飛ぼうってもんだ……お疲れさん」

「お疲れ様です」

 ビールのグラスと、アイスティ・オレのグラスをかちりと合わせた。

 くっとビールを半分くらい一息に飲んで、「あー、旨い」としみじみ云うので「おっさんか」とつっこんだら、「おっさんだよ、知ってるだろ」と返事が来た。

「認めてる」

「しょうがないじゃん、ほんとのことだし。で?」

 話をするのは河岸を変えてからかと思っていたので、その一撃に思わず怯んだ。

 卓球勝負の時と同じだ。――緩急つけて攻めてくるから、こっちは翻弄されるばかり。

 私は手に持っていたグラスをテーブルに戻し、腿の上に重ねた手を置いて、再び背を伸ばした。

「そう云う、モードになりました」

「詳しく」

「恋愛モードに、切り替わりました」

「と云うことは?」

「――阿部さんが、好きです」

 声が震えてしまった。

 大人、なのに。恥ずかしい。

 俯いていたら、くしゃっと髪を撫でられたのが分かった。

「やめてください、髪乱れちゃう」

「寝ぐせ髪で何抜かす」

「寝ぐせじゃないです、寝ぐせ風スタイリング!」

「何だっていいよ、触らせろ」

「……い、今までだっていっぱい、指に触ってたじゃないですか……!」

「あんなん、触ったうち入んないだろ」

 私を見る目は、怖いくらいだった。口元は笑っているのに。

「今までのは懐かせるために随分手加減してた。……ちょっと、最近はヤバかったけどな」

 私の下くちびるを、ツッと阿部さんの親指がなぞる。グロスが移って、てらてら光る指に彼の口が近づき、かすかに音を立てて吸い付いた。

 ずるい、あの唇は私のものなんじゃないの?

 そんな気持ちのまま口を尖らせていたら、優しい顔の阿部さんと目が合った。

「松田のことがずっと好きだったよ。好きな女の鼻にヒット決めといて何云うって感じだけど」

「え!」

「あれで俺もう完全に『好き』とか云えなくなったと思ってたら、感謝されるんだもんな」

「ええ!」

「うまいこと云って、デートも出来たし」

「デートじゃないし……」

「デートだよ」

 確かに客観的に見れば、女のことを好いている男と、その男を意識している女、の二人が手をつないでお出かけするのは、お達者クラブじゃない、立派なデートだ。

「男はいないし、リミットも決めたし、だんだん懐いてきてたし、これはもう完全に落ちると思ってたらなかなか云ってこないってオチだとは」

「……ご、ごめんなさい……」

「お詫びを、戴くとするか」

 手を取られて席を立った。


 私と繋いでいない側の手でブリーフケースと注文票を持ち、少し前を歩く後姿。袖口に生地と同じ色でイニシャルの刺繍が施してある長袖のシャツもオーダーなのかな。後で聞いてみよう。

 レジでお会計をする時だけ手を離されて、それからまたすぐに繋がれた。にげないのに、ともごもご云ったらどうだか、と笑われてしまった。

 阿部さんが入ってきた方の、エントランスの内側にある出入口じゃなく、外に直接出られる方の自動ドアから通りに出た。むあんと籠った熱気が腕も足も、背中も撫でる。

 狭い店内は阿部さんが先に歩いたけど、そうでない今は並んで歩く。

 肩甲骨が大胆に見えている背中を、ちらりと見られたのを感じた。それだけで、見られたところが焦げてしまうかと思った。

「――俺を挑発するような服を着てくれちゃって」

「たまたま、ですけど」

「そうなの? 効果は絶大だよ」

「なら本望です」

「本望?」

「慌てればいいって思ってました、ずっと」

「いつも心はじたばたしてるんだけどねぇ」

「ちっともそんな風じゃないです。私だけが振り回されてて」

「いや? そんなことないよ――ほら」

 シャツの胸元に、繋いだ手を導かれる。

 涼しげな顔のくせにその胸の鼓動は、私と同じだ。つまり、とても速い。

「……本当だ」

「今日は、特にね。やっと返ってきたから……気持ちが、言葉で」

 繋いだ手に一瞬きゅ、と強く力を籠められれば、心まで掴まれたようになる。

 苦しい。切ない……好き。

 何回伝えたら、待たせた分に追いつくだろう。


 再びゆっくりと歩き出せば、かつん、かつん、とヒールの音が舗道に響く。


「どこ、行くんですか」

 あさましい期待を、してしまう。

 そんな私とは裏腹に、隣に立つ男は泰然としている。

「ん? そうだね、まずは松田をまた餌付けしようかと」

「餌付けって」

「食いついたくせに」

「そりゃ、食いつきますよ。阿部さんの連れて行ってくれるお店は、どこもおいしいから」

「だろ」

 ……あさましい期待をした分、余計に恥ずかしい。なんで、追われてた筈の私がこんなに焦燥感に駆られていて、なんで追ってた筈の阿部さんの方がこんなにあっさりしているのか。

 その欲望を追い出そうと頭を横に振れば、寝ぐせ風スタイリングなショートボブの間で、しゃらん、とロングピアスが揺れた。


 告げられた店の名は、前に二度ばかり阿部さんに連れられて来たことのある、ホテルの中の鉄板焼きのお店だった。湾岸の埋め立てエリアに建てられたそこには、モノレールを使って行っていた。今日もそれに乗る。

 タイミングよく待たずにやってきた車両へ乗り込むと、いつもは混んでいるその中ががらんと空いていた。

「貸切ですね」

 嬉しくて、珍しく空席の一番前、ひと列だけ離れて据えられた展望席を目指して歩く。

 席の背もたれの角に手を掛けたところで、肩を逆手で引き付けるように軽く抱かれ、背中に唇を押し当てられた。

 予期せぬ攻撃に、必要以上にびくりとしてしまう。

「阿部さ……」

「……悪い。我慢できなかった。これは、食後に」

 一日働いて汗もかいているそこに唇をつけたまま話され、仕上げにぺろりと舐められた。

 それに過剰に反応すれば、うっすら笑った息を背中に感じた。肩を両手で包まれて誘導され、展望席に座らされる。

 せっかくの展望席も、あんなことをされたあとでは夜景を楽しむどころではない。阿部さんは隣には座らず私の席の背もたれの後ろに立ったから、顔を見て笑われないのが救いだった。

 貸切だったのはほんの一駅だけで、次の駅からはどっと人が乗り込んできた。

 そのうち、いかにも鉄道が好きそうなちびっこがこちらにやってきたので席を譲り扉の方へと移動したら、座っていた時と同様、立っている私のすぐ後ろに何故か阿部さんも立つ。

「阿部さん?」

「ん?」

「何で、後ろに立つんですか」

 扉のガラス越しに目を合わせてそう聞くと、少しだけ眉を寄せ、後ろから覆いかぶさるようにして耳元に囁かれる。

「その背中をこの狭い車内で至近距離から他人に見られたくない。松田、自分で見ないから分かんないだろうけど、真っ白な背中にポツンと一つだけ黒子があるんだよ」

 さっきキスしたところ、とそれだけさらに息で囁かれる。

「その背中を見た男は、服の下も想像する。俺みたいに。だから俺、他の奴に見せないの」

「そ、それは、ありがとうございました……?」

「イエイエ」

 モノレールは緩いアップダウンを繰り返しながら、まっすぐにそのホテルの最寄駅へと進んでいく。

「到着」

 ――降りる時、その黒子を隠すようにか、背中に手を添えられた。


 やっぱり今日も美味しいそのお店でまたビールを傾ける阿部さんに、「松田は食べてる時が一番幸せそうだなあ」と笑われながら鯛のカルパッチョや、伊勢海老のバター焼きや、和牛のステーキ、などなどを戴いた。

 恋心を自覚した当日だと云うのに、今まで同様ものすごくリラックスして平らげた。女として、どうなの。まあ、阿部さんが引いていないなら、いいか。


 梅酒をちびちびと飲んでいる間に、そう云えばまだ待たせたお詫びをしていないと気付いた。

「阿部さん」

「んー?」

 阿部さんは珍しく途中から日本酒の冷やにお酒を変えていた。ビールの時よりゆったりと飲んでいる。

「お詫びって、何をすれば」

「ああ」

 くっと杯を煽って、静かにテーブルに置いた。そして、私を見る。

「松田、まだ食い足んない?」

「阿部さんの分のシャーベットももらったし、満足ですよ」

「そうか。俺は、食い足んないな」

「あ、じゃあ何か頼みます?」

 店員さんを呼ぼうとした手を、捕獲された。

「阿部さん?」

「つまみ食いしかしてないから、いい加減ちゃんと松田を食べたい。――食わせろ」

 そう云って、指先を軽く食まれた。そっちの『食い足んない』か。

 ストレートなんだかひねくれてるんだかわからない物云いに、こっちも同じように返してしまう。

「食当たり起こしても知りませんよ」

「さっき味見したけどちゃんと美味しかったから大丈夫」

「お残しは駄目ですよ」

「嫌だって云ってもおかわりしてやる」

「リピーター以外はお断りなんですけど」

「よそに行く気はないし、毎晩だって食う覚悟だよ」

 あ、負けた。

「それじゃあ、……、召し上がれ」

 最後の意地でやっぱり素直じゃない肯定の言葉を初めて返せば、阿部さんも初めて見る甘い笑顔で言葉をくれた。

「遠慮なく、いただきます」


 いつものようにいつの間にかお会計は済まされていて、今までであれば河岸を変えて飲みに行くなり、解散するなりでエントランスに向けて下降していたホテルのエレベーターは、フロントを経由した後、二人を乗せて初めて客室フロアへと上昇した。

 遠慮なくと云った通り、今までのジェントルな距離をかなぐり捨てた阿部さんは、「これ以上他の奴に見せたくない」と私にカーディガンを羽織らせ、それから大きな手で肩を抱き寄せて歩いた。前をホテルマンが歩いているのに。

「そんなに近いとうっかり阿部さんの足を蹴っ飛ばしそうで怖いんですけど」

「いいよ」

 そんなやり取りだけして、後は二人とも黙ってしまった。

 他にもたくさんの人が泊まっている筈なのに、どうしてホテルの廊下ってこんなにしんとしているんだろう。心臓の音が響くんじゃないかと思うほど静かだ。

 私も阿部さんも無口なまま、その部屋に辿り着いた。


 部屋まで案内してくれたホテルの人が部屋の中や非常口について説明をして出て行くと、ようやく阿部さんは私を解放し、歩きながらジャケットのボタンをどんどん外していった。窓の方に据えてあるテーブルセットまでたどり着けば、ジャケットを脱いでぽいと椅子に放り、ネクタイをむしってそれもジャケットの上に投げる。

「もう」

 せっかくのオーダースーツが台無しだ。

 私はジャケットとネクタイを手に取ると、クローゼットまで歩いてハンガーに掛けた。ついでに、脱いだばかりの自分のカーディガンも。

「これでよし」

 呟いて扉を閉め、椅子の方に戻ろうとすれば、思いのほか近くに阿部さんがいて驚く。

 壁に寄り掛かって、反対側の壁に手をついて、私を見ている。狭い通路でそうされていたら、押しのけて向こう側に行くのは難しそうに思えた。そうする気も、なかったけれど。

「背中を、見せて」

 その言葉を素直に受け入れて、私はゆっくりと阿部さんに背中を向けた。

 クローゼットの扉はそのまま鏡になっているから、横向きの自分と近づいてくる阿部さんが視界の端に見える。

 あと一歩、のところで阿部さんは歩を止めた。そして、す、と手を伸ばし、指の腹で背中を撫で下ろした。そして今度は指の背で来た道を逆に辿る。

「すべすべ」

「……くすぐったいです」

「松田、くすぐったがりな子?」

「耐性は低いですね」

 交わす会話は呑気なものだけど、セクシャルな手つきは変わらない。

 大きな手で触られたところから、痺れのような熱のような何かが次々に生まれてくる。耐え切れず、はあ、と息を吐けば、思いのほか色を感じさせる声になった。

「誘うねー」

「誘われて、くれます?」

 肩越しに伺えば、欲を隠さない目に囚われた。

「勿論。――こっち向いて」

 そう云いながら、私の腕を緩く掴んで自分の方に向けさせた。素直な体は回転ドアみたいにくるりと反転した。

「松田から、キスして。それが、お詫び」

「それってお詫びですか」

 一歩近づけば、もう阿部さんの腕の中。

「俺が詫びだと思えば詫びだよ」

 その手が、今度は私の頬と顎を撫でる。

「出た、阿部イズム」

 ――あんなに指先や手にキスをされていながら、唇を合わせるのは今日が初めてだった。

 女の子みたいなことを云う阿部さんのことだ、きっと、『ちゃんとしたキスは、思いが通じてから』とか思っていたに違いない。


 一回目は、静かに。

 二回、三回目は、啄むように。

 四回目以降は、カウントする余裕を失くして、互いの唇を貪った。

 背中に直接阿部さんの手が触れる。私も、そのシャツの背中に両手を回した。



 その後のことは、恥ずかしすぎて思い出すたび挙動不審になる。

 て云うか、恋人の目もキスも何もかもが甘くて、いつまで経っても慣れやしない。週末ごとにこうしてお部屋にお邪魔していても未だにじたばたする私を、晴れて恋人になったそのひとが、「いい加減、慣れてくれてもいいんじゃないの?」と呆れながら缶のままのビールを飲んで笑う。

「もう、昼間っから」

「それも、いい加減慣れて」

 するりと、Vに深く開いた胸元に、缶を持ってない方の手が白昼堂々入ってきた。

「ちょ! ダメ! 駄目だったらっ!」

「――こないだ卓球勝負した時、『負けた方が、勝った方の云うこと一日聞く』って云ったろ?」

 その口元の笑みが、憎らしいったら。

「――まだ、昼間、なのにっ」

 これからおそらくいいように鳴かされてしまうであろう私は、次こそ卓球勝負で絶対負かしてまた崖線歩きで泣き言云わせてやる、と早々に報復を誓った。



「夏時間」内26話に前日譚があります。


14/07/27 誤字修正しました。

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